閑話① 持田カノン
「まーるかいてフォイ……まーるかいてフォイ……」
「……腹減った。なんか買ってくるフォイ」
「しかし、どうせお腹が空くのだから、今食べても後で食べても同じだよな」
「今わざわざコンビニに行く労力を考えると、後で食べたほうがいいよな」
「……よし。決めた。もう寝るフォイ」
アパートの一室で壮大な独り言を終えた持田は、スマホを床に置き、そのまま寝返りを打って寝た。
専門学校に通っている持田カノンは怠惰な生活を送っていた。
その怠惰さは高校在学時には遺憾なく発揮され、全校生徒は彼女に対してしかるべき距離を取り、犬儒派倶楽部部員からの羨望のまなざしを集めた。
しかし現在は特に注目されることもなく、ひっそりと怠惰な生活を送っていた。彼女はそれでも構わないと思っていた。なぜなら彼女は全くと云っていいほど人の目を気にしないからである。
玉石混淆あらゆる人種の坩堝と云えるの専門学校の中においても、彼女は変わり者の類であった。
高校3年生のある日、彼女は通学路で自慰行為にふけっていた。彼女曰く好きな時に、誰にも迷惑を掛けず満足できるのだからこんなにいいことはないと考えていたが、巡回中の警官に見つかり、学校に連絡され、親まで呼ばれた。謹慎に加え反省文を書かされたが、彼女は親に泣かれても全く意に介さなかった。彼女曰く、私は私だし、あなたは私ではない。これが真実であり、真理だ――そんな風に考えていた。
カノンが一人暮らしを決めた時も、親は二つ返事で承諾した。それは諦観であったし、長年の疲れでもあった。二週間経つ頃には安いアパートを見つけ、バイトをし、家賃分の仕送りでほぼ自立した。行動は素早かった。
バイトをするに当たって連絡手段が必要になった。そこで彼女は人生初めてのスマホを手に入れ、アプリにのめり込んだ。暇な時間があればアプリで遊び、電池の消耗の速さがその頻度を物語っていた。
「すまほう?」
目を覚まして寝転んだまま、カノンはあるアプリを見つけた。すまほう。解説にはただ一行。魔法が使えますとあった。胡散臭いサイトだったが、興味を惹かれた彼女はすぐに「ダウンロード」した。時刻は0時。結局彼女は一日中起きること無く、一日を終えた。
しかし、そこからが長かった。
「あたしの能力……風?」
画面をタップすると、電池式の小型扇風機みたな風がスマホから吹いた。
「なにこれ。面白い。一体どうなってるだろ」
スマホをどうひっくり返してみても、風を吹く為の機構なんて無い。まるでダイソンの扇風機みたいだ――カノンはそう思った。プロペラなんてどこにも無いのに、均一な風が吹くのだ。
「これはいい。涼しい」
彼女は全く疑問に思うこと無く、風に当たってそのまま寝ようとした。
『おーい』
スマホから声が聴こえた。『そんな使い方してたら、死んでしまうぞ』
カノンはいやいやながら起きてスマホの画面を注視した。三頭身くらいにディフォルメされた少年がそこに居た。彼女は驚かなかった。驚いたところで世界は何も変わらず運行することをよく知っていたからである。
「うるさい。あたしのダウンロードしたアプリをどう使おうがあたしの勝手じゃん」
『おせっかいながら云わせてもらうけどな。魔力を使いすぎると死んじゃうんだぞ。それに暑いからって風に当たり過ぎるのもよくない。毎年扇風機で老人が冷え過ぎで亡くなるんだ』
「それは」カノンは云った。「やだな」
カノンは死ぬのは全く構わなかったが、死ぬのは面倒臭いことをよく知っていたのであまり死にたくなかった。記憶に残っているのはカノンが小学生の時に亡くなった祖父である。葬儀屋と坊主と保険屋、こんなに居たのかと驚いた親戚一同(当時はカノンも驚いたのだ)。いろんなものが面倒臭かった。カノンは面倒臭いものが大の苦手なのだ。
「わかった。じゃあ我慢して寝る」
風を止めて、彼女は再び目を閉じた。
『おいちょっと待てよ。魔力ってなんだ、とか、おまえは誰だ! とか、そういう質問は無いの?』
「うるさいなぁ。そんなの必要があれば聞くよ。今じゃなきゃ駄目なの?」
『ま、緊急ではないね』
「じゃあ明日の朝聞くから起こしてね。8時」
カノンはスマホの中から聴こえる抗議の声が、眠りが深くなるにつれて小さくなるのを感じて、「便利なアプリを手に入れたなぁ」と思った。
スマホの中の住人はきっちり8時に起こしてくれた。所謂ツンデレと言うヤツだなとカノンは思った。
『おい、約束通り起こしてやったぞ。話聞けよな』
「ありがとう。じゃあ話して」
『僕は「すまほう」サポートアバターのテロスって云うんだ』
「決めた! 君、声がスネ夫っぽいから『スネ夫』だ」
『なんだよそれ』
「いいじゃん。素敵やん。あたし、ドラえもんのメンバーの中でスネ夫が一番好き。あの尖った口元。イかした髪型。ねぇ今度四畳半島の別荘に連れてってよ」
『僕、その……ドラ? エモンなんか知らないよ』
「ドラえもんを」カノンは衝撃を受けた。「知らない?」
カノンは生まれて初めてドラえもんを知らない人物に出会った。普段驚かない彼女は今度こそ驚いた。
もし、スマホの中の彼が外国人で、ぺらぺらとわけのわからない異次元の言語を喋っていたのなら頷けるだろう。しかし彼――スネ夫――は日本語を、実に正しい発音とイントネーションで喋るのである。そんな人物がドラえもんを知らないなんて、とてもじゃないが想像がつかなかった。
「君は一体どこから来たんだい?」
ドラえもんが存在しない世界から来たに違いない。カノンはそう確信を持って訊いた。
『よくぞ訊いてくれたな』
スネ夫は待ってましたと云わんばかりに鼻高々に、饒舌に語った。『僕は魔法の世界から来たんだ』
パパに頼んでもらって?
『このアプリは、ほら危ないだろう。そのままだと悪用するやつがいるから、バージョンアップされた今では一台辺り一人のサポートアバターが付くんだ』
「ふむ」
『アプリ自体に目的はないんだ。魔法が使えるだけ。ただ、バージョンアップされる前から使用しているユーザーもいて、そいつらに危害が加えられるかもしれないだろ。そこで僕らの登場だ』
「ふむふむ」
カノンは昨日、何も食べていないこともあって空腹が頂点に達していた。
「何か食べたい」
『僕らは君たちにより情報を提供できる。いろいろとアドバイスしてやれるんだ』
スネ夫は聞いていなかった。カノンは立ち上がると、「ちょっとコンビニ行ってくるわ」と云った。
『ちょっと待ってよ。僕を置いていくなよ。携帯なんだから携帯しろよ』
「うるさいなぁ」
彼女はしょうがないなぁと云って部屋を出た。