第4話――火炎
突然後ろから掴まれたことでバランスを崩し転倒しかける。
――何者だ?
いつの間に後ろに回られたのか――パニックになる。殺られる!
だが肩を掴んだ人物を確認すると、急に力が抜けた。見慣れた濃紺の制帽と制服――警察官である。
彼は「危ないから下がりなさい!」と乱暴な口調で言い放つと、無線で連絡をとった。俺は腹が立ったが、彼らからしてみれば突然の事態にパニックに陥ってしまい、逃げ遅れた高校生と思われたのであろう。
――そうだ、別に俺が戦う必要なんてないじゃないか!
何が俺をこの場に駆り立てたのか――などと俺は雰囲気に酔ってしまったのだろう。アルがさも戦うのが当然のように云うからそうなってしまったのだろう。そもそも治安の維持は彼らの仕事である。仕事を奪うのはよくない。
ふと見ると数人の警官が両手で拳銃(銃には詳しくないから断定できないが、リボルバーのようだ)を構え、動きの遅い赤ん坊に向かって近づいていた。
俺はどうかしていたのかもしれない。赤ん坊のスピードからすれば勝てる勝てない以前に逃げることができたのだから。
警官らが拳銃を構える一方赤ん坊はと云うと、銃を玩具か何かだと思っているのか警官たちを見て「きゃっきゃ」と笑っている。
「おい見るな」
と警官は俺に云った。
若い警官である。制帽で髪型は判らないが普段はツーブロックにしているのか耳周りを刈り上げている。目鼻立ちはまぁまぁ整っていて、真面目そうな表情でこちらを見つめた。
実は俺は警官が苦手である。別にこの警官がモホモホしいからというわけではなく――疚しいことをしていないにも拘らず、視界に入ると何となく気になってしまうのだ。それに中学時代、防犯登録で何度呼び止められたことか。「任意ですよね?」と当時覚えた呪文を唱えたが全く効き目がなかった。
俺は国家権力の末端に渋々ながら従い、その場を退場することを決意した。スマホをしまおうとするときに画面にアルの顔を見たが、詰まらなさそうな顔をしていた。
それにしてもいつ撃つのであろうか。いつまで経っても銃声は聞こえない。赤ん坊の笑い声が聞こえる以外、街から音は消え失せていた。
ちらりと警察が取り囲む赤ん坊のほうを見やると、何やらしきりに無線で連絡を取りながら、ゆっくりと接近していた。いつか漫画で読んだ事があるが、始末書を書く必要があるとかでそう簡単に発砲出来ないらしい。応援を呼んであれをロープででも縛るのだろうか。そんな様子を見ていたのに気づいたのか、例の若い警官は険しい顔をした。慌てて視線を戻す。
それにしても警官か。公務員、そういえば。
――姉ちゃんは大丈夫だろうか。
急に姉のことが心配になった。俺は心の中で悪態をつきまくっているが、なんだかんだでただ一人の家族なのである。
「姉ちゃん……」
俺がぼそりと呟いたのを、警官は聞き逃さなかった。
「君には姉がいるのかい?」
乱暴な口調から急に柔らかい口調になったことに少し戸惑いつつも――別に貞操の危機を感じたわけではない。念のため――答えた。「ええ、地方公務員の――市役所に勤めている姉がいるんです」
「へぇ、姉のことが好きなのか?」
警官はにやりと笑って訊いたので、俺は慌てて否定する。
「いいえ、とんでもない! あんなの酷い姉ですよ。弟の事を馬車馬のごとくこき使うんです。でもたった一人の家族だし、ご飯作ってくれるし、扶養されてるし……」
そこまで話し続けるうちに、自分でも驚くほど姉は俺のためにいろいろしてくれていることに気づいた。ほとんど依存していると云ってよい。姉のおかげで朝起きられるし、姉のおかげでご飯を食べれたのだ。そういえば、今日外出したのも姉が不在で餓死寸前だったからだ(尤も、人間は食べなくても水さえあれば2~3箇月は生存出来るらしいが)。
そんな俺を微笑ましいものでも見るように笑った警官は、傍らにいたもう一人の警官に促してからパトカーを指差した。「家まで送ってあげるよ」
「いえ、そんな悪いですよ」家は近所だったので辞退しよう――そう思い口を開いた瞬間、静寂を破って破裂音が響いた。
最初は銃声かと思った。だがそれはもっとくぐもった音であった。
男の絶叫に被せるように赤ん坊の笑い声が聞こえる。
「おんぎゃあ、おんぎゃあ、あばばばばばば……」
赤ん坊は店の中にあった椅子を投げ付けると、警官の首が粘土細工のように千切れ飛ぶのが面白いようで笑いだした。乾いた音立て続けに鳴る。今度こそ銃声だ。赤ん坊は甲高い悲鳴を出して、血をまき散らしながらその場で静かになった。
俺をパトカーへ誘導していた警官も唖然といった顔をしている。俺もその様子を見て言葉が出なかった。そして殉職した首のない警官と、赤ん坊を挟んで反対側で蹲る警官の様子から何が起こったのかがわかってきた。
――あの破裂音は、人間の足が破裂する音だったのだ!
