第2話――変身
「ある朝、――が気がかりな夢から目を覚ますと、一匹の巨大な毒虫となっていた」
――ねぇ、起きてよ。
聞き覚えのある声だなぁと思って、ああこの声は姉ちゃんの声だなと思った。まるで昨日が繰り返されているようだ。俺はたとえ目の前に乳房の二つ三つ――いや、乳房は二つしかないが――ぶら下がっていても平常にしていなければならないし、彼女の機嫌を損ねるようなことがあってはならない。それが、前回の教訓で得た、一日を平穏に過ごす方法なのだ。
「ねぇシンスケ! 早く起きなさいよ、大変なの」
なんだ。もう既に機嫌を損ねてるのか。そうだ。結果は変わらないんだったな。俺が取りうる行動は、出来る限り面倒くさくなくすることだけだ。俺はムクリと起き上がった。
「わかってるよ。誕生日だろう? そんな慌てても俺の誕生日は逃げないよ」
「何云ってんのよ。誕生日は昨日じゃない。あんた、馬鹿じゃないの?」
「あれ、俺が怒ってるかどうか聞かないの?」
「それ昨日やったじゃない。シンスケ、あんた頭沸いてるでしょ?」
尋常でない様子に俺は覚醒を余儀なくされた。頬をぺちんぺちんと二回ほど叩き、思い切り伸びをして血流を身体中に巡らせる。
「何が起きたんだ?」
目をこすりながら訊くと、姉ちゃんは答えた。
「世界が閉じられてしまったのよ!」
俺はしばらく理解できなかった。
姉が云うところによると、我々の住まうK市が閉じられてしまったのだという。それも、例えば1960年代の大学闘争で頻繁に構築された手造りバリケードや、冷戦時代のベルリンの壁の様なアスベストたっぷりのリアルではない。何か非科学的な、あるいは科学的かもしれないけれど少なくとも現在の我々の科学では解明出来ない手段で閉じられてしまったらしい。
K市の境界には、ちょうど川に沿ってぶよぶよとした透明な壁が出来ていて、向こう側に行きたい者がその壁を抜けようとすると、途端に戻ってしまうのだという。それは草木も眠る真夜中のうちに生じたようで、SNSでその情報を聞いた姉はわざわざ境界近くまで出向いて橋の上でそれを確かめたのだという。橋の上は聞きつけた人間が大勢居て、祭りのようだったそうな。
「なんか冷たい、ゼラチンか、寒天のような感触がして、勇気を出して向こうへ抜けようとしたんだけどね、なんか空間でもねじ曲がってるみたいにこっちに戻って来ちゃったのよ」
姉の興奮っぷりは半端無かった。
どうも誰かに話したくて仕方がなかったらしい。非常時の他の半分はこの為に起こされたようなものだ。俺は大きなあくびをした。ところで、一つ疑問があった。
「携帯は繋がるの? 外へ」
「そうなの。人間や物が出ることは出来ないけど、電波はなぜか通じるの。外の友達に訊くと、ここの他にも幾つかの都市が閉じちゃったみたい」
姉はハァと溜め息をついて、ねぇねぇと尋ねてきた。
「ねぇねぇ私、出勤したほうがいいかな?」
「こういう時だからこそ役所は忙しいだろ」
「でも何したらいいかわからないよ」
「上からの指示に従えよ。で、今何時だ」
姉は時計を見せた。6時半。この世で一番半端な時間だ。
「昨日から寝てないよ」
「やれやれ」
「ねぇ、壁見てみる?」
姉の提案に同意した俺は、姉のクルマに乗って例の境界へと向かった。
「あれ。見える?」
話を聞いていたのでさほど驚かなかったが、空高くまで続く半透明の磨りガラスみたいな壁は、どこにも抜け道がないことを物語っていた。
「もういい。戻ろう」
「いいの? 触らなくて」
「子供じゃないんだから」
「子供よ、まだ16でしょ?」
そう云った後、姉は何故か妙に神妙な顔つきになって「そうか、もう16か。あの時と同い年なんだ」と呟いた。聴こえるか聴こえないか微妙な大きさの声だった。俺は聞き漏らさなかったが、それについて言及することはしなかった。
「決めた、出勤する」
