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三章

 昨日は約束どおり、夕方の市で布と裁縫道具を買ってもらった。

『後で食べるといい』

 果物を売っているという店で、クレトが見たことのない果実をいくつか選んだ。加えて、上衣を三枚に、薄いモスリンの外衣を一枚、ちょっと視線を向けた通りすがりの店で、当然といった顔のクレトが購入してくれた。

 別れ際に果物の入った袋を押しつけられ、部屋に戻った。気になって袋を覗き、手のひらほどの大きさの赤い果実を一つ手にとって、恐る恐る歯を立ててみる。しみ出した甘い果汁とみずみずしい果肉に、気がついたら食べ終わっていた。

 リューグナーには、こんなものが当たり前にある。

 机の上に置いたままの残った果物を見て、ため息をついたのは今朝のこと。今は、昨夜のうちに作った下衣を身につけ、クレトに誘われるまま外へ出ていた。

(森というのは、どんなところなのかしら?)

 聞いたことのない言葉が示す場所が想像できずに、行くと聞いてからファルリンはずっと楽しみにしている。

 花の咲く丘を思えば、森も素晴らしい場所に違いない。

 丘へ行くより、少し長く馬に揺られる。そうして着いた場所は、たくさんの木が生い茂っていた。重なり合う木の葉が作る日陰と、そこを吹き抜ける風の涼しさ。ただ立っているだけでも肌寒い。

 もっと暑くなれば、心地よい場所ではありそうだ。だが今は、昨日買ってもらった外衣が欲しくなる。

「ここは、あなたには寒すぎるようだな」

 腕をさすっていたら、クレトが声に笑いをにじませながら呟く。ムッとして、ファルリンは振り返って睨みつける。

 短くした袖に、男性用の下衣。外衣さえ身につけない。

「そういうあなたは、ずいぶんと薄着なのね」

 何でもない顔をして、適当に言葉を濁すのだと思っていた。イステラーハの王宮で会った時と同じ、無表情で凍てつく空気をまとわりつかせると、予想さえしていなかった。

 寒さはもう、気にならない。けれど、体は勝手に震えている。

 不意にクレトが視線を逸らし、右の人差し指で額をかく。緊張から解き放たれた体は、嫌な汗をうっすらとかいていた。

「暑いところは苦手だが、寒い分には何ともない」

 深緑色の瞳は、どこを見つめているのか。

「……コリエンテの、出だからな」

 風にかき消されそうな悲痛な声で、しぼり出された言葉。

 コリエンテ。その名を、ファルリンは知っている。

 十年前、他と変わりない一国だったリューグナー王国が、突然攻め込んで領土とした国──クレトが言った、夏だけ雪解けの訪れる国だ。

 以後、リューグナーは周辺の国から順に侵略し、領地としていた。北方と西方はすでに、すべての国が屈しているはずだ。現在の王都は、かつてアンプリュダン王国だった土地にある。温暖な気候で、元々北にあったリューグナーの王都とは比較にならないほど過ごしやすいからだ。

 いつか侵略を受けるのだと、覚悟はしていた。生きている民のために、生き延びなければならない立場に置かれるとは、思ってもいなかったが。

 風に髪を遊ばせる彼の、背筋の伸びた立ち姿は凛々しい。

「あなたも言われただろうが、俺が生き続けなければ民が苦しむ。民が反乱を起こせば俺を殺す。そうして互いで互いを縛る……それが、リューグナー王のやり方だ」

(この人も……)

 民に対し、責任のある立場だったのか。

 王族が根絶やしになった領地は、リューグナー王が自由にする権利が生まれる。だが、侵攻時に王族を全滅させれば反感を生む。抑えるには、民とも戦わなければならない。なるべく手間をかけず、名実ともに自身の領地を増やしたいから、人質を戦場へと送り出すのだ。命を落とせば儲けもの。生き延びれば、次の戦場へ放り込むだけ。