俺の愛読する某格闘漫画で「握撃」という技が登場する。文字通り、相手の手足を物凄い握力で握り皮膚や血管、筋肉を破裂させる技である。あの赤ん坊はそれに近いことをやったのだろう――そう考えた。
アスファルトに転がってきた警官の首と目が合って、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。何も食べていなかったことが救いとなった。警官たちは銃を構え――ほとんど狂乱状態で――弾丸を放つ。そうして赤ん坊の肌理細かな柔らかい肌に無数の穴を開けていく。
銃撃はあまり長く続かず、弾を撃ち尽くしたのは殆ど刹那と云っていい時間であった。そうして、再び静寂が戻った。
「なんてことだ……」
と誰かが口にした。誰もがそう思っていたに違いない。
警官の一人が無数の穴から血を流している巨大な赤ん坊を注意しながら、潰された足を抱えて蹲っている男を背負った。
「さぁ、君はもう帰るんだ!」
例の警官は威勢良くそう云い放ったものの、声は震えていて、酷く青褪めた顔をしていた。その顔を見た俺の脳裏には先ほど目の合った首だけの警官が甦り、再び吐き気を催した。
気分がとても悪くなって、俺はその言葉に同意した。
誰もがこれで終わりだと思った。怪我人を離脱させて応援が来るまで現状維持する。二階級特進するであろう警官と足を潰す怪我を負った警官は残念だが、その死は無駄では無かったとこの場にいる誰もが思っていただろう。
なんだか怖くなった俺は考える。あの時警察が来なくて本当に勝てたのだろうか。火の玉しか攻撃手段のない俺が物を投げられてどうやって防御することが出来たであろうか。もしかするとあそこで首が飛んでいるのは俺かもしれなかったのだ。
俺は家へ向かって走り出した。そして時々振り返った。背後には赤ん坊が、警官の首が、そして――変わり果てた姿となった辻堂ハルヒが――。
……なぜ辻堂を思い出した?
頭を振って否定する。現実的な思考をする。辻堂は俺が殺した。焼き殺した。赤ん坊は警官の手によって銃殺された。警官の首は俺のことなんて恨んでいない。
……無我夢中で走ると、何処までも平らで堅いアスファルトが――物理で云えば反作用なんだろうけど――様々な感情を跳ねっ返してくれて、自らの存在を確かめることが出来た。
「なぁアル。俺はあれに勝てたと思うか?」
事件現場を後にして、住んでいるマンションのエントランスで俺はスマホの中の住人に尋ねた。すると彼女は『レベル的には勝てますよー?』といつも通りの間の抜けた返答をした。
前から思っていたが、そのレベルとやらは何なんだろうか。果たして戦闘能力のことなのか、技の威力のことなのか。威力が大きくても技術がなければ持て余すだけじゃないだろうか。「その……レベル3ってどんなもんなの?」
『はい、野生動物くらいなら倒せますよー』
余りにも漠然とした回答に溜め息をついた。野生動物……熊やライオン辺りだろうか。下手をすれば野犬レベルかもしれない。
先程の赤ん坊は牙や爪こそ持っていなかったが物凄い馬鹿力であった。その辺の人間をとっ捕まえて手捏ねハンバーグを作ることくらい容易いだろう(そんな知能があるかは酷く怪しいものであるが)。
「……まぁ警察のおかげで一軒落着ってことだ! 俺の出番は無かったな。これからも無し。はい、おしまい」
そう云うとアルは急に真剣な表情になった。
『そんなことはないですよ? それにあの改造人間は明らかにマスターを狙ってました。
それに死んでないですし』
死んでないですし。
その言葉の意味を偶蹄目の哺乳動物のように繰り返し反芻した。おいちょっと待て。今聞き捨てならないことを聞いたぞ?