「決めるも何も、忙しいって。それより俺は学校行くべきかな」
「先生によっては来れないかもよ? それより食べ物はどうする?」
「食べ物? ああ、物流が止まっちゃうわけだもんね。いつまで続くかわからないから、急いで買わないと」
「保存食――カップ麺や缶詰に、あと野菜。それとビール」
「ビール?」俺は聞き返した。
「もしかしたら」姉は云った。「この機会を逃すと、永遠にビールが飲めなくなるかもしれないじゃない」
「……わかった。ビールね」
こんな時間にスーパーが開いてるわけがないので、我々は幹線道路沿いのコンビニ前へとクルマを停めた。
壁のせいか早朝の割には混雑しており、酔っぱらいとそうでない人が店内で入り乱れ、たった一人でレジを回すいかにも頼りなさ気な中国人店員は非常に忙しそうにしていた。案の定、缶詰とその類いが売り切れていた。
俺はレトルト食品と食パンとじゃがいもや売り場に残っていたレタスをカゴいっぱいに入れて、姉はビールをカゴいっぱいに入れた。酔っぱらいが真似をして同様にビールをカゴいっぱいに入れるが、そこまで金を所持してなかったようで元に戻した。きっと途中の居酒屋で使い果たしてしまったのだろう。少し予想してたが、酔っぱらいが絡んできた。
「ねえちゃんすげえな! そんなに飲むのか」
姉は何も聴こえなかったようにレジに並び、会計を受けた。無視された酔っぱらいは何ともいえない哀愁を帯びた目をしていた。
レジから、年齢確認を求める表示がされ、例の頼りなさげな中国人店員は真面目に尋ねた。
「ネンレイカクニンヲ、オネガイシマス」
「ねぇ私いくつに見える?」
「……ネンレイカクニンヲ、オネガイシマス。スミマセン」
姉は観念して免許証を見せた。猫の手も借りたいであろう中国人留学生のバイトをいじめても、何も面白く無いのだ。会計はだいたい1万5千円くらいで、もちろん袋を持つのは俺だった。軽自動車はまるで人間様の如く存在を主張する買い物袋でいっぱいとなった。
自動車の中で――というより既にコンビニの中で徐々に思い出していたのだが――何か辻褄があわないことに気付いた。姉は寝起きのあのやり取りを昨日と云った。
そういえば、俺はあの怪物に襲われた後、どのように家に帰ったんだ? まったく記憶に無い。今日は何日だ、と訊こうとして止めた。襲われた日が何日だったか、今日が何日であるかが興味が無いがゆえに覚えていないのである。仕方なくこう訊いた。「今日は何曜日だっけ?」
「今日は木曜日よ」
木曜日? 俺はますます混乱した。なぜ月曜日でも、火曜日でもなく、木曜日なんだ? 俺は満2日半も寝ていたというのか?
「俺の誕生日は日曜だろう。で、昨日が誕生日だという事は今日は月曜日のはずだ」
「あんた何いってんの?」アタマだいじょうぶ? とでも言いたげな表情で「シンスケの誕生日は水曜日じゃない」と云った。
「いやいや。水曜日だったら学校じゃん。確か昼に携帯を買いに行ったんだぞ。日曜日のはずだ」
「携帯なんて最初っから持ってるじゃない」
……姉の云うことが正しいと仮定して(少なくとも間違っていると断定しても、結果は変わらない)、俺は誕生日に携帯を買ったという俺の中の疑いようの無いように見える事実でさえ妄想であるという可能性が浮上した。持田先輩と出会ったのも、あの謎のサイトを見たのも全て妄想だったというのだろうか? 真実を確かめるべく、俺はポケットの中を探った。
それはどう見てもスマートフォンである。厳然たるスマホだった。俺は得意になって姉の前でスマホを見せびらかしたが、姉は全く理解していないようだった。「何?」
これ以上話しても無駄のようだ。あまりにややこしすぎて、俺の貧弱な頭脳ではこれで精一杯だった。なるように、なれ。しばらくこれが俺の座右の銘だ。ケ・セラ・セラ。Whatever will be will be.
