第十二章 霧の記憶
沼の周囲には、既に組織の科学班がいた。彼らの調査では、淀みの発生原因は、この沼には無いとのことだった。直接聞いた訳ではなかったが、黄泉とのやりとりで、なんとなくわかった。専門用語が飛び交って、頭の悪い俺には、まだまだちんぷんかんぷんだった。
山菜摘みに来ていたとおぼしきハイカーや、アマチュア写真家、猟師などの死体には布がかけられていた。間もなくやってきたヘリでどこかへ搬送されるらしい。
ざっと数えると、遺体は、およそ二十体はあった。話しを聞く限りでは、獣や虫、魚に食われて原型をとどめていないものも四、五体あったらしい。
沼の名前は、苦音埋沼。町の名は久遠舞町。どちらが正しいかと言えば、こちらだ。その大昔、悪霊だか、怨念だかをこの土地の底に埋めただのがあって、うめき声を消すために水を引き込んで沼にしたとか、嘘くさい話がある。苦音埋じゃ不気味すぎるってんで、あて字をした。沼はもとの名前の方が曰くありげになるってんで、そのまま残したそうだ。
この沼は、そういった不気味な話はさておいて、周囲にはハイキングコースがあり、一般人でも容易に入ってこれる場所だ。
つい先日、地滑りを理由に入山禁止を出して閉鎖していたようだが、捜索願いも出されているであろう、これだけの遺体を単なる遭難ですませるとは、素人目には思えない。だが、そこはうまく偽装して、しまうのだろう。
彼らの遺族が真実を知ったところで、自然現象ならどうしようもない。あるいは、俺たちのような沈静化部隊がいると知れば、完全駆除を要求することだろう。
だが、人は、天気予報すらままならない有様だ。人は自然の猛威には成す術はほとんどない。被害を最小限に抑える術を身につけることで、種を保存するしかないのだろう。
俺たち黄泉戻師はそんな命の瀬戸際の最前線で、命のバランスを調整する調律師のようななものなのだろう。
「これでひとまずは、安心なのかな」
怪訝な面もちの黄泉の気をほぐそうと、話かけた。
「どうかな。確かに、キミが偶然放った衝撃波は、この辺一帯の淀みを浄化したが、そもそも、この沼も沼の周辺も発生した淀みが溜まっていただけで、この場所自体に発生源は無かったということが腑に落ちないな」
「発生源?自然発生だから、こう、生物の死骸とか、地中や沼とかから沸いて出たものが気流の変化でまとまって発生するんだろう」
「普通はそうなんだが、こんなに短期間で発生する場合は、もっと濃度の濃い発生源がある筈なんだよ。だが、最近、この近辺では大きな地震も、台風、土砂崩れ、山火事の類も発生してない。
守長の報告では、守塚から、漏れている淀みの数値は、僅かだった。未開発地域やこの場所で、生物が命を奪われるほどの淀みを形成するタネを作り出すには至れないんだ」
「守長って」
どこかで聞いた覚えはあるのだが、とっさに判断できず、思わず口から漏れてしまった。すると、黄泉はきっとなって、睨みつけた。
「キミ、キミ。勉強したまえ、勉強を。
部活、清掃ボランティア活動、任務と修行と学校の勉強もあるだろうが、黄泉戻師の仕事も勉強してくれよ。
先日渡したテキストにブルーレイディスクがついてたろう。それでまず、基礎学習をしておいてくれよな。
久遠寺の境内の裏手に下総正盛の首塚があるだろう。あれをわたしたち黄泉戻師は守っているんだ。
首塚を守る我々は、首守手、塚を管理しているのは久遠寺の宮司だ。これが首守長だ」
「宮司、ああ、あの兄貴の友達の晴明さんか」
「彼はまだ、その任は負っていない。実質、今はまだ見習いだ。彼の父、清澄さんが大宮司となって、その管理を任されている。
あそこの淀みは最も強力で、過去、数回、自然災害などで漏れ出たことがあってな、封印するまでに多大な被害が出たのだよ」
