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一章

 差し込んできた光に射貫かれて、ゆっくりと目を開けた。

 視界に入る風景が、いつもと違う。

 見慣れない天蓋。はめ殺しの窓。手触りのよい寝具からはみ出していた手は、すっかり冷えている。

 持ち上げた腕がまとうのは、昨日着ていた服だ。

 鮮やかな赤色でくるぶし丈の上衣には黒の、半袖で丈の短い黒色の外衣には白の糸で、袖口や襟周りに華やかな刺繍が施されている。イステラーハではありふれた女性用の衣服だが、少しだけ上等な生地を使用していた。

(……そう、だったわね)

 記憶にない景色が広がっていて当然だ。

 あの後、時間稼ぎのために王の間に居残った。

 王宮の中を吹き抜ける風が生温い。血の匂いを混ぜ、淀んで湿っている。胸に吸い込むだけで気分が悪くなりそうだ。

 王宮に残っていた兵士たちは全員、外に出たきり戻って来なかった。彼らを思い、嘆く暇もなく、誰かの足音が響く。

『あなたが、ファルリン・マフヴァシュ・イステラーハか?』

 問いかけてきたのは、革製の胸当てと手甲だけを身につけた青年だった。戦場に赴いた父や兄とは、比べものにならない軽装だ。返り血を浴びたのか、武具も服も色が変わっている。顔も、癖のない金茶色の髪も、ところどころ染められていた。

 向こうは剣を鞘にしまい、背筋を伸ばして立っている。ただ向かい合っているだけで、過去に覚えのないほどの威圧感を受けた。

 気を抜けばきっと、体が震えてしまうだろう。

『己の名を名乗れぬ者に、与える答えはありません』

 涼しげな、深緑色の瞳を真っ直ぐに見つめる。何の感情も見えないところが、かえって恐ろしい。

『リューグナーの英雄。そう言えば、あなたでもわかるか?』

 わかりきっていたことだ。それでも、言葉にして突きつけられると、打ち消せない恐怖心が湧き上がる。

『ええ、理解できます。私は、ここイステラーハの第一王女ファルリンです』

 名乗ったことで、命を奪われる結果になったとしても。もしくは、捕虜としてとらわれの身になったとしても。

 生き残った家族が無事でいてくれたら、それでいい。

『では、俺とともに来てもらおう』

『わかりました』

 生かして連れていく価値があるのならば、甘んじて受け入れよう。

 近づこうとする青年を制し、ファルリンは自らの足で彼へと進む。一歩踏み出すごとに、長い亜麻色のうねる髪が揺れる。

 彼が手を伸ばせば届く距離。そこまで近寄ったファルリンが足を止めたとたん。

『きゃっ!』

 無言で引き寄せられて抱き上げられ、思わず悲鳴を上げてしまった。それを恥じ、ファルリンは彼の背中を見つめる。

『この国最後の王族を連れ帰れと、リューグナーの王から命令を受けている。悪く思わないでくれ』

 初めは、言葉が耳を素通りした。それからじわじわと、放たれた言葉の意味が浸透していく。

『……この国最後の、王族?』

『ああ。あなたが最後だ』

 理解すると同時に、込み上げた感情が涙となってこぼれ落ちた。

 なぜ。どうして。

 叫んでしまいたかった。けれど、声にはならないままで。

 現実から逃げようとしたのか。それっきり、気を失ってしまったらしい。昼の三刻に近かったはずが、今は朝のようだ。

 イステラーハではあり得ない肌寒さから、北へ来たのだとわかる。リューグナー王国の王都へ行くのだろう。

 身を起こし、ファルリンはベッドから降りた。イステラーハでは考えられない、厚みがあって毛足の長い絨毯。その感触が、布を何枚も重ねて打ちつけた靴底から伝わり、落ち着けない。

 長くてゆるやかに巻いた髪は、毎朝嫌になるくらい絡まってくれる。顔を洗って服を着替えるのは、絡まりを櫛でとく時間の半分以下で済むというのに。

 ため息をついて、部屋を見回す。寝るためだけの部屋らしく、ベッドの横に燭台を置く台があるだけ。他には何も見当たらなかった。

(どこにあるのかしら?)

