ネコな一日
いつものように満員電車に揺られ俺は大学に向かう。通勤ラッシュの時間帯にあたるため、いつも満員なのだ。一本遅い電車だと、一時限目の講義には間に合わない。かといって、一本早い電車だと、講義までの時間が有り余ってしまって暇で仕様が無い。小さな箱にぎゅうぎゅうに詰め込まれた中は、通勤途中のサラリーマンだの、通学途中の学生だの様々だ。そんな中に俺はいる。
今日も、いつもと変わらない、普段の何もないサイクルが続くのだろうと思っていた。満員電車に揺られ大学に向かう。大学での講義を受け、それが終われば電車で家に帰るという、至って平凡な日であると。
満員電車に揺られること二十分。電車は大同川という川の鉄橋にさしかかっていた。目的の駅まで、まだ四十分ある。
俺は揺れる電車の中でつり革をつかみながら、ゆったりと流れる川に目を向けていた。
突然身体が電車の進行方向に向かって強い衝撃を受けた。どん、と強く背中を押されたようで、踏ん張って止めることはできなかった。電車が急ブレーキをかけたようだ。
次の瞬間、俺の身体はふわりと軽くなった。身体から魂が抜けるかのような感覚。それも一瞬だった。気づけば、身体のあちこちから激しい痛みを感じていた。頭からは血が流れ出しているようで、額から頬にかけて流れ落ちてくる。身体は言うことを聞かない。全身が麻痺しているような感覚だ。
どれくらい痛みに耐えていたのだろうか、俺は意識が遠のいていく感じを覚えた。ここで意識を失ってしまってはいけない。瞬間的にそう思ったが、身体は意思に反していた。視界が徐々に歪んで見えてくる。瞼は意思に反し閉じようとする。そして俺の意識は、スイッチを切ったようにふと途切れた。
気がついたとき、その場所がどこなのか一瞬わからなかった。少ししてから病院だということに気づいた。しかし、俺はあまりにも不思議な光景を目の当たりにしていた。これは夢だ、と自分に言い聞かせるように頭を振った。
ベッドで寝ているのは紛れもなく俺だった。周りを、大学の友達や家族の者や医師たちが取り囲んでいる。母は俺の手をつかみながらわんわん泣いていた。父はそっと母の肩に手を置いている。姉は今にも泣き出しそうな顔で俺を見下ろしていた。そんな彼らの後ろに俺は立っていた。
どうして俺が二人もいるんだ? 様々なことが頭の中を巡る中、真っ先に出てきた疑問がこれだった。全く理解に苦しむ状況だ。
「おい、俺はここにいるぞ」
彼らの背中に向かって声をかけたが誰も反応しなかった。聞こえないふりでもしているのだろうかと思い、もう一度声をかけてみる。
「俺はここだ! 誰か聞けよ」
先程より大きな声でいった。同じように誰も反応しなかった。
身体が異常に軽いように思えた。ふと思い立って、その場でジャンプをしてみた。不思議なことに身体はふわりと宙に浮いた。
「うわぁ! なんだこれ」
思わず声を漏らした。それでも周りの者には聞こえていないようだ。
俺はふわふわと宙を漂い、天井近くまで舞い上がった。徐々に身体をコントロールできるようになってくると、寝ている自分の頭上までやってきた。ここにきてやっと事情が飲み込めつつあった。
どうやら俺は、何らかの理由で幽体離脱をしてしまったらしい。ベッドで寝ている俺から魂が抜けてしまったということになる。おそらく、あの時電車で起きたことが原因なのではないだろうか。一体、あの電車で何が起こったのだろうか。
幽体離脱ということは、俺は死んではいないのだろう。今の俺は心肺停止状態か、遷延性意識障害、いわゆる、植物状態に陥っていることだろう。いや、死んではいないのだから心肺停止状態ではないはずだ。
俺は寝ている自分に勢いよく突っ込んで行った。そうすれば戻れると思った。
しかし俺の身体は幽体の俺を拒んだ。身体に入ろうとした瞬間、何かに弾かれるような強い衝撃を受けた。もう一度同じように試みたが、結果は同じだった。
もう生き返れないのか、と思うと俺はがっかりと肩を落とした。泣きたいけど、涙さえ出てこない。
「亮輔、目を覚ませよ」
姉が沈んだ声でいった。いつの間にか姉は泣いていた。
俺は姉の後ろに立つと、肩に手を乗せようとした。しかし、俺の手はするりと姉の身体をすり抜けた。幽体の俺にはなにもすることができない。
なにもできない俺は居心地が悪くなり、窓から病室を飛び出した。身体はふわふわと空を漂っている。大空に解き放たれた風船のように、いくあてもなく、ただ空をさ迷う空しい存在。今の俺にぴったりの表現ではないか。
どうせ生き返ることは無理なのだから、幽体で存分に楽しんでやろうと俺は開き直った。
身体を自在に操り、空をビュンビュンと駆け回った。雲を突き抜け、空高くから街を見下ろしてみる。
人が小さなアリのように見えた。アリたちはせかせかと街を歩き回っている。右往左往するアリたりはまるで働きアリそのものだ。都会のビル群は玩具の積み木のようである。
突然後ろのほうから轟音が聞こえてきた。俺は振り返ってみる。
巨大な鳥が、轟音と共に物凄いスピードで俺に向かってくる。俺は避けることなく、ただぼうっとそれを見ていた。巨大な鳥は俺をすり抜けていくと、何事もなかったかのように去って行った。
街へ降りようと雲を抜けた瞬間、路地裏をすたすたと歩いている一匹の黒ネコを捉えた。ネコなどの動物には入れるのだろうか?