被害と聞いて、その先を聞くことに俺は躊躇した。何か、聞いてはいけないものがあるように思えたのだ。それで、話題を変えなければおけない気がした。
「でも、これで一応、終わりだろ。意外と早かったよな。彼らと帰れば、晩飯までには帰りつくんじゃないか」
「キミ、キミ。何を浮かれたことを言っているが、彼らの行く先は、報道陣もいるんだぞ。
そんなまっただ中に現役高校生のキミが行ってみろ」
皆まで言われるまでもなく、俺は自分の軽率さを気づかされ、わかったと、物言いをやめた。黄泉は通信機を使って本部と連絡をとっている。手持ちぶさたな俺は、化学班とは罰に周囲を散策することにした。何か、目的があるわけではなかったが、なんとなく沼の周辺が気になったのだ。
沼気が抜けた沼は、いつもの静けさを取り戻していた。淀みが溶けた水を吸収した水草や、魚、昆虫は、沼気が浄化されれば数時間で元に戻るということだった。
そもそも、淀みは自然界のもの、人が作り出した有機化合物では無いので、その生命活動に影響は与えても、科学的な毒を生成しているものではないのだ。
それを裏付けるかのように、水に浮かんで虫の息をしていた小魚たちが、一斉に息を吹き返したように泳ぎだした。そして、葦の中に、隠れた。その様子には、感動に近いものがった。
沼は何事も無かったかのように、もとの静けさを取り戻した。俺は、くまなく沼の周囲を見回したが、何も異常はなかった。
やがて、雲の切れ目から太陽の光がこもれ落ちると、生い茂った葦の中反射して光を放つものを見つけた。
水の中に入って掴むと、それは、御神刀の螺旋状の剣先が水面にわずかに出ているのだとわかった。御神刀には切れる刃が無いので、刃先を掴むことができた。そのまま刃先を掴んで、引き上げた。柄の方に腐敗した腕がついている、なんてことは無かったので、ほっとした。念のため、刀で周囲を突いてみたが、葦の中にも死体らしきものはなかった。
科学班と、工作部隊が沼地を去る頃には、日はすっかり落ちていた。今夜は雲も多く、半ときているから、周囲は薄暗かった。こちらには暗視ゴーグルや懐中電灯も当然あるので、全くの闇という事はない。彼らが帰り支度をする頃から、俺は薪を集めテントを張り、野営の準備をはじめた。
せっかくだからと、俺は、サバイバル訓練も兼ねて、山菜摘みや、小動物の狩猟を提案したが、黄泉はそれを却下し、携帯食を食べるよう言いつけた。缶詰の料理とビスケットのような食事も不味くはなかったが、味気無かった。早々に食事は終わり、後は寝るだけだった。
見張りは、三時間おきに交代することになった。明かりの無い夜は早い、時刻はまだ八時だ。翌朝六時に活動するとは言ってもまだ十時間もあるのだ。体を使ったということで、俺は先に寝るよう言いつけられはしたものの、床についても全く眠れなかった。このまま三時間眠れない気がした。黄泉は、いつ何時何が起きるか分からんから、体を休めることだけはサボるなの言葉も添えていた。
本当は、黄泉と星でも見ながら、今日の話をしたかったのだが、修行中の身を考えれば、そんな浮ついたことは言葉にさえ出せないと自覚するしかなかった。
とたんに、ふぃーっとため息が漏れる。まだまだ仕事に関しては分からないことだらけだ。淀みって、そもそもなんだ。何で、俺がそんな仕事に関わるんだ。爺ちゃんが元警察官だったことと、何か関係があるのか?いろいろと思いを巡らしても俺の悪い頭では何もひらめかない。そのうち、俺は眠りに落ちていたらしい。
そう思えたのは、黄泉に起こされた自分がいたからだった。二時間寝たか寝ないかだったと思うが、かなりぐっすり眠れた感じがした。もともと寝付きも、寝起きもいいほうだから、眠くてしょうがないとまでは無かった。