 誰かのために生き続けること。それを果たすために、戦場を駆けること。

 故郷を守ろうと、立ち向かってくる人々を切り捨てる。その行為を、仕方がないと許すことはできない。しかし、侵略者として純粋に憎むことも難しくなってしまった。

 諸悪の根源は、リューグナー王だ。

「あなたの家族を、民を殺したことを、許して欲しいとは言わない。だが、俺は、死ぬわけにはいかないんだ……」

 目を閉じたクレトが呟く。

 否定することは簡単だ。だが、そこからは何も生まれない。かといって肯定もできず、ファルリンは風に吹かれて胸元に落ちてきた髪をなでた。


      ‡


 西の空が砂の海と似た色に変わり始めた頃、ファルリンは宿舎へ戻ってきた。厩舎へ馬を戻すというクレトを見送り、階段を上る。

 最上階へたどり着くと、部屋からロイクが出てきて鉢合わせた。

「あ、お姉さん、おかえりなさい!」

 癒しの効果がある笑顔が、ファルリンの顔を見たとたんにサッと曇る。

「何かあったの? お姉さんが悲しい顔をしていると、みんなも悲しくなっちゃうよ。僕は聞くことしかできないけど、話したら楽になれるかもしれないでしょ?」

 まだあどけないロイクの言葉が、土に染み込む水のようにスッと入ってきた。

 ファルリン自身、何が引っかかっているのかわからない。それを、誰かに話すことで見つけられたなら。

(でも、ロイクに聞かせる話ではないような……)

 戦争があったことも。自分が敗者となったことも。幼い子供に聞かせていい話とは思えなかった。

「……もしかして、お姉さんの国のこと、思い出したの? それで、寂しくなったの?」

 言葉に詰まる。

 眉根をギュッと寄せて、今にも泣き出しそうなロイクを見ていると、視界がぼんやりにじみ始めた。

 泣いてはいけない。そう戒めても、どんどん周囲は見えなくなる。

「僕も時々、思い出すよ。父様と母様と、兄様と姉様と、フラヴィ。みんなが笑ってた日に、戻りたくて泣きたくなる時もあるけど……男だから泣いちゃダメなんだ。すっごく悲しくても、前を見て生きていかなきゃ、トレーフルのみんながひどいことされるから。僕が、家族みんなの分まで、トレーフルのみんなを守らなきゃいけないんだ」

 王として国と民を愛し、愛されていた父。そんな父を支え、家族に笑顔をわけてくれていた母。次の王として勉学に励む、自慢の兄。後を追いかけ、慕ってくれた妹たちと弟。

 誰一人欠かせない、大切な家族だった。

 イステラーハの民も、失いたくない。整備された街道以外は砂地ばかりで、育つ作物は限られていた。水源となるオアシスのそばで麻を育て、その繊維で布を織って売る。食べられる実がなる植物も、オアシスの近くで水を引いて栽培していた。

 思い出し、堪えきれずに、ファルリンは座り込んで嗚咽をこぼす。

 その日を暮らすで精一杯だが、誰もが笑って過ごしている。そんな国だった。

 戻れるならば、今すぐにでも戻りたい。

(……ロイク?)

 誰かが頭をなでている。ロイクかと思ったが、彼にしては大きな手だ。

「ごめんなさい、隊長。僕が、お姉さんの国のことを思い出させちゃったの」

 懸命に主張するロイクの言葉で、なでているのが誰かわかった。けれど、手を払いのけたいとか、立ち上がって部屋へ戻ろうなどとは考えつかない。それどころか。

(もう少しだけ、このまま……)

 己の抱いた感情が理解できていないのに、頬が熱を帯びる。顔の熱さに驚き、涙も止まってしまった。

「いや、悪いのは、思い出すきっかけを作った俺だ」

「違うよ! 僕が余計なことを言ったから」

「ロイクじゃなく、俺が余計なことを言ったせいだ」

「違うって! だって、僕が家族やトレーフルのことを話したら、お姉さんが泣いたんだから僕が悪いんだよ!」

「出先で、今聞かせる必要のない話をした俺が悪いんだ。だから……」

「……ふふっ」

 どちらが悪いわけでもないのに。

 互いに「自分が悪い」と主張しあうことに。ロイクと真剣に罪を奪い合うクレトに。堪えきれなかったファルリンは、笑い声を漏らす。一度こぼれると、自分の意思では止められなかった。