少し考え込んでから、黒ネコに向かって猛スピードで突っ込んで行った。身体はすっと、ネコの身体にとけ込むように入っていった。
ネコの身体を乗っ取ることに成功した。意識は完全に俺のものだ。ただ身体がネコなだけ。入ることができたのだから、いつだって出ることもできるだろう。
ネコの姿を借り、俺は歩き出した。慣れない歩き方に、俺の足取りは覚束無い。酔っ払いのおっさんみたいに、時折ふらついたりする。それでも、徐々に慣れてくると、走ることもできるようになった。ネコの身体は身軽で足も人間より断然速かった。
俺はふらふらと街をさ迷っていた。行くあてなどなにもない。
「安いよ、やすいよー。新鮮な魚をお昼のおかずに、夜のおつまみにどうですか」
どこからか威勢のいい声が聞こえてきた。俺は知らず知らずのうちに、声のするほうへと歩みだしていた。
「美味しい新鮮な魚はどうですか」
帽子を被った、魚屋の店主らしき人物が、威勢のいい声を飛ばしていた。俺は魚屋に近づいていった。
「しっしっ。またお前か、こっちに来るな」
俺に気づいた店のオヤジは近くの箒を手にすると、俺を追い払うようにそれを振り回した。俺は少し距離をとった。どうやらオヤジの言い草からして、このネコは店の品を奪う常習犯らしい。
「お前なんかをお呼びじゃないんだよ。とっとと失せやがれ、この泥棒ネコが」
オヤジは俺を睨みつけながらいった。オヤジの言葉に腹が立った。
昼も近く腹が減っていた。この魚屋から、一匹魚を盗んでやろうと決めた。盗んだからといっても、ネコなのだから犯罪じゃない。
(目に物見せてやる)
オヤジは警戒の色を浮かべ、依然として俺を睨みつけている。相当用心深いやつだ。くるりと魚屋に背を向け、俺はゆっくりと歩き出した。
「奥さんどうです。今日の食卓にこの新鮮な魚を並べてみてはいかがですか」
オヤジは再び営業に戻ったようだ。ちらりとオヤジのほうを見やる。満面の笑みを浮かべながら、客と向き合っていた。当然のことながら、手に箒は持っていない。
心の中で笑いながら、俺は魚屋のほうに向かって駆け出した。
「あっ! この泥棒ネコが」
オヤジは叫んだ。商品の秋刀魚を一つくわえ、少し走ったところで振り返った。オヤジは箒を持ち、怒りで顔を赤くしていた。
「あんのやろー。許さねぇ。とっつかまえてやる」
オヤジは俺に向かって走り出してきた。ネコと人間、その足の差は歴然だ。本気で走ってもいないのに、オヤジとの距離はみるみる離れていった。五十メートル程走ったところで、オヤジは諦めた。
生で食べる秋刀魚は不味くはなかった。むしろ、美味しかった。生魚が嫌いな俺でも、ぱくぱくと食べられた。ネコの味覚が影響しているからだろうか。ともあれ、秋刀魚を平らげた俺は、それだけで満腹になった。散々走り回ったせいか少し喉が渇いていた。
ネコの俺はお金など一銭も持っていない。さてどうしたものか。どうやって飲み物を手に入れようか、思考を巡らせた。先ほどの魚屋のように、スーパーなどに入り込み、商品を奪うということは無理だろう。無難に考え、やはり、お金を手に入れるということが、先決のようだ。