寝床から這い出る俺と入れ替わりに、黄泉は、寝床に入り、即、眠りに落ちた。なんとも味気ない。もちろん、狸寝入りんどではない、彼女は確実に眠っている。
キスのチャンスか?いや、寝込みを襲うのははしたないし、男らしい行動とはいえない。俺は、外に出ると焚き火の火を絶やさないように注意した。夏とは言っても山の夜は結構、冷え込む。
ここからは街の灯りも遠く、星がよく見える。
あれがデネブ、そして、その横がアルタイル、そして、ベガ。この季節の夜空を彩る、いわゆる、”夏の第三角”だ。
自分で言いながら、これは俺のせりふじゃないと言う俺がいる。昔、誰かにここで、そう教えられた気がした。それがいったい誰だったのか?いつだったのかとなると、全く自信が無かった。
こんなところで野営して、いったい何をするのだか、俺には皆目検討がつかなかった。黄泉は、なかなか説明してくれない。何かを話そうとすると、話せない何かがあるのか、すぐに話をやめてしまう。
練習用の御神刀だってそうだ。二本目を受け取ったときは、無言で、俺の説明も上の空だった。まったくなんだよ。本当に俺は、あいつのパートナーなのかも疑わしい。
フクロウの鳴き声、虫の鳴き声、時折吹く涼しい山風。キャンプの夜なら傍らに語り合える仲間もいるというのに。俺はひとりぼっち。
去年の部活のキャンプの時はマユと語り合ったなあ。剣の道について、って。若い男女が語り合う話じゃねーだろ。
あいつの悪いところは、ちっとも女っ気が無いところだ。少しは他の女子部員みたいに恥じらいとか持てよな。袴の下、ノーパンとかありえんだろ、普通。やることが、野郎と同じなのがなんともだよ。
道場のシャワーでもまっ裸で、俺に話しかけるなよ、モロ見えすぎて、あいつの裸には何も感じなくなってしまったよなあ。いくら幼なじみだとは言っても限度があるだろう。もう、高校生だぞ、俺たちは。
そのくせ、裕次郎兄貴や清明さんの前だと、ぽっと赤くなってしどろもどろしていたあいつを何度も見たからな。
あいつにとっての俺は、友達か、はたまた、下僕というところなんだろうな、きっと。
時計を見ると十一時三十分を少し過ぎた頃だった。黄泉と交代して、三十分程度しか経っていなかった。夜空は相変わらず薄暗く、雲の隙間から時折半月が顔を覗かせていた。そして、気のせいか、背中に悪寒が走るかのような感覚が徐々に強くなってきた。
外に設置してある測定機で状況を確認すると明らかにこの数分で半径百メートル以内は、五度も気温が下がっていた。そして沼の中心部に冷気が貯まり始めている様子だった。そうして、周囲はまたもうっすらした靄のようなものがかかり出した。
黄泉に知らせねば、俺はテントの方に振り返ると、むゆっとしたものが顔に当たった。そして口にマスクを当てられ、首に下ろしていたインカムを取り付けられた。
『静かにして、伏せろ』
黄泉様のお胸だった。またも、嬉しいプレイ。いやいや、これは事故だ。健全な高校生がこんなことを言っては不謹慎だ。
『キミ、下半身の熱を下げろ。鼻息も整えたまえ』
ええ、そんなところまで、分かるの。黄泉ちゃん、いやあああああん。などと、言っている場合では無い。
俺は腹ばいになり、沼の方を見た。どうして沼に目が行ったのかは分からなかった。さっき、沼の中心に冷気がたまり始めていたのを見たからではない。なんとなく、沼の中心に何かあると感じるものがあったのだ。
黄泉はVOBを作動させた。
すると、黙視でも微かに見えていたが、沼の中心から調度、小さな竜巻のような霞の束が巻き上がっているのが見えた。その渦は、自然界で起きる気流が起こしているのではなく、”気”に近いエネルギーのようなものが渦を起こしているように感じた。
