第6話――想起
『うおおぃ、あたしだー。モチダだぞぉー! ワタナベー! 生きてたらぁー、返事しろぉおおおお!!』
留守電の内容から間違いないと俺は確信を持った。この如何にも社会に適合出来なさそうな発言は俺の犬儒派倶楽部の憧れ(?)の先輩・持田カノンである。
持田先輩との出会いは中学生の時まで遡る。高校見学の際に部活動を見て回り、テニス部やサッカー部など、ああ俺とは縁が無さそうだななどと思っている時に道端で非常にルーズな格好をした彼女を見たのだ。
彼女は「眠いから」という理由だけでそこに寝ていた。どうしてこんな道端で寝るのですかと俺が問うと、彼女はけだるそうに云った。
「どうして生きるのかもわからないのに、どうして寝るのかがわかるものか」
哲学的な答えであった。彼女は続けた。「若者よ、どうして生きてるのよ。死んだ方が楽かもよ」
あなたも若者じゃあないですか! では先輩はどうして生きているんですか、と問うと(今にして思うと質問を質問で返すのはどうかと思うが)彼女は答えた。
「わからない。ただ死んでいるのは楽だけど、死ぬことは大変だよ」
如何にも眠そうに返答した。
俺は、たぶんこの先輩が結構な美人であるということもあるが、活動的な他の部活よりもこの犬儒派倶楽部というヘンテコな部活へと入部することに決めたのだ。しかし彼女は会った時には三年生だったようで、俺の入学と入れ違いに卒業してしまった。
それ以降ちょくちょく見かけては声を掛けたり軽く話しかけたりするもののそこまで深い付き合いにはならなかった。しかし一度関わってしまえば二度とその存在を忘れることは出来ないだけの存在感を持っていた。
番号交換した覚えのない持田先輩がどうして自分に連絡出来るのかひどく疑問に思ったが、仮にも憧れの先輩からの「返事をしろ」との要求を無視するわけにはいかないのである。そもそも犬儒派倶楽部の鑑である持田先輩が誰かに何かを要求するという事態がおかしいのだ。
「持田先輩は俺のクラブのOGで模範的な犬儒派部員だ」
『そうなんですかー。それにしてもケンジュハクラブなんてヘンな部活動ですねー? 普段何やっているんですか?』
主な活動内容は昼寝と日向ぼっこである。理想とする人物像は野比のび太だ。彼は常人にはとても思いつかない数々の名言を残している。
履歴から持田先輩へかけなおすと大体10回ほどコールしてやっと繋がった。が、それから20秒くらいの間をおいて持田先輩が電話に出た。
「もしもし」
『おお! ワタナベ。生きてたのか。死んでたと思ってたぞ』
随分と大げさな物云いである。「先輩、そんな大げさな。生きてますよ。そうそう簡単に人は死なないですって」
『いやいや渡辺くん。あれのせいで大変だったじゃないか』
例の異変のことだろうか。どうやら先輩は俺の事を心配してくれたようである。憧れの先輩がそうしてくれたことに少し嬉しさを感じた。
「心配してくださってありがとうございます。でも俺は大丈夫です」
『そうか。そういえば辻堂はどうした?」
嬉しさという感情は一瞬にして冷たいものへと変わった。
どうも、辻堂というワードは俺の中で禁忌になっているらしかった。トラウマとでも云うべきであろうか。
彼の名前を聞く度に――思い出す度に――あのケロイド状になった顔が脳裏にこびりつくのだ。
はと現実に戻って今持田先輩に問いかけられていたのだと思いだす。云うべきか。云うべきだろう。「辻堂は……その……」
『……そうか。わかった、残念だ』
彼女は最後まで聞かずに、その内容を察したようであった。
『そうだ、渡辺。今どこにいる?』
先輩の質問に俺は「自宅ですよ」と答えた。
『自宅』と持田先輩は云うと『自宅』と繰り返して飲み込んだ。
『渡辺。大変かもしれないが、あたしを迎えに来てくれ。場所は奥秩父――』
「えっ?」
そのまま電話は途切れた。途端に俺は途方に暮れる。
――ちょっと待て。奥秩父だって?