思い立った答えが自動販売機だ。少し歩いたところで、自動販売機を見つけた。自動販売機の下に顔を突っ込んで見る。少しきつい。自動販売機の下には、たまにお金が落ちているものだ。誤って落としてしまい、お金がその下に転がってしまうということがある。そうなると、手が届かなければ諦めるしかない。
奥のほうで、銀色に光る丸いものを見つけた。手を伸ばせばぎりぎり届きそうなところである。俺は力いっぱい手を伸ばした。それに手が届くと、ゆっくりと手繰り寄せた。銀色に光る丸いものは五百円玉だった。運のいいことに、最初の自動販売機でお金を手に入れることに成功した。
次に問題なのが、どうやってお金を投入するかだ。ネコの身体だと、到底投入口まで届かない。自動販売機の前を行ったり来たりして、俺は頭を悩ませた。なにか土台になるものがあればいいのだが……。
そう思いあたりを見回してみる。少し離れたところに、ダンボールが山積みにされているのを見つけた。それでは駄目だ。ダンボールだと、いくらネコの身体が軽くとも、乗ったところで潰れてしまうだろう。
その隣には粗大ゴミがいくつか捨てられていた。その中に、程よい大きさのパイプ椅子が捨てられている。それなら、俺でも運べそうだ。
パイプ椅子のところまで行くと、椅子の脚をくわえゆっくり後ずさりをした。倒さないように慎重にしなければならない。普段ならさっと運べるのだが、ネコの身体だとそうはいかない。 小さな身体で足と口に力をくわえ、ずるずると引っ張る。時間はかかったが、なんとか投入口の下まで運ぶことに成功した。
五百円玉をくわえ、パイプ椅子にひょいと乗ると、手を自動販売機に当てやって立ち上がった。ちょうど投入口が正面にあった。五百円玉を投入してから、自動販売機を見上げた。買う物はミルクティーと決めていた。目的の商品は、一番上の右端にあった。ここから、ジャンプをすれば届きそうだ。
足に力を加え勢いよくジャンプした。ミルクティーの高さまで飛び上がった時、ひゅっと、手を伸ばしボタンを押した。ごとりという音とともに、自動販売機から商品が落ちてきた。
さて、ここでまたしても問題が生じてしまった。商品をどうやって取り出すかだ。パイプ椅子から降り、俺は考え込んだ。ネコなのだから人間のように器用なことはできない。
突然俺の横に大きな影が現れた。見上げると、四十代前半のおばさんだった。手には大きな買い物袋を持っていた。どうやら、買い物帰りのようだ。
「あんた、賢いネコだね」
おばさんは感嘆の声を漏らしながら、自動販売機から商品を抜き取った。
買い物袋から、小さなお皿を取り出すと、そこにミルクティーを注いだ。かすかだが、ミルクティーから湯気が立ち上っていた。
「ほら、飲みな」
おばさんはお皿を俺のほうに差し出した。
「それにしても、ほんと賢いネコだわ。誰かに教え込まれたのかしら」
再度、感嘆の声を漏らすおばさん。
人間が宿っているのだから、賢くて当たり前である。おばさんには、知るよしもないのだが、そこらのネコと一緒にされては堪らない。
俺はお皿に顔を近づけると、舌をミルクティーに当てやった。いかにもネコらしい。しかし、それと同時に舌に激痛が走った。
「あっつ!」
俺は叫び、思わず飛び上がってしまった。おばさんには、俺の行動はどう映ったのだろうか?
