金魚と男
彼はいつも通り硝子に形を定められた水の中を泳いでいた。
見えぬ水の流れに赤い尾を揺らしている彼は金魚である。彼の体は全身が深紅に染め上げられた上品な色合いだった。背びれと尾の先端にかけてその深紅は光を透かし、見事なまでの滑らかさで水に溶け込んでいた。
規則正しく並べられている鱗は耀映とした美しさで、精密に創られたひとつの芸術作品のようでさえある。
薄い金色の淵に囲まれた、一点の墨を垂らしたような黒々しい瞳は常に水槽の外に向けられたいた。
向けられていたというか、彼は水槽に住んでいるわけであり、彼と硝子を遮るものは何もないから自然と目はいつも水槽の外に向けられていることになる。
彼は外の世界に堪らなく焦がれていた。
何もない狭い水槽に暮す彼には、恐らく彼の想像より遥かに広い外界を憧れの対象とするのは当然のことだった。
彼は頭上を見上げた。
彼が動きその振動が水に伝わる度、水面には反射した光の白い粒子の波ができた。その白い粒子が途切れる波間は透明で、彼の焦がれる外の世界を光に溶かしながら取り込んでいる。
自分の泳ぐ狭い水槽と外界との境はここまで身近なところにあったのだ。
彼は水を掻いた。ひれが底に敷かれている砂利をおおきく散らし、音を立てた。景色が見たことの無い速さで動き、ぶれた。
尾びれをひきちぎれんばかりに動かした時、彼の体は白い粒子を全身に纏って輝いた。水面を叩く自分の尾の感触が心地よい。
彼の体の隅々から滴り落ちる水は、彼がこえてきた水面に波紋をつくり、彼の体は今まで経験の無い空気というものをめいいっぱいに感じていた。彼の頭の中は壮絶な喜びに満ち溢れていたが、彼は同時に体が激しく沈みこむ鈍い感覚を覚えていた。景色は彩色を失い体はどんよりと下降していく。
体に満ち溢れていた甘美な解放感は突然の叩きつけられるような痛みに消え失せた。
彼の感覚のなくなった体がかすかに冷たく感じるのは、薄汚れた床と淀んだ空気だけだった。
彼は全身の鱗が崩れ落ちてしまうのではないかと思われる程に乾き、水に飢え苦しみの末に死んだ。
彼が死んだのは狭いアパートの暗い一室だった。
男が電気をつけて部屋に踏み入ると、薄明かりに雑多な生活の臭いが込み上げてくる。
夜遅くまで会社で仕事をしていた男は昼間になってやっと自宅に帰って来たのだった。
この不規則な生活が、落ち窪んだ目をした男の疲労をより一層掻き立てていた。
一人暮らしの男の部屋には殆ど家具はなかったが、それすら整理されず打ち捨てられるように床に黒い影をつくって置かれている。
薄汚れた壁は狭い部屋の四方からいつも無言で彼に迫ってくるのだった。彼はその暗い閉塞感に腹の底から咽ぶような息苦しさを覚えていたが、彼はこの薄汚れた世界からの解放は無いと確信していた。しかし彼は解放を望んでいた。汚れた空気の中で腐っていくような自分の体を、どうにかして解放したいと渇望していた。その相克する確信と切望の葛藤は常に彼の中で鈍く渦巻き、彼の精神を微速度に確実に髄まで侵食していく。形を持たない精神というものは、しかし限界だけは備えているようで、彼は最近それが身に重く伸し掛かってきているのを感じていた。
男は暗い部屋に鼻を突く腐臭のような不快な臭いが漂っているのに気付いた。
それは鼻孔の奥まで染み入るように広がり、男の体に溜まった。
部屋の中を注意深く見回すと、男が気が紛れるようにと飼いはじめた赤い金魚が、床に張り付く様に重い質感を投げ出して醜く死んでいる。
色は既に変色して黒がかっていたが、かすかに表面に残った水がやたらぬるぬると気味悪い感触で底光りしていた。
床に座り込んでいた男は立ち上がってベランダの窓の閉じられたカーテンを引いた。外には暗い室内からは信じられないほどの青天が満ちている。男はゆっくりと窓を開いた。男の目に入る雲は際限が無いほどに白く、濃い青の空と穏やかな融和を果たしている。
男の思考の全ての不純は粉の様に外界の空気にさらわれ、かわりに透明で緩やかな安息に浸る心地が浮かんできた。
男は何も考えず何も思わず、手足を空の青に投げ出し浸した。
体が快く空気と混ざり、広げた手足の指の間を風が滑らかにすり抜ける。
彼の頭の中は壮絶な喜びに満ち溢れていたが、彼は同時に体が激しく沈みこむ鈍い感覚を覚えていた。景色は彩色を失い体はどんよりと下降していく。
体に満ち溢れた甘美な解放感は突然の激しい痛みと共に消え失せた。
彼の体が冷たく感じるのは乾いたアスファルトの感触だった。彼が毎日通勤に使う、暗い道だった。
彼は全身が痛みに震え、腐っていく肉体を感じながら苦しみの末に死んだ。
先程までの空の輝きは、もう一片も残ってはいなかった。