そして、その周囲にぽつり、ぽつり、と木のようでもあり、人影のようでもある白い霧の固まりが、湖面に立ち昇った。その数は、ひい、ふう、みいと数えられるものでは無かった。数百はあろうかという数だった。そして、その中で、二、三個だけ一際大きな固まりがあった。
『何だ、あれは』
俺はインカムを使って黄泉に話しかけた。淀みが発生すると普通に声を出して会話をすると呼吸を探知して、呼吸をする側へ流れてくる習性があると、黄泉戻師のガイドブックに書いてあったのを思い出した。
『あれはかつて、人だったものの残留闘気だ』
『残留闘気!?』
『ああ、かつて、ここで巨大な淀みと戦った黄泉戻師の一団がいたんだ。それも大勢な。淀みは野生動物にも取り入り、広範囲での大立ち回りが起きていたようだ』
『それって、何百年も昔にか?』
『時代は分からない。最近なのかもしれないし、何百年も前なのかもしれない。だが、相当な気のかけひきがあり、多くの黄泉戻師がその気を奪われ、死に至ったということが、容易に想像できる。
その中には見習いの若輩者もたくさんいたようだ。この気の大きさから見て、ほとんどが見習いだったと言っても間違いじゃないだろう』
『それが、さっき森と沼で見つけたあの刀か』
『たぶんな』
『だったら、お前の組織で調べれば記録があるんじゃないのか』
『黄泉戻師を束ねる組織、総本部は、我々の所属する国家組織とは別にあってな、そこから我々は派遣される形で、国家組織に属している。
作戦行動の詳細は機密扱いで、国家組織には基本的に結果しか報告されないんだ。
出向者で、幹部でも無い我々は、黄泉戻師総本部の情報を知る立場にはないんだよ』
何と、こんなところで縦割社会の壁が出てきたぞ。やだやだ、全く。
『でも、死体が無いから、大昔じゃないのかな』
『地中や、泥中にあるかもしれんぞ。今回は、さっきの犠牲者の偽装で手いっぱいだからな。その調査は今は後回しだ。
だが、本当にここの地の底に数名の師範代クラスの黄泉戻師とその見習いが数百名も埋まっているなら、昼間の淀みは、ほぼ常駐的にここで発生していることになるやもしれんな』
黄泉は、不敵な笑みを浮かべていたが、見ようによっては震えているようにも見えた。
『おまえ、震えているのか』
俺は黄泉にカマをかけてみた。
『ああ、そうだな。このまま予感が的中しないことを祈りたくなったよ』
予感だって?いったい何の予感だ。ちっとも話が見えないぞ。だが、黄泉の身震いは、見た目に分かるほどに顕著になってきた。
『おまえ、マジで震えているのか』
『ああ、これはえらいことだ。淀みの発生の瞬間は、わたしも出くわした事はない。今のわたしはおびえている。淀みとの戦いで、自信の無いおびえは、命とりになる。手遅れにならないうちに逃げだしたい。いや、逃げようケンジ』
俺は、なぜか黄泉の手を引いて歩いていた。こいつが、こんなに怯えるとは意外だった。これじゃ、普通の少女だ。黄泉は、黙って俺の手を握っている。
月は雲に隠れ、周囲は暗いが、暗視ゴーグルのおかげで、足下はしっかり見える。だが、霧はより濃さを増し、VOBの反応も異常を来してきた。いったい何が起きている。
そして、俺たちは、いつの間にか沼の中にいることを自覚した。ほんのついさっきまで、沼縁の湿地帯を歩いていたはずなのに、今や膝下は水に浸かっていた。腕時計のモニタを見ると外気温は、マイナス五度を示していた。
どううりで、吐く息が白いはずだ。しかし、この辺の山は標高もそれほど高くない、夏の季節に、氷点下などあり得ない。だが、寒さは、この凍えは本物だ。
「黄泉、大丈夫か」
無言になっている彼女を励まそうと、呼んだが返事はなかった。それよりも、手を握られている感触がきえていることに今更、気づく有様だった。
