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第二十八章 火蓋

 正盛の心は、はがねにでもなったかのようにほんの一瞬たりとも揺らがなくなった。何かの拍子に張り詰めたものが壊れてしまうような気の緊張とは全く違うんだ。うまく言えないが、俺も試合になったときはこれに似た境地になる。この気持ちになると相手に一本取られようが猛攻を受けて防戦になっても相手を見つめて入られるほど冷静さを保てると言えばいいだろうか。これが歴史の剣豪が言うところの『無の境地』と言うのかは知らないが、今の正盛は無敵だ。例え命がなくなり、肉体が消滅しようとも魂だけは誰にも奪われない。そんな気概が感じられるといったところだろう。


 隊の先頭を切り馬を走らせる正盛の気持ちも皆に伝わっているのか、隊の気持ちにも同じものが感じられた。正盛と一夜を過ごした霧子と澪に見える女官たちの心にも恋愛的な浮ついた感情などは全くない。思わず気になって正盛から離脱して隊の状態を確認するまでも無かった。正盛達は最強の軍隊へと変貌を遂げたのだ。


 周囲の岩壁は次第に狭くなりはじめると、澪さまと護衛が沢を登り別れた。背後を振り返ると霧子も既に居ない。中央は正盛を含む十七、八名の手勢となっていた。これは既に敵陣に入ったということなのだろう。


 ピーっと、甲高い笛の音が耳奥になり響く。『かすみの合図だ』と正盛の心がそう言った。霞とは霧子の顔をした女官のことだと俺は直感した。我が想い人の澪は、光の矢を放てる上に身体能力も高く、黄泉戻師の能力を高める増幅師の家系である。疑うまでもなく、澪さまは澪華のご先祖さまなのだ。では、霞も澪さまと同じような立場の者だとすると、現、霧子も何かの能力者なのだろうか。黄泉の話では、黄泉戻師に協力する現地協力者という触れ込みなんだが、給料は階級のある俺よりも五千円も高かった。女性が強い職業だとは聞いているが役職者より給料高いってどういうことだ。まあ、俺よりも長く勤めているとは聞いてはいるのだが、なのにどいつもこいつも俺に集りやがって。

 おっと、いかん、いかん。集中しないと。思わず離脱したから時は進んでいないのが幸いだ。確か甲高い笛の音が聞こえたのだったな。

 

 俺はおもむろに正盛の体に戻ったが、正盛達は馬を降り、岩場に身を屈めた。馬達は尻を叩かれ後方に走り去って行った。何があるのか俺はなんとかく予想がついた。その最初のものがシュンという音とともに、正盛が屈む岩の上に激突し、弾かれて下に落ちた。それは金属製の鏃のついた矢だった。

 その矢を皮切りに、無数の矢が天空からどっと飛来した。あのままあの場にいたら間違いなく一行は馬もろとも串刺しになっていたことだろう。

 しかし、この時代に望遠鏡があったとは思えない。最古とされる日本の望遠鏡は徳川時代のものだ。新しもの好きの戦国武将の誰かは使っていたかもしれないがそれでもこの時代より千年近く後の時代なのだ。そうなると、霞は千里眼の持ち主なのだろうか。そういえば霧子も、遠くから俺を見ていないようでよく見ているし、聞いていて、広辞苑などでの物理攻撃を的確にこなすな。やはり、血筋ということなのだろうか。

 正盛の手勢が同行していた三十名程度などではなく、別の場所から随行していた可能性もあるな。


 矢の嵐は数十分に渡って続いた。一回打ってから次が来るまでおよそ五分はかかっていた。おそらく木製の機械でも使っているのだろう。百鬼姫の手勢も先の正盛たちとの戦いで相当に削られたと聞いている。これほど大量の矢を遠距離で無数に放つなど機械を使わねば無理なことである。


 再び、甲高い笛の音が耳の奥に響いた。矢嵐の警告のものとは明らかに違っていた。気の大きさも心無しか違うように感じられたが、恐らく、これは矢嵐終了の合図なのだろう。無数の矢も消耗品だ。オートメーションの無いこの時代では、多くの作り手を必要とする産物だ。一定時間に多量に消費すれば補充はままならなくなる。果たして先方の目論みではこちらの戦力をいかほど削いだ計算なのだろうか。見たところ深手を負った者は一人と居ない。この分では散開した兵や別方向から追従している部隊も同様に殆ど無傷であるに違いないと思える。

「兄者、霞殿がたった今、身罷みまかったとの知らせが。それとこれは敵の位置を書き記したものです」

 正盛は弟、宗盛から手渡された黒い艷やかな髪の毛の束を右手で受け取ると、開き内容を確認する。そして顔を天に向けかすかに涙ぐむのだった。「かすみ、許せ」と一言漏らした。