登校すると、周囲を壁で囲まれたと云うのに、まったく変わらない風景がそこにあった。仲の良い友達と延々と喋り、間が開いたらスマホで時間を潰す。
いつものことながら何て忙しい奴らなんだ! 我々犬儒派倶楽部のようにボーっと空を眺めるとか、日光に当たっているとか、もっと有意義な過ごし方があるだろうに。
朝のホームルームまで時間がある。教室には辻堂が居た。
辻堂曰く物流はストップしたが、電気や水道はなぜか通っているという。現金の移動は出来ないが、銀行振込や郵便振替などはあまり問題ないようだ。深刻なのはやはり食べ物――の問題であるそうだ。
「政令指定都市だからね。災害に備えて食料の備蓄はしてあるそうだけど、長くは持たないんじゃないかな。産業は殆ど工業か、第3次産業だし」
「娯楽は豊富だけどな。K市って、農業とかあるのかな」
「梨」辻堂は云った。
「梨」俺は繰り返した。
「そうだ。もしかしたら変なこと訊くかもしれないんだけどいいか」
「いいよ。どうしたの?」
「怪物……が出たと思うんだが」
「ああ、あの時は大変だったね」
ああ、あの時は大変だったね。俺は辻堂の言葉を吟味するものの、何と答えていいものかわからなかった。とりあえず「あ、そうか」と答えた。おい俺、話が終わっちゃうじゃねぇか。
「あの時はびっくりしたよ」
辻堂の一言で奇跡的に会話は続行した。
「俺もびっくりだよ。ただあの時の記憶が無いんだ。ちょっと詳細を教えてくれないか」
だいぶ勇気を出して云ったつもりである。しかし天使は何でもないように「まぁあれだけのことが起きたんだからちょっと混乱したのかな」と云った。涙が出そうなほど優しかった。皆様方、辻堂ハルヒを褒め称えよ! ついでに優しくされるだけの価値を持った俺も褒めてくれ。
「どこから説明すればいいのかな」
「最初から頼む」
「最初から……ねぇ」
「僕はね、食べられちゃったんだ」
――――?
「とっても、痛かったんだよ。渡辺くんが逃げたせいだ。でもね、僕はもう平気なんだ。生まれ変わったからね」
「辻堂何云って……」
冗談ではなく本能で後ろへ下がった。こいつは辻堂じゃない。俺は距離を取った。
辻堂――の姿だったもの――は、ろくろのように胴を伸ばし、破れた服からくすんだ体節の連なりを露わにした。胴から生えるは人間の手である。ボーイッシュな頭部だけそのままに、今にも鼠を捕らえようとする巨大ムカデのように天井へと上がった。女子の叫び声が聴こえ、クラスメイトが逃げ出す。
俺は怪物の顔面向かって椅子を投げつけた。辻堂の顔に血が流れる。物理的な攻撃は効いてるようだ。
「痛いじゃないか」
効き目があることと勝てるかどうかでは大きな隔たりがあることを思い知った。
自分でも驚くくらい、心が落ち着いている。前回毛まみれジャミラと対峙したときは足が動かなかったのに、今では意のままである。ここは逃げるが得策だ。そのように判断して廊下へ駆け出す。
「待ってよ渡辺くん」
いつもと変わらない調子の声が背後から聞こえるがとても振り返ってなど居られない。幾つもの人間の腕がリノリウムの床を叩く不気味な音が近づいてくる。通過する教室から悲鳴が聴こえてくる。足が多い分、あちらのほうが速い。このままだと追い付かれてしまう!