「黄泉ー、どこだー」
叫び声は、山にこだまするが、返ってくる声はない。俺は諦めずに何度も呼ぶが、彼女の声はかすかにさえしなかった。
そして、また気づく、暗視ゴーグルも、腕時計も身につけていないことを。そんなばかな。いったい、どうなっている。
周囲を見回すと、ひときわ明るい場所があることに気づいた。いや、さっきから気づいていた。だが、そこへ行ってはいけない気がしていたのだった。だが、黄泉を探さなくては。足は、無意識に明るい方へ向かっていた。水がしみて冷たいが、明るい方へ行くにつれて暖かくなっていく気がした。
『×ョウ、しっかりしろ、しっかり、わたしを見ろ』
『○代様、お逃げください。そいつはもう自我がありません、わたしたちが始末します
』
『いやだ、わたしは諦めない。あの子とわたしたちのこれからの為にも、×ョウを死なせはしない』
なんだ。頭の中で声がする。若い女性の悲愴に満ちた声と、中年男性の声だ。姿もなにやら、うっすら見える。全員、見慣れた黒装束をまとっている。あれは、黄泉戻師の一団か。
おーい、と大声をあげるが、彼らには聞こえていない様子だ。
『おまえたち、行け、いまこそ修行の成果を示せ』
『わかりました。師範、我らにお任せを』
若者らしき集団と坊主頭の壮年者が、俺の左右をどっと走り抜けていく、男と女がいる。彼らがいる先には一体、何がいるんだ。振り返ると巨大な山のような怪物がたたずんでいる。
『だめだ、行かせるな。その者たちが束になったところで、今の×ョウには決して勝てん。無駄に命を散らすだけだ』
若い黄泉戻師の一団が、御神刀を抜くと同時に沼の水面は波紋を発し、沼一帯が共鳴した。中央には少しばかり壮年の者がいる。しかも二刀流だ。これは轟陣形だ。
巨大で強力な淀みを鎮める強力な波動を使った集団陣形であると、ガイドブックに書いてあった。確か、最後にこれを使ったのは江戸時代の中期だと聞いていたが、この光景は江戸時代のものなのか?気のせいか、言葉使いは、妙に現代風なのだが。
そう、俺はまだ黄泉と交代などしてなく、テントに寝ていると悟った。そうでなければ、こんな夢のようなことはありえない。これは夢なんだ。何の夢かわからないが、俺はこの光景を見届けようと決意した。
壮年の者を取り囲んでわか者たちがその周囲を周り、卍形の陣形をとり、念を込め出す。すると、激しい振動が起き、それによって、沼の水は上下に振動し、漣が立ち上り細切れになっていく。細切れとなった水は、さらに細かい粒子となり、霧となって、光の粒と一緒に、二刀流の壮年の者へと集められる。
壮年の者は、両手で刀をかまえ、だんだんと気合を貯めていく。やがて、青い炎のようなものが発生し、壮年の者の体を包み込んだかと思うと、彼の気合一声で、青い炎は大砲の玉のように怪物めがけて解き放たれた。
青い炎の玉が命中すると、怪物は、悲鳴をあげた。それは、獣の唸りのようでもあり、人の声のようでもあり、遠雷のような音が混ざり合い、怪物はうねりながらのたうち回った。そして、前後に二三歩、よろけた後、両手をつけないまま前のめりに倒れてしまった。
「やった、仕留めた」
誰もがそう思う光景だった。怪物はぴくりとも動かなかった。
『清澄、油断するな。みんな、戻れ。退却しろ、そこから離れろ!』
さっきの女性の声だ。姿ははっきり見えないが、なんだか暖かい感じがする。よく知っている感じがする。しかし、黄泉以外の黄泉戻師は、知らないはずだ。
彼女の警告は正しかった。怪物を倒したと安堵し、笑顔を贈る壮年者の背後から、怪物の手が伸び、握り込むように包むと、彼は、ばたりと沼に倒れ込んだ。
『いやだー、清澄ー!』
女性の声は、悲鳴のように潰れている。清澄と呼ばれる壮年者は、まだ息はある。だが、指導者を失って狼狽する若者達に、怪物の手が襲いかかる。