 誰かと顔を合わせる前に、せめて、最低限の身支度は整えておきたい。

 唯一のドアに手をかけると、動かしていないのにノブが動いた。驚いて、体ごとドアから大きく離れる。

 向こう側に、リューグナーの英雄が立っていた。帯剣しているが、防具は何も身につけていない。

 起きていると思っていなかったのか。あちらも驚愕を張りつけ、ファルリンを見つめながら瞬きを繰り返す。

 初めて見た時は二十半ばと思った人相が、少し幼く見えた。

「早いんだな」

「眩しくて、目が覚めましたから」

「そうか」

 頷いた彼は、スッと身を引いて向こうの部屋を見せてくれる。

 正面の壁の中央には暖炉があり、その脇には薪が積まれていた。壁には、色鮮やかな風景画はあっても、人物画は一つもない。濃い赤色の地に黄色で幾何学的な模様が描かれた絨毯は、やはり毛足の長いものだ。

「身支度はこの部屋でするといい。俺は廊下にいるから、終わったら声をかけてくれ」

 踵を返した彼は、隣室のドアから出ていった。

 覚悟が決まるまでしばらく待って、ファルリンは隣室へ足を踏み入れる。

 備えつけの暖炉以外、家具らしいものはない。顔を洗うぬるま湯も、髪をとく櫛も、着替えさえも見当たらなかった。

(この部屋で、どんな身支度をしろと言うのかしら)

 もつれている髪を指先でつまみ、視界に入れる。この髪を道具なしでとかすのは、絡まって結び目を作った糸を手でほどくのと変わりない。

 大きなため息がこぼれ落ちた。

 仕方なく、服だけを整えて、外へ通じるドアを開ける。

「もういいのか?」

「何もないので、これ以上はできません」

「……必要なものがあるのか?」

 見上げた男の髪は、絡まりようがないほど真っ直ぐだ。昨日は取り立てて注視しなかった顔立ちも、ハッと目を引く程度には整っている。無感情で怖かった瞳も、今は生い茂った木々の葉のように感じられた。

 目の前にいるのは、百戦錬磨のリューグナーの英雄だ。態度が悪ければ、腰の剣で首を切られるか、はたまた刺し殺されるかもしれない。

 そんな当たり前のことが、頭からスルリと抜け落ちる。

「まずは、顔を洗うぬるま湯が必要です。それから、この髪をとかすための櫛。あとは、あなたには用意するのが難しいかもしれませんが、着替えも欲しいです。もっとも、これは必要最低限ですけれど」

 指を折りながら伝えれば、彼は目を見開いて呆然としていた。その後、視線がゆっくりと、ファルリンの頭からつま先まで下りていく。

「気が回らなくてすまなかったな」

 今度は、ファルリンが呆気に取られる番だ。

 血も涙もない。通った後には、草木一本も残さない。冷酷非情な男。そう聞いていた彼の口から、謝罪がこぼれるなんて。

「すぐに用意させる。他に必要なものは? 手伝いの手はいるか?」

「手伝いは一人、貸していただければ」

「わかった。少し待っていろ」

 ファルリンを部屋に閉じ込めることなく、彼はどこかへ歩いていく。見送る背中は、マントを翻して颯爽としている。

(今だったら、逃げられるかしら?)

 考えるまでもなく、下策だ。

 ここがどこかもわからない上、土地勘もない。肌寒さを覚えるのだから、ずいぶん北に移動したようだ。この辺りの住人が、侵攻の話を知っている可能性も否定できない。そんな中で、イステラーハ王国民の格好は目立つだろう。