先ほどボタンを押したところに俺は目を向けた。そしてしまったと思った。ミルクティーにだけ、目を向けていたためか、重要なところに気がつかなかった。どうやら、ホットのほうのボタンを押してしまったらしい。文字通り、ネコは猫舌ということだ。
「あら、ホットは飲めないようね。ちょっと賢いだけで、熱いものは飲めないのね。やっぱりネコだわ」
俺の行動を見てか、おばさんはくすくすと笑った。俺はちょっとむっとした。しかし言い返すことはできなかった。いや、ネコだからできないのではなく、無理なのだ。
それに、ちょっとは余計だ。そこらのネコより断然賢いはずだ。いや、おばさんよりも賢いのではないか、と俺は思った。脳細胞が死滅しつつあるおばさんの頭より、大学生である俺のほうが、よっぽど知識豊富な頭ではないか。
おばさんは立ち上がると、自動販売機の前に立った。お金の返却口から三百八十円を取り出すと、百二十円を入れ、ミルクティーのコールドのほうのボタンを押した。残りの二百六十円は、ちゃっかりと自分の財布にしまっていた。俺のほうまでやってくると、お皿のミルクティーを捨て、新しくコールドのほうを注いだ。
このおばさんは一部始終を見ていたようだ。
(最初から見ていたんなら手伝えよな。お釣りだけ自分のものにしやがって)
俺は心の中で罵った。
ともあれ、おばさんのおかげで、喉を潤すことができた。お礼の意味を込めて、
「ニャー」
と笑顔(ネコだから、人間にはどう見られるかわからないが)でかわいらしい声で鳴くと、その場を立ち去った。
午後も昼下がりになってくると、雲行きが怪しくなってきた。空は分厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな雰囲気だ。
ネコの身体に飽きつつあった俺は、そろそろこの身体を捨てようと思っていた。ネコの身体から離脱するため、意識を集中させた。外へ外へと、意識を追いやる。しかし、いくらやっても離脱できない。俺の意識はネコと同化したかのようで、離れる気配はなかった。それで俺は諦めた。
ちょっと不便なことはあるが、一生、自由奔放なネコでいるのも悪くはないなと思った。ネコの姿で学んだこともあるのだ。
人は時間に追われ、仕事に追われ、時として自分を見失ったりする。ストレスは溜まり、やりようのない怒りをどこかにぶつけたりする。縦社会だの、つまらない人間関係だのは、無理やり作らされた虚空のなにものでもない。そんな息苦しさを覚える社会に人は生きている。
しかしネコでいれば、そんな息苦しい生活をしなくてもいい。現実逃避になるかもしれないが、自由奔放に、自分の思うままに行動ができる。自分を見失うこともない。縛られるものがなにもないのだ。
俺は黒い雲を見やりながら、てくてくと歩いていた。行き着いた先は小さな空き地だった。隅のほうに土管が一つあった。その中で一休みしようと、そこに向かって歩き出した。
土管に入ろうとした瞬間中から、ぎろり、と鋭く睨まれた。どうやら先行者がいたらしい。俺は数歩後ろに下がった。中から出てきたのは、俺と同じ黒ネコだった。
「なんだ、お前は?」
黒ネコが鋭い目を俺に向けたままいった。ネコ同士だと言葉を交わせるらしい。
「その土管で一休みしようと思ってな」
黒ネコの目を真っ直ぐ見つめていった。
「はあ? ふざけるな。ここは俺の場所だ」
「場所なんて関係ない。とにかく俺は休みたいんだ」
「駄目だ。ここは俺の場所だ。お前はとっとと失せろ」
黒ネコはそういい残すと、俺に背を向け土管に戻ろうとした。
「このブス黒ネコが。いいから、その場所を俺に譲れってんだ」
挑発してやった。すると、黒ネコは足を止め、ぴくりと耳を動かし振り返った。鋭い目を俺に向ける。怒りからか、黒ネコの顔は歪んで見えた。
「なんだと、このやろ。調子に乗りやがって」
黒ネコはキレたようだ。全身の毛を逆立て
「ニャー」
と低く唸った。
同じように、俺も全身の毛を逆立て唸った。そしてじわじわと相手に、にじり寄って行った。周りから見れば、傍迷惑な二匹の黒ネコが、喧嘩しているように見えていることだろう。二匹の黒ネコの間には、一触即発の空気が流れる。
攻撃が当たるかどうか、微妙な距離になった時、黒ネコがネコパンチを放ってきた。俺はひょいとそれを避けた。
