プロローグ――覚醒
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
目を醒ました時、耳元で蜜蜂がうねる様な音が耳の奥へと余韻を残した。
――何の音だろう。ここはどこだろう。そして俺は誰だろう。
十字に貼り付けられた拘束具。開かれた胎内。垂直に建てられた拘束具。下から覗くは白装束の集団……。
憶えているのはそれだけだ。俺はまるでキ○ガイのように隔離されている。そして鉄格子の向こうは無機質しか見えない。
暫くすると、コツン、コツンと足音を立てながら不自然な色合いの紅を注した看護婦がやってきて、鉄格子と床スレスレに取り付けてある扉からトーストと野菜サラダと牛乳瓶を差し入れた。
「おい、俺をここから出してくれ」
にっこり笑った女。だが口も利かずに去っていく。コツン……コツン……と、ヒールの叩くリノリウムの音が遠のいていく。俺は息を吐いた。食欲は無かったがトーストを口に入れた。味がしない。牛乳を飲み干すと再び息を吐いた。
すると左の耳の鼓膜が奇妙に震えた。もしも色で喩えると灰色か、或いはくすんだ水色の様な音。暫くして壁を叩く音だと思い至った。
リズムに合わせるように左の壁を叩く。向こうも叩く。すると蚊の羽音の様に頼りない声がした。聞き取り難いが、脳味噌深く刻まれ遂に消えなかった言葉――日本語に照らしあわせて考えてみる。
あ、な、た、は……。
「あなたは誰ですか?」
今度はハッキリと聴こえた。彼女は名前を問うている。
「俺のなまえは」
そこまで云ってハッと驚く。俺は自分の名前を知らないのだ。いや、憶えていないのか。記憶喪失……それよりなんで俺はこんなところに入れられてるんだ?
俺はイカれてるのか? きっとそうだ。だからこんなところに入れられてるんだ。
……いや待てよ。じゃああの記憶は何だ。俺の僅かな記憶。拘束具……そうだ、俺は奴らに何かされたんじゃないか? あの白装束の集団に何かされたんじゃないか?
「あの」
再び声がした。幼い蕾の様な少女の声。
「そこにいらっしゃるのでしょう? 聞こえていますわ。あなたの名前を教えて下さいまし」
そうだ。俺は答えなきゃいけない。けれど思い出せない。だから、
「俺のなまえは……ピアノマン。ピアノマンさ」
「ピアノマン?」壁の向こうで彼女の喜ぶ声がした。「素敵な名前をお持ちなのね」
「君の名前も教えてくれないか」
俺は無性に名前を聴きたくなった。恋に落ちたと云ってもいい。俺はこの壁の向こうの顔も見れない少女に恋をしてしまったのだ。きっと無粋な第三者は心理学なんかを持ちだして、不安な環境の中でそのような心理状態に陥っただけだ何て尤もらしい出鱈目を並べる。そんなの誰にわかるものか。それでも俺は恋をしたんだ。
「名前……思い出せないの」
壁の向こうの困惑した表情を思い浮かべる。俺には容易にそれができた。
「何て呼べばいい?」
それでも彼女は答えない。俺は不安になった。
「君の名前はチヅルだ」
「チヅル?」少女は訊き返した。「どうしてチヅルなの?」
「君に相応しいと思ったからさ」
すると少女は促した。俺は促されるままに鉄格子の前に、彼女の居る左側へ寄った。
「素敵な名前ありがとう。ねぇ約束して頂戴。あたし、あなたと離れたくない。ずっと一緒に居てくれる?」
「ああ、勿論だとも」
鉄格子越しに、視界に白い手が入った。今にも折れてしまいそうな華奢な腕はあまりに白く、うっすらと静脈の色が透けて見えるまでに病的な白さだった。俺は不注意を起こして壊れないように、彼女の小指を自分の小指と結んだ。考えられるありとあらゆる行為の中で、それは一番甘美に思えた。
「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのます」
「ゆびきった」
指を離す時の切なさは、何とも形容し難かった。