「おいアル! あいつ死んでないのか?」
『はい。出血のせいで長くは無いでしょうが死んではいません』
「銃弾で死なないやつをどうやって倒すんだよ!」
『焼けばいいんですよ』
――簡単に云うよな……。
俺は再び、肺の中の空気を吐き切れるだけの長い溜息をついた。いやいや、楽観的かもしれんが自衛隊か機動隊がなんとかしてくれるだろうに。
『機動隊は来ないですよー』とアルは俺の心を読んだような発言をした。
「どうしてだ」
『壁ですよ』とアルケーは現実を告げた。『警察が応援を待てなかったのもそういう事情があるのでしょう。制服を着た警官がいきなり拳銃で応戦するなんておかしいって思いませんでした?』
俺は三度目の溜め息をついた。なんてことだ。
「作戦なんて何にもないぞ」
『私の言うことを聞けば勝てますよー。そのためのサポートアバターですから』
『まず「すまほう」の使い方をおさらいする必要がありますねー』
前回戦ったときにはスマホの画面をタップすることで拳大の火弾を打つことが出来た。
「おさらいというか知らないんだが……まぁ教えてくれ」
『はい! 【すまほう】は簡単に言えば……いわば電子の魔法陣なんです。アプリを使って陣を組み、使用者の魔力を消費して、魔法を撃ちます。タップだけでも撃てますが、応用するためには魔法陣を描くといいんですよ』
「魔法陣?」
いわゆる、漫画とかに出てくるあれであろうか?
『詠唱を図案にしたものですね。ごく簡単に言えばそれだけでは意味を持たない魔力は魔法陣を通ることで意味が付与され、現実の世界に効果を生み出します』
早速やってみよう。「どんな魔法陣を描けばいいんだ?」
『基本はマルです』どこかで聞いたことがある台詞だ。『多少歪んでいてもいいんで円を描いてみてください』
俺は「すまほう」を起動すると、現れた画面に円を描いた。歪んでいたがアプリによって綺麗な円に修正された。
『そうしたら魔力をこめてから敵に向けて、以前と同じようにタップしてください』
魔力ってどうやって込めるんだろう?
『前回と同じです。やってみてください』
心中穏やかでない俺とは対照的に、雲のない空には太陽がアスファルトを照りつけていた。今日は夏日である。
例の現場に戻ると、血塗れの赤ん坊がなにやら遊んでいるのが確認できた。彼――又は彼女か――とても楽しそうにしている。一番のお気に入りはパトカーのようで「ブーブー」といいながら車の屋根部分を持って前後に動かしている。中に人が乗っていたら大変であろう。
「ブーブー」に飽きると動けなくなっていた男を捕まえてそのままサイリュームでも折るように背骨をポッキリやった。それを口へ持っていき、歯のない口でもぐもぐとしゃぶった。
あまりにも無邪気で、残酷で、悪意の無いその行為に再び言いようのない恐怖感を覚えた。果たして俺に何が出来るのだ? プロである警察官がやられているのに俺に何が出来るのだ?
そんな俺の心情を知ってかしらずか、アルケーは『早くやっつけちゃいましょう!』と恐ろしいことをいう。俺はスマホを構えた。遠巻きに赤ん坊を見ていた警官が俺の姿を認めると叫んだ。何を云っているのかはわからない。耳には入ってくるのだが頭の中でうまく理解出来なかった。
画面にはこの世で最も単純な意匠――円――が描かれている。震える指先でスマホをタップしたとき、俺の前方へ真っ直ぐと、ほぼアスファルトと水平に火炎が飛び出した。