しかし単純な鬼ごっこなら速いあちらが有利、俺が不利だ。考えてみれば―― 一つの可能性が脳裏に浮かんだ――頭は一つなわけだし、方向転換に時間がかかるはずだ。俺はその可能性に賭けて廊下を曲がった。
「渡辺くんって足が速いんだね」
笑いながらいつもの調子で話してくる。
長いな、と俺は思った。元辻堂は、元の姿から考えて明らかに質量保存の法則を無視した体積であり、物凄いスピードで曲がり角を曲がっていった。
……やはり奴には見つからなかった。俺は廊下の曲がり角の影に隠れていたのである。小学生の時、鬼ごっこでよく使った手だ。気づかれる前に教室に逃げ込んだ。
ドッと、疲れが押し寄せた。息を抑えたが駄目だった。肩で呼吸してしまう。普段寝てばかりいる俺が全力で走っても追いつかれてしまうのだから、どのみちどこかで隠れ、休む必要があったのだ。
ポケットに振動を感じた。メールか? いや、長いから電話だ。反射的に取り出した。切るつもりだった。画面には通話の文字は無く、代わりに「すまほう」と表示されていた。いつの間にあのアプリをダウンロードしたんだ? 俺は状況も相まって混乱したが、どうしたらいいのかわからなかったので、画面をタップした。
振動が止まった。
辺りが静かになった。
生徒達はどこへ行ったのだろう。
やつは……人間を喰らうのか。
そして辻堂の事を思うと、俺は酷く複雑な思いを抱いた。本物の辻堂はどこへ行ったんだ。もしあれが本物の辻堂だとしたら、あいつは何をされたんだ?
動けるようになった俺は、机と椅子を積み上げてバリケードを築いた。重労働だ。明日、筋肉痛確実である。窓から入ってくるかもしれないと考えて窓を閉じた。カーテンをいじると目立つので、そのままにして影に隠れた。バリケードは、やつが抜けれない程度の隙間の退路を作った。後はスマホで助けを呼ぼう。
通話をしようとした瞬間、「すまほう」が起動中なことを思い出す。不慣れな俺はどうすればいいか迷っていると、突如、画面に「お待ちください」と出た。円に複雑な紋様――アニメか漫画で見たことがある魔法陣――が回転するのを眺めている。そして「レベル3」と出た。
「レベル3?」
『っ……っと……つ……がり……』
ノイズと共に何かが聴こえてくる。
『っながりましたー。聞こえますかー!』
ノイズが消え、聴こえてきたのは深夜アニメのようなロリィタヴォイスである。俺は思いがけず、口をつぐんだ。
『なんだぁー。聞こえないのか』
ロリィタヴォイスは独り言を云った。独り言でなければ随分パラドキシカルな示唆に富んだ発言である。
「聞こえてるよ、ちょっと静かにしてくれ」
そう云うと画面にひょこっと赤いのが現れた。それはだいたい三頭身くらいの目の大きい二次元美少女で、林檎のように赤いおかっぱの髪に、同じく赤色の民族衣装のようなのを着ている。もはや、この程度のことでは驚かない。
親友が、あんなになったのだから。
「あんたは誰だ。静かに、短く答えてくれ」
俺の問いかけに画面中の二次元美少女は素早く答えた。
『申し遅れました。わたくし、スマートフォンアプリ【すまほう】サポートアバターの、アルケーと申します』
「……わかった。ところでこれを切って電話したいんだが、どうすればいいんだ」
『わたくしが繋ぎますよー。誰と話したいんですか?』
「警察か自衛隊。助けを呼びたい」
『助ける? どういう状況ですか?』
「化け物に追われているんだ。もっとも、もう通報されてると思うけどな。ここから出るために、助けてほしいんだ」
するとサポートアバターのアルケーと名乗る何だかよくわからない赤いものは、わかりやすく首を傾げて云った。『それって戦って対処出来ないもんなんですかー?』
「戦う?」俺も同じように首を傾げ、持田先輩の様に繰り返した。「戦う?」
『だってレベル3ですよね。もう何度か経験済みだと思うんですが……』
こんな状況を何度も経験している筈があるかッ!