そして俺は一気に詰め寄って、黒ネコの顔面におもいっきりネコパンチを食らわせてやった。黒ネコは一瞬怯んだ。それを見逃さなかった俺は、さっと相手の背後に回り込むと、背中に飛び乗った。その後、背中に噛み付いてやり、ネコパンチの連打を浴びせた。勝負は呆気ないものだった。
「くっ、クソ。俺の負けだ。ここを譲ってやるよ」
黒ネコは観念したようだ。
「へっ、弱いな」
「いつか、ボコボコにしてやる。覚えてろよ」
黒ネコはくるりと背を向けると駆け出した。
「いつでもどーぞ。一生かかっても、俺には勝てないだろうけどね」
去って行く黒ネコの背中に向かっていった。
黒ネコを負かした俺は、土管の中に入り休むことにした。黒い空からは、ぽつりぽつりと、雨が降り出していた。雨は次第に強くなってゆき、ついには雷まで鳴り出しきた。俺は雨が止むまで、土管の中で休むことにした。身体を丸めて目を閉じた。
目覚めた時には、すっかり雨は上がっていた。どうやら、眠ってしまったらしい。大きな欠伸を一つすると、土管から這い出た。空には綺麗な虹が架かっていた。空き地を出ると、街のほうに向かって歩き出した。
街は人で溢れていた。皆が皆、なにかに急かされるように、すたすたと足早に歩いている。何人もの人が俺の横を通り過ぎて行く。俺は場違いなところに来てしまったような、孤独感を覚えた。誰もが俺の存在には気づいていないようで、都会という街の存在が、ネコの存在を消し去るかのようで。ネコは下町がお似合いなのだろうか。
電気屋の前まで来ると、俺は足を止めた。俺の目は、商品であるテレビのニュースに釘付けになっていた。ニュースは列車の事故を取り上げていた。
そのニュースによると、今朝、大同川に架かる鉄橋へ電車がさしかかった時、鉄橋が崩れたというものだった。鉄橋は老朽化していたらしく、電車の重みに耐えられず崩れてしまったということだ。
電車は全部で四両。四両全てが川に落ち、一人が意識不明の重体で、他の者は全員死亡とのことだ。意識不明の一人とは俺のことだろう。しかし俺は死んだも同然だ。ネコの身体から抜け出し、幽体が俺の身体に戻らない限り、生き返ることはない。
幸か不幸か、なんとも複雑な心境だ。たまたま、俺が乗った電車が被害に遭ってしまった。そして意識不明とはいえ、生き残ってしまったのは俺だけだ。そんなことを思ってしまうと、他の亡くなった人に対して、申し訳ないという気持ちが込み上げてきた。
テレビから視線を外すと、とぼとぼと歩き出した。心なしか、足取りが重いような気がした。しばらく、ぼうっと歩き続けていた。
前を歩く、スーツを着たサラリーマンらしき人が、ぽいとなにかを投げ捨てた。それは煙草だった。まだ火がついていた。
マナーの悪いやつだなと思いながら、俺は火を消そうと煙草を踏みつけた。同時に足の裏から熱を感じた。
「あつ!」
俺はネコであることをうっかり忘れ、つい癖で煙草を踏みつけてしまった。かわいらしいネコの肉球は、小さな火傷を負ってしまった。煙草を捨てたサラリーマンらしき人の背中を鋭い目で睨みつけた。
「あのやろ、許さねぇ。恥さらしにしてやるぜ。ずれてんだよ、バーカ」
俺はオヤジの背中に向かっていった。無論、オヤジは気づかない。自分の不注意なのだから、八つ当たりのように思えるが、この際そんなことは関係ない。オヤジは頭を上手い具合にカツラで隠しているようだが、第三者から見ればすぐにわかってしまう。
(思い知らせてやろうじゃないか)
魔が差したようで、俺はよからぬことをふと考えた。全く、ネコの姿を借りていれば怖いものなしでいられるというものだ。
俺はオヤジに向かって勢いよく駆け出した。素早くオヤジの股下に潜り込むと、そこでおもいっきりジャンプした。頭突きが、見事にオヤジの股間にヒットした。オヤジは悶え苦しみながら座り込んだ。すかさず、頭の上に被さっているものを剥ぎ取ってやった。オヤジの頭は見事なバーコード禿だった。少し距離をとってから、禿オヤジのほうを見やった。カツラはその辺に捨ててやった。
「あのネコすげーな」
「ふふふ、面白いネコね」
「あいつすごいぞ。そこらのネコよりおもしれぇー」
俺を見ていたらしい連中が、口々にいった。俺はなんだかいい気になってきた。
「くそネコが」
禿オヤジは顔を真っ赤にして、俺を睨みつけた。
「ニャー。ニャー」
俺は嫌味ったらしく、挑発するように喉を鳴らした。
