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 講義が終わったあと、ぼくは常にそうしているようにユーリをお茶に誘った。

 いつだってぼくらは当たりさわりのないこと、たとえば本とか映画のことをとりとめなくおしゃべりし、夜がくるまえには帰る、といったスタイルの交遊関係をつづけてきた。

 これまでにもアイハラについてや、鳥にかんして話をしたことはない。

 喫茶店で一緒に時間を過ごす機会が多かったから、恋人同士みたいだね、と勘違いされることはしばしばだったけど、ユーリはぼくが彼氏でないとキッパリ否定している。ユーリが彼女であればどんなに良いことか、と思っているぼくだけど。

 ぼくらが行ったのは、Orange Cafeというお店だった。

 ガラスがふんだんに使われているから店内は明るい。オレンジがシンボルカラーであるにもかかわらず、橙色の配色はむしろ少ない。テーブルクロスの一部分や什器じゅうきなどにワンポイントで使われている程度だった。だからこそ逆に色彩としてのオレンジが香るかのように鮮やかに引き立ってくる。メニューを手にとると開いた。タルトにパウンドケーキ、いずれも素材にオレンジをふんだんにもちいたスイーツの写真が眼を愉しませてくれる。それからゼリーにシャーベット、スフレもある。やはりお店で一番人気といえば、しぼりたてのフレッシュジュースだ。

 でも、ぼくたちはこの日、フレッシュジュースは注文しなかった。オレンジピールにビターなチョコレートをかけて冷やしたスティック状のお菓子をつまみつつ、紅茶をきっした。

「あのね」

 とユーリはいった。

「あれ、たぶんほんとうのことだと思うよ」

 ぼくはついさっき、自分が目撃した衝撃的現実を、やはり心のどこかで信じることができずにいた。だから、もしかしたら、あのことは真っ赤な嘘だったんだよ、と彼女にはいってもらいたかったのかもしれない。

 でも、アイハラは空に消えてしまった。

 警察に届けなくてもいいんだろうか。でも、届けたところで、この摩訶不思議な現実をいかに説明すべきなのか途方に暮れる。天空から垂直にたれ下がるロープにつかまると、空に吸い込まれるようにして消えていった若い男のストーリーをどんなふうに物語ればよいのだろうか。ぼくは頭を抱え込んでしまった。

「行方不明なんかじゃないよ」

 ユーリは紅茶のカップに唇を近づけ、ひとくちすするといった。「だって数日したら戻ってくるもの」

 ぼくは激しく混乱していた。

「戻ってくるって? じゃ、きみはアイハラがどこに行ったのか知っているとでもいうのかい?」

「知ってるよ」

 こともなげにいう。

「どこにいったの?」

「雲の上の国だよ」

「雲の上?」

 ぼくは眉をひそめた。

 ユーリはぼくの恋人ではもちろんなかったが、しかし、異性の友人としては仲よくお喋りする間柄だったと思うのだ。秘密をシェアしている、そんなくすぐったい共犯関係めいた感情すら、うっすら芽生えかけていたと思っていた。だから雲の上の国、といった初耳なタームにたいし、淋しさと嫉妬を感じた。結局のところ、ぼくは蚊帳かやの外に置かれていたことをあらためて実感させられたのだ。

「契約だからね、だから黙っていたの」

 ユーリはさらに思わせぶりなことをいう。

「契約?」

 って、何の契約だ。

「恋人の契約にきまってるじゃない」

 チョコをコーティングしたオレンジピールをつまむと、ぼくとそれとをかわるがわるみつめる。

「え、アイハラと?」

 ユーリは微笑みを浮かべると、こころもち首をすこし傾けてみせた。そしてピールのはじっこをかじると、おちょぼ口になる。まるで、――え、もしかしてエグチ、そんなことも知らなかったの、とでもいうふうに。

「知らなかったよ」

 と、ぼくは正直に告げたものの、ユーリがアイハラと取り交わしている契約の内容については皆目、どんなものなのか見当すらつかないのだった。

「うーん。誰が誰を好きなのか、すぐにわかるとは思うんだけどな。うん」

 ユーリはわざとらしくうなってみせると、腕ぐみをしていった。

 この言い草からすると、――もしかしたらぼくにも希望が、と妄想をたくましくするが、誤解を招きそうな彼女のこんな態度に幾度、煮え湯を呑まされ、糠喜ぬかよろこびをしてきたことか。なので、やはりどうしたって慎重にならざるを得ない。

「それってどういう契約なんだよ?」

 ぼくの口調は、とてもぶっきら棒なものだった。

「恋人の契約だよ」

「ほんとうの恋人の?」

「ちがう」

「じゃ、キスとかした?」

「それは言えない」

「で?」

「うん。契約の代償があるの」

 聴きたくないな、契約の代償って。

 とりわけユーリが支払わされたものに対しては耳をふさいでおきたい。だが。彼女も心得たもの。アイハラが何を要求してきたかについては一切語ることはなかった。それはこのあと、まったくの秘密になってしまい、ぼくはだから、これ以降の人生、妄想と詮索せんさくの人になってしまうのだけど。

「あのね、アイハラって笛吹き男なんだよ」

「笛吹き男って 、あのハーメルンの?」

「そ。ハーメルンとは実際、何の関係もないんだけどさ。……うん、でも、そう。それとおんなじニュアンスの」

「笛吹き男は、どこへ連れてゆこうとするのさ?」

 と訊いたが、すぐに思いいたった。ぼくの顔色が変化したことをユーリは見逃さなかった。だから、こういったのだ。

「あたり。エグチの考えたとおり、雲の上の国だよ。あたし、彼と一緒に雲の上の国にゆくの」

「なんのために?」

「そんなの、秘密にきまってる」

 彼女はいたずらっぽく笑うと、椅子から立ち上がった。店をでてゆこうとしていることに気づくのに三秒ほどかかった。慌てて伝票をひっつかむと、ユーリを追いかけた。支払いを済ませ、カフェをあとにする。

 迷子になってしまいそうな小みちがうねりながらつづいている。小みちのかなた、視線の消失点でユーリは、今まさに消えようとしていた。


 消える。

 消える。

 消えてしまう……。


 塀をめぐらせた上の空間を、ーーまだ桜はつぼみのままだっていうのに、桜色の靄がかかり、たなびいている。この白くハレーションする空間のさらなるむこう、ユーリは消えてゆこうとしている。さっきまでふたりが一緒にいたオレンジ色の店のアトモスフィア、余韻だけをかすかに残し、彼女はぼくの手から逃れようとしているのだ。

 追いつかなければ。

 ふと塀の上をみると、つぼみだった桜が花ひらいている。

 風がわたり、花びらがピンクがかった吹雪となって舞い、吹きすさぶ。

 やっと追いついた。ユーリの腕をつかむと、ぼくの方に振りむかせる。

 彼女の赤い唇に花びらがいちまい、張り付いている。そっとがす。

 瞳はうるんでいる。

 ぼくは彼女とキスしようとしたが、女の子は涙を流した。

 驚いたぼくは力をゆるめる。と、ユーリはするりと逃れ、曲がり角を折れると今度こそほんとうに消えてしまった。


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