⒉
その日もやはり、鳥の群れが空を旋回していた。これが今日、ぼくたちに示された符牒なのかなと思い、それをしるしに指定された集合場所にむかって歩いていく。
ぼくは出会った。鳥のざわめく空の下、ひとり佇むアイハラと。
指定された場所とは、土手から降りてしばらく歩いたところ。淋しげな場所だった。ぼくらは春の河原にいる。草が芽吹く気配はない。春はまだ寝呆けながら瞼をごしごし擦っている状態だ。それにしても、とぼくは空を見上げる。耳を聾さんばかりに騒ぐ鳥の声。
アイハラが口をひらき、なにごとかを囁いた。耳とともにアイハラに注意をむけ、ぼくは彼の声を聴こうとした。
でも、鳥のざわめきに遮られて聴こえない。
「なに?」
アイハラがもう一度、いう。今度は明瞭な声となって聴こえた。
「何日か経過したあとの鳥だ」
何日か経過した?
どういう意味だ?
「なんだ、経過って」
アイハラはそれにはこたえず、上空で騒ぐ鳥を指で示した。
「鳥よ、去れ」
呪文をひとこと、発する。たしかにぼくらは風変わりな大学の学生であったが、魔法学校で学んでいるわけではない。しかしアイハラが放った呪文らしき文言の効果は覿面だった。鳥が消えたためか、空はにわかに明るくなった。
ふと、グリーンの色をした一羽の小鳥がアイハラの肩の上に舞い降りる。
と、鳥はきよらかな声で朗々《ろうろう》とうたった。
「春がきたよ、とうたっているんだ」
アイハラが無表情な声でいった。
「春がきた?」
「うん。よろこんでいるんだよ」
そういったきり、彼は口を噤んだ。
やがて鳥も飛び立ち、ここいらはすっかり静かになった。いよいよ静謐がピークにまで昂まり、きつい。誰かこないかな? アイハラの恋人、ユーリもここにはいない。
ユーリとアイハラ。
奇妙なことに彼らは恋人同士だというのに、いつだって一緒にいたためしがない。それにしても。ユーリがここにいてくれたら救われるのに、とぼくは思った。
実はアイハラは、ぼくにとって怖すぎる存在だった。アイハラが醸す沈黙が怖いのか? そうかもしれないし、ぼくがたんにアイハラを過大評価しているだけなのかも。
ここが符牒で示された場所であるなら、ぼくとアイハラは動くことはできない。ユーリはまだ到着していなかったし、他に人がやってくるまでアイハラの沈黙と一緒に佇んでいなければならなかった。
「この場所でいいのだろうか?」
符牒が空の上にあきらかに示されていたが、ぼくはアイハラに訊いてみることにした。
アイハラは黙っている。ぼくはもう一度、口をひらかなければならない。
「今日の教室はここでいいのだろうか?」
手肢が長く、ほっそりとした草っぽい雰囲気、しかもくっきりした二重瞼のきれいな男子、アイハラがじつにスローな動作でこちらに顔をめぐらせる。
癖っ毛のつよい栗色の髪の毛のあいだから表情のない眼がぼくのこと、みている。返事がもどってくるまで、ずいぶん待ったような気がする。
「ああ、そうらしい」
アイハラの言葉は石の礫だ。重いし、そいつで殴られれば痛い。
でも、あとほんの僅かの辛抱だ。もうすぐ授業がはじまる。ここが今日、大学が出没する場所なら、三々五々、それぞれの日常に顕現するしるしを道案内にし、この荒涼とした河原に人が集まってくることだろう。
というのも、この場所が本日、空気的な大学になるはずだった。エアな、というのは、校舎が存在しないという意味だ。すなわち、ふいにあらわれては消える幽霊みたいな大学。そうしてこの実態ゼロの大学で、ぼくをふくめ、ここに集まってくるみんなは映画づくりを学んでいる。開講をしらせる符牒に誘導され、集まることが可能なら資格は問われない。誰でも学生になれるし、すぐさまやめることだってできる。
大学は神出鬼没だ。
雲や雨などの自然現象としてあらわれるしるしをみて、どこで授業がおこなわれるかを探りあてなければならない。そうして、このようなランダムな出現ぶりにについてこられる者、それこそが敢えていうなら、この大学の学生の資格といっていいだろう。
授業風景はこんなふう。
小学校の屋上に大学があらわれたときには、「被聖母昇天」さながらに空中に挙げられる少女を観測する、量子力学的映画の授業がおこなわれたことがあった。また市民プールのプールサイドにこっそり忍び込んだときには、鏡と化した水面に現実の星空を映しだし、ナマなプラネタリウムをみながら教鞭を執った教授もいた。さらに深夜の水族館では、発光するサカナやクラゲを光源にして自主制作された映画が上映される、なんてこともあった。
大抵、ふいにあらわれる大学に集まってこられるのは、暇を持て余し気味にした二十歳前後とおぼしき映画好きの男女と相場はきまっている。
けれども時に老人の姿が混じっていたり、それ以外にも、――登校途中なのだろう、小学生の女の子が戸惑いながらも、ぼくら学生の集団に迷い込んでいることもあった。
やがて、ポツポツと人が集まりはじめたのでぼくは安堵した。固定メンバーもいたし、新顔もいた。新しいメンバーのなかには、スケルトンになった水鉄砲を右手からだらりと提げた高校生の女の子がいた。
オレンジの、――柑橘系のにおいが鼻腔をくすぐった。頬をピンクに染め、若々しく華やいだ娘がぼくの横にならんだ。ユーリが遅れて到着したのだ。彼女は恋人のアイハラではなく、ぼくの傍らに寄り添った。
だからといってアイハラは嫉妬するふうでもない。
ユーリもまた恋の鞘当てをするといった感じで、ぼくのこと、利用しているわけではなかった。とても自然に彼女とぼくは一緒にいる。これがいつもの彼らとぼくの奇妙な交遊スタイルだった。