O2
側にいると
胸が
呼吸が
苦しくなるんだ
「あー、寒い」
高也はその言葉と共に白い空気を吐き出し、ストライプのマフラーに顔を埋めた。葉のすっかり無くなった街路樹の中を同じ年頃の学生達が歩いていく。
「あはは。高也、涙目なってるよ」
彼の隣でセミロングの髪の少女が白い息を吐きながら笑った。幼馴染のヒロだ。
二人はいつも通り、取りとめのない話をしながら歩く。昔から続く光景。
あまりにも自然な。
「仲谷先輩」
学校に到着し廊下に差し掛かった時、ヒロは一人のひょろりとしたロングコートの少年に駆け寄っていく。
高也は走り去る彼女の後姿を見送りながら、白い息をひとつ吐いた。
苦しい。
ヒロは先輩との挨拶を終えると戻ってきた。寒さのせいか、顔が赤い。
二人はまた、当たり前のように並んで歩き出した。
「ヒロ…、先輩に告ったりしないの……?」
高也はさりげなく、力の限り自然な様子で質問した。ヒロは焦ったように肩を震わし、手袋をはめたままの掌に顔を埋める。
「ないわけじゃないけど……」
「け、けど?」
彼女は手を温めるかのように息をひとつ吐くと、物憂げな表情を浮かべた。
「委員会が一緒で、挨拶する程度だもん。ちょっと……、ね」
高也は複雑な気分になった。そんな表情をさせたいわけではない。
「ま、まあ、でも、わかんないじゃん。告られて意識し始めるってのもよくある話じゃんね」
そう言って彼女の様子をチラリと窺うと、ヒロは顔を上げてにこりと微笑んだ。
「サンキュ」
笑う彼女に笑顔を返しながら高也は白い息を吐いた。
「こんの、バカ」
話を聞いていたメタルフレ-ムの眼鏡をかけた少年は、呆れた顔をして高也の前の椅子に腰を掛けた。
「そんなんだから何年も空気みたいな、あってもないような存在のままなんだよ。君は」
「うう……」
高也は突っ伏して、厚手のグレーのセーターの腕に顔を埋めた。そんなことは百も承知だ。
「そ・こ・で、そんな君には、私めが60年かかって開発した秘薬がおススメ!」
「60年て、怪しすぎです」
眼鏡の少年の営業スマイルに高也は苦笑する。そんな彼に、少年は更に笑顔をプラスして言った。
「さあ、10万円でいかが?」
「いらん」
「もう一本つけますよ」
「更にいらん」
その意味のない押し問答は暫く続いた。
廊下に鈍い音が響く。それと同時に高也は、おでこを両腕で押さえてしゃがみこんだ。
「あら?」
その加害者はゆるい反応をすると振り返る。その後黒目がちな瞳を見開いた。彼の振り回していた弁当箱が高也に命中したのだ。
「ああっ、ごめん。平気、ねえ、平気?」
その声には聞き覚えがあった。今一番聞きたくない声。仲谷先輩だ。
「ま、まあ……」
高也はゆっくり立ち上がった。
「あ」
先輩は高也を黒目がちな目で見上げて、首を傾げる。
「君、あれだ。ヒロちゃんの幼馴染の子だよね」
「あ、はい、まあ」
高也はおでこをさすりながら、再度お弁当箱をグルグル回し始めた彼の方を見た。なんだか落ち着かない。
「仲いいよね。いっつも登下校一緒なんでしょ」
「だいたいは……」
高也は、落ち着きなく視線を泳がせて歩く。急に仲谷先輩がピタリと立ち止った。
「もしかして、付き合ってるの?」
言葉が出なかった。そんな質問は想定してない。
高也は揺れる瞳で先輩を振り返る。彼は「なーんてね」とおどけて笑った。
「気にしないで。じゃあね」
去っていく後ろ姿を見送りながら、言葉を反芻する。高也は落ち着きを取り戻すように大きく息を吐く。白い雲のような空気がふわりと揺れて消えた。