禿オヤジは顔を赤くしたまま、俺に歩み寄ってきた。しかし、俺は逃げないでいた。こいつを、もっとからかってやろうと思ったのだ。
禿オヤジは俺に向かって蹴りを放った。俊敏な動きで、ひらりとそれを避けると、素早く背後に回りこみ禿オヤジの尻に体当たりをしてやった。禿オヤジはふらついた。その瞬間、周りかどっと笑いが沸き起こった。
もう一度距離をとり、俺は戯けるようにして飛び跳ねた。
「このやろー。馬鹿にしやがって」
禿オヤジの顔はますます赤くなっていた。ネコに虚仮にされるのは、どれほどの屈辱なのだろうか。
再び禿オヤジはずかずかと近づいてきた。その時、ふと別のものが俺の目に飛び込んできた。
横断歩道を二人の子供が、楽しそうにお喋りをしながら渡っている。ランドセルには交通安全の黄色いカバー。おそらく、小学一年生だろう。さらに奥からは、トラックが猛スピードで向かってきていた。赤信号だというのに、スピードの落ちる気配が全くなかった。運転手は気づいていないのかもしれない。
「余所見してんじゃねーよ、このくそネコが」
油断していた俺は、禿オヤジの重い一撃を食らってしまった。腹に激痛が走った。少し吹っ飛ばされたが、痛みを堪え態勢を整えると、勢いよく駆け出した。禿オヤジの横をさっと抜けていく。
「逃げんな、くそネコ」
禿オヤジが俺に向かって叫んだ。それを無視して、二人のほうに向かって走った。間に合うだろうか。トラックはたちまちに二人に迫ってきていた。
二人とも助けることはできない。どちらか、一人を選ばなければならない。どっちを選ぶ。俺が走りながら考えていると、隣に黒い影が現れた。それはあの時の、黒ネコだった。
「今は構ってやることはできない。後にしろよ」
俺は走りながらいった。
「わかってるよ。お前だけかっこつけて、死ぬなってんだ。お前が死んだら、俺のリベンジができなくなるだろ」
「お前死ぬつもりか」
「お前だって同じだろ。子供たちを助けるために死ぬんだろ」
「そうだ」
俺と黒ネコは二人のほうに向かって走り続けた。間に合うか……。トラックは二人の目と鼻の先にまで迫っていた。スピードは一向に衰えていなかった。俺はトッラクの運転手を見やった。運転手はうとうとしている。
俺はさらに加速し、小さな身体で男の子のランドセルに向かって体当たりした。黒ネコも同じように、隣の女の子のランドセルに向かって体当たりした。
間一髪、二人は車道から外れ、歩道に倒れた。しかし俺たちの逃げる時間はなかった。強い衝撃を受け、俺は宙を舞っていた。目が回り、世界がぐるぐる回る。
まさか、一日で二回も不幸なことに出会ってしまうとは……。この後、俺はどうなってしまうのだろうか。俺の意識はふっと途切れ、全てが真っ暗になってしまった。
「……りょ……う……すけ」
どこからか、ぼんやりと俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。その声は聞き覚えのある声だった。俺の意識は暗闇の中だ。
「りょうすけ」
今度は、はっきりと聞こえた。俺はゆっくりと目を開けた。視界がぼやけて見えたが、徐々にはっきりとしたものに変わってゆく。
そこには俺の知っている顔がずらりと並んでいた。泣き顔の母に姉、心配そうに俺を見つめる父や大学の友達。皆一様に俺を見下ろしていた。
「亮輔……目を覚ましたのね」
姉はそういうと泣き出した。それに釣られてか、母も泣き出した。
「……ニャー」
どこからかネコの鳴き声が聞こえた。近いようで、遠いようなか細い鳴き声だった。
皆の後ろに、黒ネコがいた。黒ネコは笑顔で俺を見つめていた。その黒ネコは、俺が身体を借りていたネコだ。どうやら他の者には、ネコの姿は見えず、鳴き声も聞こえなかったらしい。
(ごめんな。俺のせいで、お前を死なせてしまって。本当にごめん)
俺は黒ネコを見つめながら、胸の中で何度も謝った。
黒ネコは再度鳴くと、俺に背を向け窓に向かって歩き出した。窓を突き抜け外へ出ると、ふわふわと漂いながら、茜色に染まる空へとけこむかのように消えていった。
そうさ、ネコは何ものにもとらわれず、勝手気ままにいけばいい。死んだってネコは猫だ。きっと、あの黒ネコはこの先もずっと、自由に世界を旅するのだろう。
俺は重い頭を起こすと、夕空に目を向けた。
「俺も、いつかネコみたいに生きてみたいものだな」