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夜、あまりにも強く柑橘系のにおいが香るものだから眼が覚めた。それに胸が騒ぐ。とても眠ってなんかいられない。ぼくは寝床を抜けだすと、庭を散策した。
アイハラが指摘したとおり、ぼくらの一族は先祖代々、この土地にすんできた。かといって、なにか遺跡めいたものがあるわけではない。だが、この荒れ果てた庭からは、鳥の卵のような楕円形をした石が無尽蔵に発掘されるのだ。
庭を逍遥するうち、闇に閉ざされているにもかかわらず、その石だということはすぐにわかった。なぜなら、他の石とはちがい、ここにあるようで「ない」石だったから。たぶん、これは幽霊の石。ぼくは膝を屈めると手にとった。拾い上げられた石の方でもぼくのこと、待っていたようなのだ。
すると。
石は橙色の焔となり、暗がりのなか、まるく燃え上がった。罅がはしり、メリメリ音をたてて割れ、てのひらの上に雛が踊りでる。火の粉を散らしながらころがり、落下した。雛はいつしか成鳥となり、やがてユーリへと姿を変えた。
「こんばんは」
彼女は、はにかみながら言う。
「どうしてここに?」
声が掠れた。こうなることはわかっていたのに、ぼくは激しく動揺していた。ユーリはそんなぼくをみて、くすりと笑った。
「もうあたしはここにはいない。きみだって知っているでしょ。あたしが雲の上の国へとむかって旅立っていったことを。ここにいるあたしは置き手紙のようなもの。きみにお別れを告げるための……」
「どういうことなんだ? ぼくにはわからない。教えてくれないか?」
だいたいのアウトラインは把握しているつもりだった。でも、ユーリの残像がせっかく、ぼくのためにあらわれたのだ。彼女の口から直接、話をききたい。
涼やかで甘酸っぱい柑橘系の印象を振りまきながら、まばゆい橙色の残像は石の卵の起源について語りはじめた。
……むかしむかしのことでした。魔法つかい同士の戦争がありました。
火、水、土、風の四元素のうち、空気の精霊シルフを祀る陣営と、かたや土を祭祀する者たち、いわばコボルトを信奉するグループのあいだで、いつ果てることのない戦いがはじまったのです。人々はこの戦いを、風と土の戦争と呼びました。
エグチ。きみが石が卵じゃないか、と考えたことは正鵠を射ていたよ。
シルフの陣営が武器としてもちいたのは、だって風にしたしむ鳥類だったから。
鳥は土の眷属につぎつぎと襲いかかり、めざましい戦果をあげていった。
でも、コボルト系術師たちだって黙ってはいない。間髪をいれず飛来する武器としての鳥を、彼らの魔法は石の卵へと変えてしまった。
風と土の戦争は愚かにも千年ものあいだつづけられた。そして或る日のこと、ひっそりと、それが終わったことなど誰も気づかないうちに終熄した。
戦いは終わり、元素間抗争的な意味あいをもった諍いの記憶は失われた。でも、失われなかったものもある。それが何かわかる?
「古戦場跡だ」
ユーリの問いにぼくはこたえる。
荒涼とした庭は、むかしむかしの、今の文明が勃興する遥か以前の古戦場跡だったのだ。だから、少し土を掘っただけでも、石の卵に変えられたそれが、おびただしく発掘される。かの術師たちは、もてる力を存分に揮い、シルフの陣営をさえ丸ごと石に変えてしまった。それでも風の一族は戦いをやめようとしない。性懲りもなく鳥を召喚しつづける。しかも千年つづいた戦争だ。どれくらいの数の鳥たちが石に変えられてしまったことだろう。そのことを思うと気が遠くなる。
つまりはこういうことだ。ぼくはきっと魔法つかいたちの末裔なのだ。それも先祖代々、戦争の記憶を欠いたまま、石の卵とこの土地を守りつづけた一族の最終ランナーなのだ。
「きみは鳥じゃない。人間だろ?」
ぼくの言葉は弱々しかった。
「ううん、鳥だよ」
「でも」
「あたしは鳥と魔法つかいとのあいだに生まれたハイブリッド。より高度な兵器としてつくられた。戦うことなく、ずっと石の中に保存されてきたの。いわゆるアイノコ、鳥人間ね。でも、人であることをやめ、鳥へと戻る。鳥へと戻るには契約が必要だった。恋の力で縛られていたから恋の力で解放されなくてはならなかった」
「アイハラか?」
ぼくはやっとのことで言葉を吐きだした。きっと、アイハラもまた魔法つかいの末裔か何かなのだろう。ただひとつ。彼とぼくとの相違点は、彼が何らかの目的をもって活動しており、魔法の力を行使しうるということだった。ぼくにはそれができないし、知識もまた絶望的に不足している。
「そうだよ。アイハラだよ」
「でも、なぜアイハラなんかに?」
「きみはあたしのこと、知ってる?」
唇にわずかに嘲りの笑みをふくませながら、ちいさく首を傾げてみせる。ぼくは胸を衝かれた。そう、ユーリとどこではじめて会ったのか、思い出すことができない。なぜ好きになったのかも。
「もうあたしはここにはいないし、アイハラとの契約も切れた」
え、と思うまもなく瞼を閉じたユーリが唇を近づけるとぼくとキスをした。
「ちっちゃかった頃のエグチ、あたし、知ってるよ。君が誕生するよりも先に、石からあたし、孵化しちゃったんだ。この庭から掘り出された石だった。アイハラの家系につらなる者がこっそり、エグチの一族に黙って発掘しちゃったらしい。最初は鳥として生まれ、それからは人間の姿カタチとなって、エグチの知らないところで暮らしたんだよ。エグチは憶えていないだろうけどね。あのね、あたしの方から先にエグチのこと、好きになったんだよ」
そっ、と離れるとユーリはいった。
オレンジの焔は消え、ユーリと鳥はどこにもいなくなった。
だが、とぼくは思った。
映画はまだ終わってはいない。
コトバによる映画のエンドロールはまだスクリーンには流れていないのだ。
ぼくにはまだすることがあった。それをしないうちは映画を終わらせることはできない。