暗くなったので横になると、寝転んだ先には布団が一式置いてあった。俺はそれを引いて、彼女とあらゆる話をした。記憶を失っていたから、空想の話をした。彼女は蝶になってふわふわ飛ぶ夢を語った。花に止まって刹那、今の自分になっていたという。俺は真剣に聞いた。話すことが尽きたら歌を歌った。彼女の歌は上質な鈴のようにころころと鳴った。それは時に夜の川のように流れ、時に瞬く星々のようにきらめいた。
気が付くと朝になっていた。知らぬ内に眠ってたらしい。
格子の窓から朝日が差し込んでいる。すぐそこには庭か、中庭か、少なくとも空が見える場所があるようだ。しかし覗き見るには俺には背が低すぎる。
しばらくして、例のヒールの音が聴こえてきた。俺が布団を被って寝ているふりをしていると、音が近くで止まった。そうしてから鉄格子の側で、何やら細かい金属音を響かせる。その音はナイフやフォークが食器を叩く音に似ている。違いと云えば音の大きさくらいだろう。かちゃりと気味の好い音が響いた。
まさかと思って、俺はやおら起き上がった。
扉が開いている。そこには誰もいない。ヒールを履いた寡黙な看護婦はいない。
俺は生まれて初めて信号を渡る人間のように、注意深く左右を覗き、慎重に右足を出した。次は左足。俺は初めて鉄格子の外へ出た。勿論少女のことが気にかかったので、左を向いた。するとそこには俺より頭一個分程小さい、白い少女がいた。
一目見てチヅルだと判った。
チヅルからはあらゆる色素が抜け落ちていた。昨日見た白い腕。背中まで掛かる髪の毛も白い。長いまつげさえも白く、その瞳は薄っすらと赤く、左目だけがやや緑がかっていた。目鼻立ちは小さいが整っており、顔には染み一つ無い。純白だった。想像してたより幼い容貌だったが、やはり美しかった。
彼女の鉄格子も同じように開けられている。すると背後から看護婦が現れた。いったい今までどこに居たんだ? 彼女は我々二人の手首を取って、無言で廊下を俺の部屋から見て左へ進んだ。
看護婦に促されるまま進む廊下は純白なチヅルとは対照的に壁や床に染みが多い。塵芥こそ落ちていなかったが汚かった。チヅルは時々不安そうにこちらを見ている。俺が見ると、その瞳は水平に細かく揺れていた。意識的にしてるのか、それとも無意識にその様になっているのかは判別がつかないが、彼女の姿も相まって脆く儚く思えた。
突き当りのドアを看護婦はやや乱暴に開いた。
眼球を焼く様な強い光が我々を襲った。色素の無いチヅルはもっとずっと眩しかっただろうと想像する。
目が慣れてくると、大勢の白装束の人間が見えてきた。それがまるで凱旋する軍を囲う群衆のように、左右に別れて存在していた。ところどころから拍手の音が聴こえる。群衆と異なるのはそれが整然と定規で線でも引いたように並んでいて、誰一人声を発しないことだった。
「いびつね」
チヅルは呟いた。歪? 云われてみればそうかもしれない。これは完全ではない。定規で直線を引いても細かいところで歪んでいるように、この光景は何か歪みを生じていた。科学者に云わせれば誤差の範囲内なんだろうけど、見る人が見れば致命的な歪み。
白装束で囲まれた道の先には大きな硝子製の球体が、緑色の液体を湛えていた。
そこに至って、初めて看護婦は声を発した。「あなた方はここ一つになるのです」
「一つ?」
「そうです。一体になるのです。そして覚醒するのです」
「かくせい」
チヅルは妖しく呟いた。
「そうです。覚醒です」
看護婦は汚く笑った。
衆目に晒されながら服を脱ぐ。不思議と羞恥心は無い。
彼女の裸が眼球に映る。真っ白だった。薄っすらと生えたアンダーヘアさえ漂白したように白い。この世に彼女より混じり気の無いものは存在しないと思えた。
「さぁ、覚醒を」
看護婦が叫んだ。
「覚醒!」
「覚醒! 覚醒ッ! 覚醒ィッ!」
「「覚醒! 覚醒! 覚醒! 覚醒! 覚醒! 覚醒!」」