 諦めるために、首を数回横に振ったところで、彼が戻ってきた。手には湯の入った桶を持っている。後ろには、ファルリンと同年代の少女が、着替えと櫛、手鏡を抱えていた。

「待ったか?」

「いいえ」

「そうか」

 ドアを大きく開けてやると、彼は桶を部屋の中心に置いた。少女は桶のそばに立つ。

「終わったら呼んでくれ」

 それだけ言うと、再び彼は部屋の外へ出る。

 まずはぬるま湯で顔を洗い、やわらかなリネンで丁寧に拭く。それから、少女に助けてもらって服を着替えた。

 脱いだ服のあちこちが、赤茶けた色に染まっていた。それが何か気づき、ファルリンの手から着ていた服が滑り落ちる。

 呆然としている間に、少女が黙々と服を着せていく。

 襟が詰まり、袖先がいくらか広がった白地のチュニックには、赤や青、緑といった色鮮やかで細かい刺繍が全面に施されていた。その上に着た、袖のない黒色の上衣は生地が厚めで、白い糸が渦を巻いて模様を描いている。上衣の大きく開いた襟元には、白いレースが縁取られていた。

 下衣を身につける習慣がない土地らしく、仕方なく下衣だけはもう一度身にまとう。裾についていた染みが気になり、縛っていた飾り紐をほどいて、二回ほど折り曲げて隠す。

「これは、どこの服なの?」

 少女は質問に答えず、櫛を手に後ろへ回る。無言で、毛先からゆっくりと髪をとかしていく。

 会話をするな、と厳命されているのかもしれない。

 知ることを諦め、ファルリンは髪の絡まりがすべてほどけるのを待った。


 引っかかることなく指が通る。そのくらい丁寧にとかれた髪を確認して、少女は部屋を出ていった。彼女に続いて廊下へ顔を出したファルリンは、待っていた男に声をかける。

「……見違えたな」

 思わず、といった体で出た言葉だったのか。彼自身が驚いた表情で、右の人差し指が額を数回かいた。

「初めからすべて用意してあれば、最初からこうなっていました」

「そうか、すまなかった。次からは気をつけよう」

 素直で薄気味悪い。

 今まで話に聞いていた人物像と、ここにいる彼が同じ人間のことだと思えなかった。少なくとも、今目の前にいる男は、彼自身が生きてきた狭い世界しか知らないように感じられる。

「明日の夜には王城へ着く。必要なものは申し出てくれれば、たいていのものはそろえられると思うが」

「そうですね……三度の食事と、寝られる場所と、朝起きた時に身支度ができればそれで十分です」

「わかった、心がけよう」

 力強く頷かれ、もう一度毒気を抜かれた。


 朝食の後、馬車で移動すると思い込んでいた。けれど、外へ出たファルリンの視界に、馬車は見当たらない。しっかりと鎧をまとった兵士たちが馬上にいるだけだ。

「行くぞ」

 服の上から腕をつかまれ、引っ張られる。痛くはないが、驚いて悲鳴がこぼれた。

 連れていかれた先には、馬が一頭つながれているだけ。

(ま、まさか……)

 馬に乗ったことなどない。そんな人間に、乗馬して移動しろと言うのだろうか。

「乗れるか?」

 振りすぎてクラクラするほど、頭を振ってみた。

 ファルリンの反応は予想していたのか。彼は表情一つ変えず、後ろからファルリンの腰を両手で支えて抱き上げる。そのまま、馬の上に下ろされた。すぐに馬に飛び乗り、彼はファルリンの後ろに座る。

 手綱を握る腕の間に収まった形で、居心地が悪い。

「馬の首にしっかりつかまっていろ。あなたが振り落とされないよう、気にはかける」

「え?」

 反論や質問をする暇もなく、彼は号令とともに馬を走らせた。体を支えきれず落ちかけたファルリンは、慌てて馬の首に体ごとぶつけてすがりつく。

 伝わる振動の激しさに、言葉を発することもできない。舌を噛まないよう、歯を食いしばってつかまっているのが精一杯だ。

 何度か休憩を挟み、昼食を取る。そして、辺りが薄闇に包まれる時間まで、ほとんどを馬上で過ごす。体が痛いと泣き言を言っても、何も変わらない。

 気力が限界を迎えそうな二日目の夜、ファルリンはリューグナー王国の王城前に立っていた。

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