若者たちはなす術も無く、怪物の手に捕まりばたばたと倒れていく。倒れた若者達の顔は、ミイラのようにやせ細り、精気がなかった。彼らは多分、死んだのだと分かった。
この化け物はやはりというか、それしか考えようが無く、”淀み”だ。しかも、これまで見たこともなく、巨大な淀みだ。その中心にはおそらく生物がいるのだろうが、あの女性の様子から察すれば、同胞の可能性が高い。
黄泉戻師が淀みに支配されるとは最悪の事態だ。一体、この夢はなんなのだ。あの練習用の御神刀は、あの若者たちの刀だったのか。あの叫んでいる女性の名前は、はっきり聞き取れず、「よさま」という風にしか聞こえなかった。たぶん、この中で一番強いが、一番重要な人物のようだということは分かった。黄泉戻師で、重要な人物って一体どんな人なんだ。
俺は、女性の黄泉戻師が気になり、気がつくと近かよっていた。だが、ぼやけてはっきりとは見えなかった。また、近寄って居るはずなのだが、いっこうに近づくことができないことにも気づいた。やがて、女性は体に気を貯め出した。さっきの陣形のものとは比べ物にならない気の動きを感じる。
やばい。と言う言葉があてはまるほど、それは物凄いエネルギーを持っていた。彼女の長い髪の毛は逆立ち、髪からは薄い紫色のモヤのようなものが出て、その瞳は赤黒く光っていた。
「黄泉」
そう、初めて遭った時の黄泉の気配そのもの、いや、それ以上に凄まじいものがあった。
彼女の周囲の水は霧状になって彼女の周囲を覆い、それらが渦のような螺旋を描いて回っている。そして、彼女が握っている刀はどこか見覚えがあった。御神刀に限らず、刀なぞ、どれも似たようなものなのだが、同じものでも人が使うと、その重さや形から来る体の移動や動かし方などから、その使用者には分かる特徴が出てくるのだ。
あれは、正に”黎明”。俺の刀だ。あんな細身の女性が、あんな重い刀をまるで玩具の刀のように軽々と美しく演舞するかのように振り回してる。たぶん、気を放つタイミングをはかっているのだろう。
『○代様、お止めくださーい』
声の主は、清澄だ。彼は、渾身の声をふりしぼって叫び、気絶した。
そして、凄まじいばかりの気のエネルギーの束が、後ろをむいていた俺の背中越しに、体を突き抜け、背後にいる淀みの怪物にぶち当たった。今度はも悶えることもなく、一瞬にして、淀みの核となった人を残して瞬時に消し去った。
すごい!俺はそれ以上の言葉が出なかった。周囲の霧も一瞬にして晴れ、小鳥のさえずる声も聞こえてくるようになった。
「こら、キミ。いい加減に目をさませ」
手刀チョップで、脳天に激痛を覚えると、ぼんやりと見える懐かしい輪郭に、爽やかで凛とした聞き心地よい声とリキュールのよう甘い香りに、安堵した。
頭がずきずきするので、手を当てると小さなコブが出来ていた。
「すまん、キミがあんまり起きないので、刀で小突いたら出来ちまった」
「刀で小突いたって・・・。おまえ、それ金属だぞ、死ぬぞ、死ぬ」
黄泉は、けたけた笑いながら、すまんすまんを繰り返す。彼女は、テントの外へ、俺を招き出し、夜空のある方角を指さした。
「はくちょう座α星のデネブ、わし座α星のアルタイル、そして、ひときわ青く光ること座α星のベガ。いわゆる、これが夏の第三角だ。
このうちベガとアルタイルは、七夕の伝説における織姫と彦星なのさ」
彼女は、得意げに、星の話を続けるが、俺の頭には何も入って来ない。だが、彼女の笑顔がなにげに懐かしく感じられた。沼の周囲の温度は特に変化はなかった。雲もはれ、月は山あいに隠れ、天空には天の川も見えた。
「時よ、止まれ」
俺はそう、願いたくてしょうがなかった。