「どうもジェンガみたいにすっぽりと記憶が抜け落ちたが、脳に深刻な障害を抱えてしまったようなんだ。どうにかする方法があるなら教えてくれ。サポートしてくれ」
文句を叫びたくなるのを抑えて、努めて冷静に頼み込んだ。
『しょうがないですねー』
アドバイスしてあげましょうかー、と何故か上から目線で話し始めた。
「なんだ、渡辺くん。こんなところに居たのか」
嫌な声がした。つい先程まで天使だと思っていた男の子の声がここまで嫌なものになるとは、登校時の呑気な俺には予想もつかなかっただろう。机で築いたバリケードは比較的有効に作用しているようで、化け物のスムーズな通行を阻んでいる。
「おい、アルケー。本当に大丈夫なのか」画面に向かって小声で尋ねる。けれども彼女はあまり緊張感がない様子で、
『アルって呼んで下さいー』なんて云う。
「わかったよ、アル!」
「誰と話しているの? そこに誰かいるの?」
化け物はバリケードを馬鹿力で壊すわけでもなく、一本一本、丁寧に取り払っているようだった。意外に力は無いのかもしれない。しかし、その丁寧なやり方は確実で、またすぐに移動出来るため、退路を断たれたも同然だった。
アルケーの言葉を思い出す。
『狙いを定めて、画面をタップすれば撃てますよ』
「何が?」
『いいからやってみて下さい』
ゆっくりと顔を上げる。グチャグチャに侵入者がなるべく苦労するように机と椅子を組んだ即席バリケード。その隙間から辻堂ハルヒの顔が覗いている。除けられた机や椅子は雑に放り投げられているらしく、廊下の窓ガラスが割れる音が時々響いている。
俺は注意深く、せっせと作業をしている辻堂の顔に狙いを定めて、スマホを動かしていた。考えてみればスマホどの部分から『撃てるのか』、撃つとは何を『撃つ』のか知らないはずなのだが、ごく当たり前の日常の動作のようにそれを理解していた。親指が画面の上に落ちると、ボォッと直径10センチ程の小さな火の玉がスマホの先から現れて、勢い良く、狙い通り辻堂の顔面へとぶつかった。
「熱い! 熱いよぉおおお!」ムカデ怪人はそのまま地面に顔面を叩きつけ、悶え苦しむ。不気味な風貌とは裏腹にそこまで打たれ強くないようだ。俺は何回か火弾を撃ったが、火力が弱まっているようだ。
『魔力が足りないですね。本気出してます?』
「魔力ってなんだよ!」
『まぁ慣れです。このまま逃げましょう!』
珍しく――と云っても、会って数分と経っていないのであるが――まともなことを云ったので、俺は素直に従った。火はそのまま目潰しになったようである。
「おい、アル。どこへ行けばいいと思う?」
『上ですねー』
「それじゃあ逃げ場がないだろう」
『考え方が後ろ向きですね。敵を倒すためには、上なんですよ』
そう云った後、アルは自らの考えを述べた。後ろからどたばたとジャワ島の原住民が打楽器を叩くような音が聴こえて、半ば投げやりで提案に乗った。「わかった。上に行こう」
階段を上るのは非常に骨が折れた。今にも足を攣ってしまいそうな勢いであるが、武器があるだけ心強く、まったく勝機がないわけではなかったのでそれを励みに上った。もうちょっとで屋上に着く――というところで、足を強く掴まれた。
「あはは、捕まえた」
しまった――俺は強かに階段に全身を打ち付けた。しかし、反射的に奴の顔面を蹴りつけその隙をついて逃れる。這うように階段を上り翻し、火弾を撃った。更に階段を駆け上る。そして遂に屋上へのノブを掴んだ。
見慣れた光景なのに、状況は非日常そのものだった。まだ日は高くない。雀の声が聴こえる。そんなところばかりが目に入った。
「渡辺くん、どこに行ったんだよぉおおおお!」
長い身体が屋上のドアから途切れること無く伸びる。
「こっちだ!」
