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四章

 夕食で出陣の話が出た翌日は、準備に費やされた。その翌日には、イネルティア王国へ向けて出立した。

 クレトの率いる隊が最初に出る。そして、戦場でも一番で切り込まなくてはいけない。そんな決まりがあるそうだ。

「外衣は持ってきたか?」

 背中からかけられた声に、首を縦に動かす。

 イネルティア王国は、リューグナーの王都から少し北東にある。出陣を告げた夕食の後で、クレトにそう聞かされた。

 急な話だったが、一日あったので、布を数枚合わせて少し厚手の外衣を作った。それを荷物に入れてある。

 ケガ人の手当ての邪魔にならず、暖かい。そんな外衣を作ったつもりだ。

「そうか」

 表情は見えていないけれど、声の調子が微笑んでいる。それがなぜか嬉しくて、ファルリンは熱くなった頬を冷やしたくて、馬の首にしっかりと腕を絡めて顔を寄せた。


      ‡


 初めて見る戦場は、教典で語られている『地獄』──教義に反する自害や、戦場以外で他者に命を絶たれた者が行き着く場所──より恐ろしい光景だった。

 耳障りな金属音が響き、あちこちから悲鳴が上がる。巻き上がる砂埃に混ざり、むせ返るような血の匂いがまとわりつく。鼻が麻痺しているのに、それでも錆び臭い匂いが口の中で広がる。

 込み上げる吐き気を堪え、ファルリンの護衛という役目を与えられたロイクとともに、陣営のそばでケガ人の手当てを続けた。

 何かしていなければ、正気を失ってしまいそうだ。

「お姉さん、大丈夫?」

 心配してくれるロイクの顔色は悪い。やはり、匂いや雰囲気に負けているのだろう。頷いて無理に笑顔を作り、クレトがいると思われる辺りを眺める。

 戦場は、イネルティア王国側の国境付近だ。陣営はリューグナー王国内にある。

 到着前から寒さを感じていたファルリンは、着いて早々に荷物から出した外衣をまとっていた。イステラーハの外衣に袖をつけたようなものだが、裾を気にせず座り込めるのがありがたい。

 暖かめに作ったはずが、動き回っているとしっとり汗ばむ程度だ。

(ここでこんなに寒いなんて……もっと北のコリエンテはどんなに寒いのかしら)

 夏以外は行けないかもしれない。そもそも、夏でさえ震えてしまう可能性もある。

 そうやって現実から目を逸らしていなければ、広がる光景に心が耐えられそうになかった。それはロイクも同じらしく、帰ったらやってみたいことを呟いている。

「お姉さんと隊長と、また湖に行きたいね」

「そうね。帰った頃にはきっと、水に触るのが気持ちいいと思うわ」

「じゃあ、着替えを持って、湖で思いっきり遊ばないとね!」

 屈託のなかったロイクの笑顔に、妙な影が差していた。

 戦場を経験してなお、保てる無邪気な笑み。他人の痛みや苦しみ、悲しみを見ようとしない心。ファルリンもロイクも、そんなものは持ち合わせていない。

 必死に手を動かす。合間に、ともすれば剣戟にかき消されそうな声で会話をする。

 そうして気がつけば、空に夜の帳が降り始めていた。

 暗い中での戦闘は、基本的に行われない。不意をつく奇襲の効果よりも、同士討ちを恐れるからだ。おかげで、夜だけはゆっくり休める。

 陣営の天幕に戻ると、返り血を浴びたクレトの服を預かった。ファルリンが洗ってくる間に、クレトは着替えを済ませておく。それが、クレトの決めた約束事だった。

 夕食を済ませて寝るまでのわずかな間は、彼と他愛のない会話ができる貴重な時間だ。

「疲れただろう?」

 気遣ってくれるクレトに、最初は否定しようと思った。けれど、慣れないことばかりで確かに疲れている。今寝転がれば、朝まで起きられない自信があった。

 ロイクにならい、ファルリンも素直に頷いておく。

「早く休め。明日も朝から働かなければならないんだぞ」

 大きな手が、優しく頭をなでてくれる。

 ファルリンがいる天幕は、本来は一部隊の隊長であるクレト用のものだ。そこに、ファルリンとロイクが一緒に寝ることになった。

 本音を言えば、ロイクがいても一つところというのは恥ずかしいのだが。

『何かあった時に、あなたとロイクを確実に守れるように』

 命令だ。そう言われては、ファルリンは逆らえない。

「お姉さん、寝ようよ」

「そうね」

 あとひと言でもいい。もう少し、クレトと話がしたい。

 胸の内は声にならず、ロイクとファルリンが布団に潜り込んだところで、クレトがランプの明かりを消した。とたんに闇に包まれ、クレトの歩く気配や、布団に潜り込む音がやけに気になる。