俺の記憶が正しければ山奥である。しかも広い。そして絶望的な事に異変によって生じた壁で向かうことは不可能である。俺は確認のため先輩に掛け直したが彼女は電話に出なかった。寝ているのかもしれない。
いったいどうして先輩は奥秩父にいるのだろう。あの先輩の事を謎だ謎だと思ってはいたが、今回の事も謎である。
『迎えに行くんですかー?』
「いや無理だろ。壁もあるし」
それに姉を置いてはいけない。いくら憧れの――最近は怪しいが――先輩とはいえ、大切な家族を心配させたくはないのだ。
その日は配給切符を持って米を手に入れ、長蛇の列を待って野菜を買った。家に帰るとくたくたになって帰ってきた姉に昨日と同じメニューを作って食べた。あのレタスチャーハンである。既に俺の中でレタスチャーハンは立派なレパートリーの一つとなっていた。
そうして我々は風呂に入ったり歯を磨いたりといったルーティンワークをこなすと、いつもと同じように布団にもぐり、眠りについた。
その日の夜、俺は不思議な夢を見た。
空は紫色に曇っていてどこかおどろおどろしい中、目の前には異形の怪物たちがひしめいている。頭が魚やヤカンとかチーズで出来ている、シュルレアリスムの絵画に江戸時代の妖怪を登場させたような奇天烈な連中だ。妙に陰影のリアルな彼らだが如何にも夢の中といった感じなので夢の中の自分も、ああこれは夢の中なんだ、と思った。そんな俺の右手にはスマホが握られている。
となりには私服の持田先輩がいて、俺と同じくスマホを持っている。彼女が砕けたアスファルトの比較的無事な部分を蹴るとそのままオリンピックに出場出来るくらいの跳躍をした。そしてスマホをかざすとそこから旋風が吹き荒れ、その動作にタイミングを合わせて俺はスマホから火を放った。
赤ん坊と戦ったときとは比べ物にならないほどの業火である。目の前でひしめいていた妖怪たちは一瞬で焼き尽くされ、正しく地獄絵図と化した。
そんな中上空を、巨大なコウモリに両生類を混ぜたような翼竜が頭上にて旋回していた。俺と先輩めがけて突っ込んでくるそれに俺はスマホをかざすが、炎を出す前に何者かに撃墜された。
背後を見ると、そこにいたのはなんと辻堂であった。
辻堂はスマホを使って二機の人工衛星のようなものを器用に操り、衛星から出すビームで後方から俺らを援護していたのだ。
俺は、焼かれている妖怪どもの向こう側にいる人物に向けて叫んだ。何を云ったのかはわからない。この夢には音がないのだ。しかしそれは怒りか、何かに駆られるような叫びだった。
視界を炎が埋め尽くす――夢はそこで終わってしまった。
『……きて……ださい』
まどろみの中、甲高い声が頭蓋に反響する。眠い。ああ、俺を起こすのは一体何者だ? 姉ちゃんか? いや、姉は決してこんなアニメ声ではない。もっとアルトな声なはずだ。
目を覚ますと目の前には誰もいなかった。俺は恐怖を感じた。
のだが。
『マスター。云われた通り8時に起こしましたよー』
うわっ! と間抜けな声を上げ飛び起きた。その拍子にベッドから落ち、フローリングから手酷い攻撃を食らう。強かに打ちつけた腰をさすっていると、俺は徐々に冷静になっていった。
スマホの中でサポートアバター ――アルケー――は首を傾げた。林檎のように赤いおかっぱで四頭身、そして多くの二次元キャラクターがそうであるように目は大きく、口は小さい。鼻に至っては正面から見ると点である。服装は赤を基調としたスカートだが、そのデザインはどこの文化圏だかまったくわからない。まるで東欧と南米の民族衣装を混ぜたような印象を受けた。
俺は思い出した。たしかこいつに8時に起こしてもらうように頼んだのだった。彼女は律儀に約束を守ってくれたのだ。
「……おはよう」
『おはようございますマスター!』
赤い少女は元気に挨拶をした。
「姉ちゃんはもう出た?」
『とっくに出ましたよー」
「そうか、ありがとう。先輩から連絡はあった?」
『今のところ誰からも着信はありませんねー」
電話帳に載っている名前が少ないのだから当然と云えば当然であるが――哀しきかな。着信ゼロ。溜め息をつく俺の事を、折角起こしたのになんだと云いたげなアルが見つめていた。