『そんなんだから空気みたいな存在のままなんだよ』
ずっと側にいた。空気のように当たり前に。君の側にいた。
でも。
いつしか、それだけじゃ足りなくなって。
夕暮れの教室。すっかり日の短くなった冬の教室は、電気を点けなければとても薄暗い。高也はそんな中ひとり、窓を背にじっと座っていた。
ヒロはゆっくり扉を開けた。
「きゃあ、びっくりしたっ」
誰もいないと思っていた彼女は大袈裟なくらい驚いた。
「高也、何やってんの。今日、委員会あるから先帰っててって言ったよね」
「聞いた」
ヒロは電気も点けず、机に座る高也に歩み寄る。彼はまっすぐ彼女を見上げていた。しかし、逆光のせいで表情は読み取れない。高也は、静かに、ゆっくりと言った。
「でも、待ってた」
「高也?」
彼女は不思議そうに彼の顔を見つめる。高也はヒロの顏を見返したまま躊躇っていた。一瞬のことだったが、何時間にも感じられた。
そしてゆっくりと白い息を吐き言葉を紡ごうとした時、一足先にヒロが言葉を発した。
「まあ、ちょうどよかった。話あったの」
嫌な予感がした。胸が締め付けられたように、苦しい。
ヒロは薄暗いこの教室でもわかるくらい、明るく、にっこりと笑った。そして。
「仲谷先輩と付き合うことになりましたー」
嬉しそうに飛び跳ねてはしゃぐ。
息が詰まった。
「委員会の後、偶然二人になってね。高也の言葉思い出したの。それでね」
興奮して話し続けるヒロの言葉は、彼にはもう届いていなかった。彼女のことを見つめていたが、見えてはいなかった。
苦しい。酸素が、欲しい。酸素が。
窒息する。
ガタンと机が大きな音をたてた。その瞬間。
高也はヒロを抱きしめていた。
「た、高也……?」
ヒロが戸惑った声を出す。高也は深く深く息を吐いた。白い空気が儚く揺れた。
「ヒロ、おめでとう」
お祝いの言葉をもらったヒロは、照れた笑みを浮かべる。
「うん、ありがとう」
「わあっ、ごめん、机つまずいたわ」
彼は慌てて後ろに飛びのく。精一杯の演技をしたつもりだ。
「なんだ、気をつけなよー」
ヒロは楽しそうに笑った後、赤い革のベルトの腕時計を見て大きな声を上げた。
「ごめん、高也。先輩待たせてるんだ。待っててくれたのに、本当ごめんね」
慌ててバッグを掴むと、彼女は扉に向かった。
「いいよいいよ。じゃあな」
「うん、じゃあね」
走り去る足音が遠ざかる。高也はゆっくり呼吸を繰り返す。窓から、仲谷先輩が白い息を吐きながら立っているのが見えた。
空気になりたかった。いつもずっと、側にいて。
けど、それだけじゃ足りなくなって。
必要とされたくなった。
そう、まるで
“酸素”みたいに。
息を吐く。窓が白く、曇って消えた。並んで歩く二人。
彼にはもう、白く滲んで何も見えなかった。
街路樹の並ぶ歩道を、高也はひとりで歩いていた。
「よう。その顔は、ふられたね」
眼鏡の少年は、マフラーを深く巻いて顔をうずめた彼の肩を軽く叩く。高也は自嘲の笑みを浮かべた。
「……ああ、そうともさ。言う前にな」
少年はにやりと口を歪めた。
「そんな君にはこれっ。エジ特製元気汁!ただいま、無料サービス中」
「汁て」
高也はげんなりとした表情で空を見上げた。ひとつ大きく息を吐く。白い息が雲に重なって、消えた。
彼は薄く微笑むと、その怪しげな瓶を受け取った。
今はまだ苦しくても
呼吸する
きっと いつか
だれかの
“酸素”となるように