「ね、お姉さん。手、つないで寝ようよ」

 子供っぽいお願いだと思ったのか。ロイクの声には羞恥がにじんでいた。

「ふふっ、いいわよ」

 布団からそっと出した右手に、ロイクの小さな手が重なる。

 確かな、他人の温もり。

 一人ではないという確信。

 右手から広がる熱が、緩やかに眠りへと誘う。

(私が真ん中だったら……)

 思考が最後まで行き着く前に、ファルリンの意識は深いところへ落ちていった。


      ‡


 リューグナー軍は進撃を続けた。抵抗は、今やほとんどない。あっという間に戦線は北上し、イネルティア王国の王都が見える位置までやってきた。

 王族らしい者は、今まで誰も来ていない。

 戦場に出られる年齢の者がいないのか。それとも、勝ち目がないからと逃げてしまった後なのか。

(逃げた方が、よかったのかしら)

 戦場で散った父と兄。一人きりの自刃ではなく、弟妹を巻き込んだ母。国を守るために戦ってくれた兵士たち。彼らが無駄死にだったとは思わない。けれど、最小限の被害で生き延びる道が、どこかにあったのではないかとも思ってしまう。

 考え込み、息を吐き出した瞬間、頭に手が乗せられた。

「あなたが気に病むことはない」

「そう、なんですけどね……」

 あの日、母と弟妹たちを連れて、隠し通路から脱出していたら。今頃、どうなっていたのだろうか。

 生き残りを探し、リューグナー軍の攻撃は民に向いたかもしれない。貴重な水源や、わずかな動植物を根こそぎ奪ったのかもしれない。問答無用で、民が奴隷として扱われていたかもしれない。

 母たちの盾になるつもりで、王の間に残った。結果として、イステラーハの民を人として生かすことができたなら──今置かれている状況も悪くない。そう思える。

「この国の王族は、どうなっているのだろうな」

 ぼそりと呟いたクレトを見上げてから、王都を見つめる。

 遠目にも生気のない街と王城は、生き物の気配さえ感じられない。しんと静まり返っていて、かえって薄気味悪いくらいだ。

「もし、王族が全員逃げてしまっていたら……この国はどうなるのですか?」

 思い切って疑問をぶつけてみる。

 眉根を寄せ、渋面になったクレトだが、ファルリンが譲らないと見ると渋々口を開く。

「……まずは、王族を探す。隠し立てする者、反抗する者は全員切り捨てる。それでも見つからなければ、この国はリューグナー王のものとなる」

 民はどうなるのか、と尋ねることはできなかった。

 ファルリンが死亡した場合、イステラーハの民は人として認められなくなる。王族が生死不明ならば、この国が受ける扱いも自然と推し量れるというものだ。

「王族を失った国の末路は悲惨だ。幼い王子でかまわないから、誰か……」

 イネルティアの民に、生きながらの地獄を味わわせるくらいならば。誰でもいい、生きていて欲しいと、ファルリンも願ってしまう。

 人として扱われないことの悔しさは、身をもって経験している。

(私は、王女として生まれた以上、イステラーハの民を守る義務があるわ。そのために、この首を差し出すことも厭わない。でも、王族の誰もがそういう考えじゃないこともわかっているから……)

 周辺が侵略を受け、いざ自分たちの番となった時。立ち向かうか、逃げるか。どちらを選択してもそれは自由と思う。だが、残される民たちへの責任は果たすべきだ。

 胸中に渦巻く感情をうまく言葉にできず、ファルリンは口をつぐむ。

 夜が明けきる前に王都へ迫り、一気に攻め込む。そう作戦が決まった夜、なかなか寝つけなかった。


 薄暗い中を移動する。相変わらずファルリンはクレトの馬に同乗しているが、今日は頭を低く保っていた。戦闘になった際、なるべくクレトに気を遣わせないようにと考えてのことだ。