「宗盛、丁重に葬るよう伝えろ。それと國へは使いの者を行かせろ。わしからのふみも添えてな」

「兄者、あいわかり申しそうろう」


『・・・・・!』


 なんてこった。百鬼姫の狙いは正盛軍の兵力の削減ではなく、正盛軍の鉄壁の砦を崩すことだったとは。千里眼を無くすということは、強力な索敵システムを失ったも同然だ。何千本はあったであろう大量の矢を失うだけの敵の見返りがよりにもよってこれだったとは。

 しかし、これで血筋が途絶えている訳では無いのだろうな。たまたま俺には、霞が霧子に見えているだけだが、岩崎の血筋はうちの街ではわりと多いと聞いているしな。あの激しいまぐわいぶりだ。既に二、三人はガキはいるんじゃないのかな。しかし、運命とはいえ残酷なことである。

 彼女は、自身が真っ先に命を狙われる対象であることを知りながら、戦いの最前線に立っていたのだ。死を目前にしながらも愛する男と激しくまぐわっていたのだ。それもほんの数時間前のことなのだ。どういう思いが去来していたのか、本番経験なしのチェリーの俺には皆目分からない。これは何百年も前に起きた遥か昔のことなんだ。俺にはどうすることもできない。正盛も、宗盛もこれから十数年後には亡くなってしまうのだからな。


 気がつくと隣には澪がいた。ちょうど、正盛から霞のことを告げられている。だが、流石というか澪は一瞬目を曇らせるだけで、すぐに平常心を取り直している。誰が死んでもおかしくないという覚悟が最初からあるのだろう。澪は正盛に百鬼姫の居場所を耳打ちしてきた。しかし、言葉はまったく発していないのに、正盛の頭の中に場所の映像までもが映し出されてくる。この時代の澪はとてつもない能力の持ち主なのだな。やがて澪の体から熱のようなものが伝わって来る。不安な気持ちが消し去られ、とてつもないエネルギーというか血流が活発になり力がみなぎってくる。ちょうど、淀みに支配されたマユを倒す為に、俺を挟んで黄泉の力を増幅させた時に似ている。俺が偶然に爆走猪を倒した時とも似ているが、それなどとは比べ物にならない。


 正盛と澪は無言で見つめあっている。そして、接吻を交わす。なんとも長くも落ち着いたひとときだろうか。正盛は目配せで宗盛に合図を送ると、いっせいに走りだした。正盛は澪を従え、二人だけである方角へと走っている。それは百鬼姫が居るとされる場所である。宗盛たちはそれとはまったく異なる方向へ方々に散って行く。狭い谷には丘からふり下る風と正盛たちのかけ音で鳴り響き、こだまする。まさしくこれは陽動と霍乱だ。宗盛たちは、霞が教えた場所で待機している敵部隊を先陣部隊と取り囲み叩きに行ったのだろう。霞が書いた図面は矢を放ったときの配置図と、そこから予測される移動経路が記されていたようだ。

 彼らは百鬼姫の居場所を頂点とし、ちょうど桃の実の輪郭状に配置され、お尻へと回り込み、百鬼姫の不死の軍団と応戦する正盛たちを背後から攻め込む手はずなのだ。

 果たして、百鬼姫は霞の力をどう読んだかでこの勝敗は決まる。いや、正盛も宗盛も十数年後のあのときまで生き延びているのだから、百鬼姫の誤算でこの勝敗は決しているはずなんだ。そうでなくてはならないのだが、どうも俺にはそう簡単に終わっていないかのように感じてならない。正盛の心はさっきから微塵も揺らいでもいないのだが、俺にはそう感じてしょうがないんだ。


 正盛と澪は襲い来る淀みに支配された兵隊を容赦なくなぎ倒していく。淀みが体内から出て行けば正気になるというのに、容赦なく、首筋や腹に深手を入れて突き進んでいる。そう、この時の不死の軍団は、麻薬を吸引しているようなハイテンションの状態に陥っているようではなく、単純にドーピングされ痛みを感じない状態なのだ。普通の人なら腹や首筋を斬られれば大量の出血を手で抑え込み、その場でしゃがみ込むはずなんだが、ちっともそんな素振りはなく、走り去る正盛と澪の後を追いかけようとする。出血は止まることはないから、そのまま数秒で息尽き倒れ込んでしまう。さて、百鬼姫とはいったいどんな化け物なのかいよいよその正体が拝めるぞ。

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