覚醒――空間の中のあらゆる声が一つへと収束する。最初バラバラだったそれは次第にリズムを合わせ、やがて一つの歌となった。韻を踏むと部屋が鳴った。それは心臓をも震わせ、雰囲気に呑まれ、不安になった。
「だいじょうぶ」
チヅルの漂白された唇が艶めかしく動いた。どうしてだろう。酷く安心感を覚えた。
「さぁピアノマン。そろそろ出発の時刻が来たようよ」
彼女の声は幼く、無垢な処女のように思えるのだけど、一方でこちらを誘惑する娼婦のようにも思えた。それは本来相反する性質のはずだが、彼女になら両立する気がした。きっとあまりに現実離れしていて、違和感という違和感が麻痺してしまったのだろう。彼女の発音する音という音が、心臓を毛筆で撫でるようなくすぐったさ、心地よさと、恐怖を沸き起こらせた。
安心から恐怖への移行。心とは裏腹に身体は緑の球体へと向かう。彼女は俺の手を取った。そして指を丁寧に開いて、小指を絡ませた。
俺はハッと彼女の顔を見た。頬には涙が伝っていた。目はさらに赤く、充血していた。
「大丈夫だ」
彼女を心配させるものか。俺は強がる。
球体の下には対になった梯子があった。俺とチヅルは同時に手を掛ける。足を掛ける。昇っていく。そして上部だけ綺麗に切り取られた硝子の球体に足を掛けた。
「ずっといっしょに」
「ああ、いっしょさ」
俺たちは同時に飛び込んだ。液体の中に身体が沈む。水温は人肌で、温かいとか冷たいとか感じなかった。目を開いても痛くない。球体の外の光景は見えないけれど、チヅルの姿は鮮明に見えた。重力が消え失せ、俺は球体の中を思うがまま移動することが出来た。
俺とチヅルは手を取った。チヅルが俺を引き寄せたのか、俺がチヅルを引き寄せたのかわからない。ただ二人は絡みあった。ダンスを踊るように、二人を囲む液体を攪拌し続けた。液体の中で上下の概念が消え失せ、逆さまになってチヅルと繋がっていた。
すると不思議な事が起こった。チヅルの感覚が、自らにも感じられるのだ。初めは錯覚かと思った。けれども紛れも無く、俺はチヅルの感覚を感じていた。チヅルも俺の感覚を感じていた。どうしてだかそれはわかるのだ。二人はヘビのように絡まり、もはや二人の間に「個」という境界は無くなっていた。俺がチヅルに激しく打ち付けると、打ち付けられた感触が身体の奥へ広がっていった。
その瞬間、世界がぱっとはじけた。
妙に肌寒い。目の前には大勢の白衣の人間。辺りには緑色の液体がこぼれ、ガラス片が飛び散っていた。看護婦は何故か息絶えていた。ガラス片を心臓に受けたのだ。しかし、驚くべきほどに恍惚とした表情を浮かべていた。
「覚醒……」
白衣の一人が呟いた。それに続いて、人の群れのあちこちで声が上がった。
「覚醒したぞ!」
「アンドロギュヌスが降臨なされた!」
私は戸惑った。そして私は自分の乳房が膨らんでいることに気付いた。男根まで生えている。次に自らの両手を見た。恐ろしく白い。そして繊細だ。
自分の変化に驚いていると、群衆をかき分けるように禿頭の小柄な男が側までやってきた。白衣姿はまさにマッド・サイエンティストといった出で立ちで、左右の眼球の向きがカメレオンのように上下に若干ずれていた。そして甲高い声で、
「あなた様は全知全能の人造奇神、アノマロデウスとして転生されたのですぞ」と云った。
「あのまろ……でうす?」
「あなた様は完結していない不完全な世界を、完全で完結した世界へと作り変えるために降臨なされた。さぁ、後は思いのままに」
「アノマロデウス!」
感極まって誰かが叫び出す。それに続いて群衆が叫び出す。
「我らの人造神、アノマロデウス!」
「最初にして最後の人造神、アノマロデウス!」
「罪深きこの世界を滅ぼし給え!」
「アノマロデウス! アノマロデウス!」
崇め奉られた私は――「私」は――胸の奥から湧きあがる衝動の波に溺れるように、意識は混沌の中へと沈んでいった。