 二人が呆然としている空気だけは伝わってくる。

「まるで、子供が仲良く、ケンカをしているみたい」

 肩を震わせていると、頭の上からため息が二つ落ちてきた。

 郷愁と悲しみで流れたのか、それとも笑ってにじんだのか。混ざってわからなくなった涙を指で拭い、ファルリンは顔を上げる。

「子供で悪かったな」

「どうせ僕は子供ですよ!」

 同時に拗ねた声が降ってきて、ファルリンはもう一度声を立てて笑った。


 夕食の時も翌日も、クレトとロイクと顔を合わせるのが気恥ずかしかった。向こうも同じ気持ちだったのか、話をしても視線がほとんど合わない。

 この日連れていかれたのは湖だった。

「小さいだろう?」

「え? 私が知っているどのオアシスよりも大きいですよ?」

「わぁ……リューグナーって、こんなに大きな水たまりがあるんだね!」

 一人馬に乗ってついてきたロイクの感想に、ファルリンは思わず頷く。

「ここ、十分大きいよね」

「ねー」

 顔を見合わせて頷き合うファルリンとロイクに、クレト一人が納得していない表情だ。

(きっと、コリエンテにはもっと大きな湖があるのね)

 これまでは、いつかコリエンテだった場所へ行けたら、と思っていた。けれど今は、いつか行ってみたい、と願ってしまう。

「まだ時期じゃないが、夏になれば水浴びもできるぞ」

 何度か来ている口振りのクレトに、ロイクが目をキラキラと輝かせる。ファルリンも、いいことを教わった嬉しさから、彼をジッと見つめた。

「暑くなったら来るか?」

 苦笑いで誘われ、ファルリンもロイクも、首を大きく縦に何度も動かす。

「約束だよ!」

「ああ」

 満面の笑みで飛び跳ねるロイクに、クレトが笑顔で承諾する。

「もちろん、あなたも一緒だ」

 目を合わせて告げられ、ファルリンの顔に自然と笑みが浮かんだ。


      ‡


 午前は剣の訓練に費やすクレトは、午後から外へ連れ出してくれる。息抜きなのか、たまにロイクが同行することもあった。

 はしゃぐファルリンを、クレトはただ見つめている。時には一緒になって、笑顔をこぼしてくれた。天候などが危険と判断された時には、さっさと切り上げてしまう。だが、別の機会にまた訪れてくれる。

 温かいもので体中が満たされる、穏やかで、のんびりとした毎日。こんな日々が、いつまでも続くのだと思っていた。

 ファルリンがリューグナーへ来て半月。春の第三月の終わりに差しかかる頃だった。

「少し、外へ出ないか?」

 午後に軍議があるから、今日は外出できない。朝食の席でそう言ったのはクレトだ。だが、見るからに沈んでいる彼の、気晴らしの機会を奪いたくはない。

 承諾すると、クレトはホッとしたのか。表情を緩めて厩舎へ向かい、彼の愛馬を連れて戻ってきた。

 じきに日が落ちるため、街の外へ出たところで馬を止める。手近な木に手綱をくくりつけ、その場でクレトは座り込んだ。

 ため息までついて、顔色もよくはない。

「……何か、あったのですか?」

 クレトの表情がますます硬くなる。

 駆けていく風に、緑色の絨毯がザァッと、妙に大きな音を立てて揺れた。

「ロイクが言っていたんですけど」

 そう前置いて、ファルリンは話し出す。

「私が悲しい顔をしていると、みんなが悲しくなるらしいんです。だから、あなたが沈んでいると心配になって、やはりみなさんが沈んでしまうと思うんです。私もロイクと同じで、話を聞くくらいしかできませんけど……話してみたら少しは楽になりませんか?」