俺は普段超えることのない柵の外側で叫んだ。百足と形容するに相応しい化け物は俺の方へ向かってきた。化け物は柵を乗り越えた。その瞬間俺は――犬儒派倶楽部の――ダンボールを投げつけ、そこへ火弾を撃ち込んだ。
燃えるダンボールの被さった化け物は断絶魔の叫びをあげながら空中で錐揉みし、校庭にその巨体を打ち付けた。化け物はしばらく手足を動かしていたが、やがて打ちどころを悪くした蛙のように、動かなくなった。
『やっつけましたね』
サポートを終えたアルケーは淡々と云った。
「……ああ、奴の目がやられていたから成功したんだ」
振り向いて火弾を撃った時、もはやそこには辻堂ハルヒの顔は無かった。
……撃ちつけた火弾の所為で顔はケロイド状に変質し、原型を留めていなかった。そこに目が存在していただろう二つの窪みには、血の混じった涙のようなものが流れていた。目が溶けたのか、それとも。
「あいつに掴まれた。……弱かったよ、俺が蹴ってどうにかなるくらい」
「そうですね。恐らく奴は肉体強化の改造を受けてなかったのでしょう。足はたくさんありますが、一つ一つの力は人間程度です」
聞き捨てならない言葉が聴こえた。
「……待て。改造? どういうことだ」
俺はスマホに向かってアルケーに叫び、問いただした。
『本当に何にも知らないんですね』感情的になってる俺とは対照的に、機械的と云っていいほどに落ち着いた声で告げた。『今の怪物は、『神の子宮』という組織によって改造された、いわゆる改造人間です。ですから元は人間です』
「神の子宮? 改造? おい、あいつは辻堂なのか。おい答えろよ」
『ツジドー、とは誰ですか』
「俺のクラスメイトで、部活仲間だ! 今の奴の声は辻堂のものだった。今の奴の顔は辻堂だった。もうぐちゃぐちゃでわからないがな!」
彼女は申し訳なさそうに云った。
『多分そうなのです。その辻堂という人物は神の子宮によって拉致され、改造手術を受けたに違いないのです』
「なあ教えろ。俺はもう何がなんだかわからないんだ」
疲弊しきっていた。肉体的にも、精神的にも。正直なところ、戦っている時は疲れなんぞそこまで深刻なものではなかった。むしろ座っている今こそが、辛かった。まるで乗っていた泥船が溶けて、夜の闇に覆われた太平洋の真ん中に取り残されたようであり、そんな不安感が、ずしりと身体中に染み渡っていた。
やがて数台のパトカーが学校の横に停まり、屋上で呆然としていた俺は短い取り調べを受けた。聞かれた内容は一見多岐に渡るようであるが、要約すると「あれはなんだ?」という短いワードに収斂された。俺は起きたことを正直に話したのだが、当然のことながらまともに取り上げられることはなかった。きっと突然のことで混乱したのだろう――そういう風に納得されたらしい。もちろん、あれは辻堂であるということも、信じてはもらえなかった。
後で聞いたのだが、辻堂は数日前に行方不明になっていたのだと云う。
怪物が現れたということもあってか、自宅学習になった。そもそも市の周囲を壁で閉鎖されたんだし、最初からそういうことにしてくれればいいのにと俺は思ったが、どうも学校も混乱しているらしい。家に帰りテレビをつけるとアナウンサーが俺の想像通りの事を寸分たりとも違わずアナウンスしていた。
現在は警察により通行止めになっているが、壁が現れた当初は何も知らずにトラックが突っ込み、戻され、それが後ろから来た別のトラックと衝突する事故が多発したらしい。
物資の供給ストップは、K市中のスーパーから2時間でトイレットペーパーを消滅させた。他にも電池やカイロ(夏なのに)、保存食、ミネラルウォーター等、考えられるあらゆるものが売り切れた。パニックに陥った主婦達の中には奪い合い、争い、怪我人まで出たという。小売店の中には悪どい輩も居て、不当に値段をつり上げて儲ける者もいた。政府はマスメディアを通して閉鎖された市町村の住民に買い占めや価格のつり上げの自粛を求めたのだが全く効果をもたらさなかった。オイルショックの再来である。そのうち米騒動の如く打ち壊しが起こっても、俺は全く驚かないだろう。