 すぐそばにある森から、ホウホウと鳴く声がした。聞いたことのない鳴き声に驚いて、ファルリンは体を硬直させる。

「あの声はフクロウだ。イステラーハにはいなかったのか?」

「……それ、どんな獣ですか?」

 こだまし、響き渡る鳴き声からして、凶暴で、人を襲うのだろうか。

 怖々と振り返って尋ねると、クレトは笑いを堪えていた。

「森に住んでいて、夜に活動している鳥だ。明るくなれば静かになる。羽根を広げても、ロイクが腕を広げた幅より小さいはずだ」

 そう大きくない鳥と聞かされて、ホッと安堵の息を吐く。

「これまでも、時々聞こえていたんだがな」

 声音にからかいの色が混ざっている。

(いきなりで怖かったんだから、仕方ないじゃない!)

 馬に体をピッタリと寄せて、到着までファルリンは口を開かなかった。


      ‡


 イネルティアの王都は、息を殺しているという雰囲気ではなかった。人どころか、生き物の気配一つしない。まるで、王都そのものが死んでしまったようだ。

 クレトを筆頭に、彼の部隊が続く。ロイクは部隊の中央辺りで守られている。その後ろで、他の部隊が列を成す。

 耳に届くのは、石畳の道を踏む蹄の音と、馬の鼻息ばかり。

「街一つ分の人間が逃げ出せば、嫌でも目立つ。攻め入ってからの日数を考えても、どこかに潜んでいる可能性が高いな」

「見つかると、思いますか?」

「さあな」

 誰もいなければいい。そう思う反面、誰かいてくれたら、と願ってしまう。

 攻撃を受けることなく、王城へとたどり着いた。馬を降ろされ、ロイクと並んでクレトの部隊の中央で歩く。クレトは当然、先頭を歩いている。

 風通しをよくしたイステラーハの王宮と違い、イネルティアの王城は石造りで隙間がない。窓は小さく、壁は厚く、見える部屋には必ず暖炉がある。その暖炉は灰だらけで、焚いたまま急いでどこかへ出かけてしまったようだ。

 たくさんの靴が騒ぎ立てながら、人を探して城を上っていく。やがて、最上階までたどり着いた。

 天蓋のついた立派なベッド。大きなテーブルを、革張りのソファが囲む。どの部屋も、内側から鍵がかけられるようになっている。女性の部屋には鏡台が置かれ、男性の部屋には動物の頭部や鳥などの剥製がいくつか飾られていた。

 部屋の造りをかんがみるに、ここで王族が暮らしていたに違いない。

 慎重に部屋を探っていたクレトが、最後の部屋を開けた瞬間に動きを止めた。

「……最低だな」

 あまりに彼らしくない、地を這うような低い呟き。それが、室内を覗くことを躊躇わせる。

 表情をなくしたクレトが室内に消えた。衝動的に後を追ったファルリンは、そこに広がる光景に目の前が暗くなり、膝から崩れ落ちる。とっさに支えてくれたのが誰か、気にかける気力もない。

 すべての家具を壁際に避けた部屋のほぼ中心に、子供が一人転がされていた。年齢は五、六歳──母に連れていかれた弟と変わらないくらいか。長い金色の髪はひどくもつれ、手足は縛られ、口には布で猿ぐつわがされている。いつからこうして放置されていたのだろう。綺麗な青い瞳は濁り、焦点があっていなかった。

 子供を抱き上げて戻ってきたクレトは、無理に片手をあけて頭をなでてくる。

 頬を何かでくすぐられ、それが服にぽたぽたと落ちてようやく、ファルリンは自分が泣いているのだと自覚した。

「……王族が残っていてよかった、とは言えないな」

 憎しみのこもったクレトの声に同調する。

 ロイクよりずっと小さな子供を見捨て、残りは城を出たのだろう。しかも、王都の人間とともに。

 逃げた王族は一人残らず、息絶えてしまえばいい。

 いたいけな子供を見捨てた罰を、しっかりと受けて欲しかった。

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