 途中で口を挟ませないよう、息継ぎもなるべく減らし、少し早口にしてみた。

 驚いたのか、呆れたのか。クレトは瞬きを繰り返して見上げてくる。

 どのくらいそうしていたのだろう。しばらくして、右手を持ち上げたクレトが、人差し指で額をかいた。口元には苦笑が浮かんでいる。

「夕食の時に、話すつもりだったんだが……出陣の命令が下った」

「え……?」

 頭から冷水を浴びせられたように、一気に冷えた。少しずつ寒さが薄れてきたこの頃では、一番の寒さを今味わっている。

 歯の根が合わず、問いかけようにも声が出ない。

「東方の、イネルティア王国だそうだ」

 イステラーハからは、馬を飛ばし気味でも片道三日弱かかった。イネルティア王国の正確な位置は知らないが、それ以上の時間がかかってもおかしくない。

「今回は、ロイクも同行する。……十歳に、なってしまったからな」

 淡々と言葉をつづるクレトの声が、あまりに平坦で。彼が感情をなくしてしまった気がして、ファルリンは顔をしかめた。

 ロイクはまだ十歳の子供だ。戦場に出て、生き延びられるとは思えない。

 かける言葉が見つけられなかった。見上げるクレトの表情は、痛みと涙を堪えているように映る。

「あなたはここで、待っていてくれ」

「嫌です」

 考える暇もなく、ファルリンは拒絶を返していた。答えてから、その理由を自身の中に探す。

 何が嫌なのか。なぜ嫌なのか。

 答えられなければ、納得させられなければ。クレトは同行を認めないだろう。

「あなたは私を、戦の報償として選んだはずです。それなのに、置いていくのですか? 私はたった一人で、よく知らない土地で、どれだけの時間を待てばいいのですか? 遠く離れた地で、いつまであなたやロイクの無事を祈ればいいのですか?」

 悲しい。寂しい。苦しい。置いていかないで。一人は嫌。そばにいたい。

 いろいろな感情が混ざり合って、体の奥底から湧き上がる。じんわりとにじむ視界を、止められない。

「あなたにもしものことがあったら……私はまた、一人になるのですか?」

『この国最後の王族を連れ帰れと、陛下から命令を受けている』

『あなたが最後だ』

 クレトがあの日告げた言葉が、氷の刃となって胸に突き刺さる。

 父と兄は国を守るために戦った。だから、彼らの死自体は受け入れている。母がいなくなる可能性を、まったく考えていなかったと言えば嘘になってしまう。でも、弟妹のために逃げてくれると信じていた。

 この辺りで信仰されているノードゥス教は、配偶者の死を知った三日以内を除き、自刃を許さない。四日を過ぎたら養護院へ入り、他者への奉仕で一生を過ごす。

 だからあの日、母だけは自ら命を絶つことを許されていた。けれど、ファルリンや弟妹たちは別だ。

 配偶者の死による自刃。もしくは、戦場での死。それ以外で命を奪われるのは、失った側に非があるとされている。

 母の自害に巻き込まれた弟妹たちが、どんな扱いを受けるのか。教典には、死してなお苦しむとしか書かれていなかった。

 たとえ、クレトが異国で果てたとしても。ファルリンは後を追うことはもちろん、養護院へ入ることもできない。それどころか、リューグナー王の命ずるままに、望まぬ結婚を強いられる可能性もある。

 もう一度、一人になってしまったら。

 教えに反して、命を絶ちたくなるかもしれない。

「だが、あなたを連れていくわけには……」

「ケガ人の手当てくらいならできます。ここに残るくらいだったら、戦場にいる方がずっと生きている気になれます!」

 睨んでくるクレトは、怖くない。本当に怖いのは、一人取り残されること。

 ジッと見つめ、瞬きの回数も減らす。

「……何があっても、俺の命令は絶対だ。それが守れるなら、連れていこう」

 どうあっても譲らないファルリンに、ため息をついたクレトが折れた。

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