コメンテーターたちは訳知り顔で何か語っていたが、いずれも推測の域を超えないものだったし、冷静に考えずとも、とっても胡散臭かった。宇宙人だ、世界の終わりだ――と普段なら鼻ですら笑わないほど馬鹿馬鹿しいことを大真面目に語り、それを聞いていた者は芸人であれ弁護士であれ大学教授であれ、等しく真剣そうな表情で頷いていた。俺は学歴社会の崩壊を考えた。
姉ちゃんが帰ってきたのは20時を過ぎた頃だった。
「ただいま」
「おかえり」
「ねぇ、今日疲れたからカップ麺でいい?」
「うん。俺も疲れた」
我々はカップ麺を啜り、腹が満たされると死んだように眠った。お互いひどく疲れているのだ。
俺は夢を見た。
「ねぇ渡辺くん。実はボク、前から君のこと……」
「お、おいちょっと待てよ。お前男だろ。まぁでも辻堂なら」
「実はボクは女の子だったみたいなんだ」
「ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!」
「だから二人を阻む障害なんて何にも存在しないんだよ。だから今から横浜にデートに行こうよ」
「お、おう! 喜んで! よろしくお願い致しますぅッ!」
「ははは。渡辺くんったら、ちょっとテンパりすぎ」
そんな会話をしてから二人は電車に乗り込んで、しばらくしてからふとあることが気にかかった。
「どうしたの渡辺くん?」
「……いや」
【 次は 鶴見 】
「何か気になってさ。その、説明しにくいんだが、どうしてここまで来れるのかっていうか」
「ふーん。それよりもさ」
辻堂は軽く顎でくいっと向かいの席の人物を指した。
「あの人ずっとこっち見てるんだけど……」
奇妙な人物であった。黄色いシルクハットに、赤くて裾の長いジャケット。ひどく肌に密着した白いズボン。どこかで見たことのあるイメージ。
じっとこちらを見詰めている。
「なんだか気味が悪いね」耳元で呟く辻堂。
「……ああ。行こうか」
シートを離れてから間もなく目的地に到着した。
その後散々来た見た買ったで歩き疲れて、夕日に染まる山下公園のベンチに後ろから倒れるように座り込んだ。続いて辻堂が隣に座る。
カモメが飛んでいる。少し強めの風が心を揺さぶって感傷的になる。
オレンジ色の中を飛ぶカモメを目で追いながら、少しばかり決心して語り始める。
「俺はさ、辻堂。お前が友だちになってくれて、本当に嬉しかったわけよ」
辻堂は答えない。それを確認して続ける。
「俺ってさ、そんなにコミュニケーション能力高いわけじゃないし。お前に初めて会った時なんて本当に女の子だと思ってたくらいだからな。かと言ってコミュ力上げるための努力なんてしようと思わないし」
対人関係の能力を上げるためには、対人関係によるしかない。
いくらコンビニで売ってる心理学の本を読んだってそういうものは上手くならない。たとえば単純接触効果と称して無意味なメールを送っても面倒がられるだけである。それはコミュニケーションというものが、インプットだけでなく適切なアウトプットを必要としているからだ。
けれども実戦となるといつか必ず傷つく。その傷つきのコストに消極的な自分にとっては、犬儒派倶楽部のゆるい人間関係はまさしく楽園だったのかもしれない。
「けど、俺は」
取り返しのつかないことをしてしまった。
いまいち現実味のない現実。それでも現実。
この夢から醒めて、あったかい布団を出て、悪夢のような現実へと覚醒めなきゃいけない。
ふと隣を見た。
辻堂の眼球が存在したところにはただの窪みがあって、グチャグチャに焼きただれている。
どうして? だって。
俺が殺した。