第一話 壁の中
この家には、二十九人の人間が住んでいる。
家主は、そのことを知らない。
正確には――知ってはいけない。
キッチンの壁の裏。
断熱材を剥がして作った空洞に、小さな集落があった。
ベッドは布切れ。
照明は盗んだ電池。
水は配管から一滴ずつ抜いている。
そして食料は、家主のものを盗む。
「今日は俺が行く」
達也が言った。
壁に開けた穴の向こうには、巨大なキッチンが広がっていた。
新人類の家だった。
住人は三人。
父親、母親、娘。
全員が十五メートル前後ある。
旧人類にとって、冷蔵庫までの十数メートルは広場を横断するようなものだった。
「娘は?」
「二階。さっき足音がした」
「十分で戻れ」
達也は頷き、穴から出た。
目的はテーブルの下に落ちているパンだった。
新人類なら一口にもならない欠片。
だが二十九人なら、今日一日を生きられる。
達也はパンを袋へ押し込んだ。
「取った」
壁の穴で待っている遥人へ手を振る。
その瞬間。
――ドン。
床が震えた。
達也の顔から笑みが消えた。
――ドン。
二階から、何かが降りてくる。
「戻れ」
遥人が囁く。
「達也、戻れ……!」
巨大な足がキッチンに入ってきた。
娘だった。
達也はパンを捨てて走った。
穴まで七メートル。
六メートル。
五メートル。
突然、足音が止まった。
「…………え?」
頭上から声がした。
達也も止まった。
見上げる。
巨大な少女と目が合った。
彼女の顔が、一瞬で嫌悪に歪んだ。
「うわっ!!」
悲鳴が響いた。
「旧人いる!!」
達也は走った。
「待て!」
遥人が穴から腕を伸ばす。
あと二メートル。
達也も手を伸ばした。
「遥人!」
巨大な指が降りてきた。
達也の身体が宙へ消えた。
「達也!!」
少女は彼を服ごとつまみ上げた。
「うわ……気持ち悪……」
「離せ! 離せ!!」
達也は暴れる。
少女は顔をしかめた。
「暴れんなって……!」
遥人は穴からそれを見ていた。
助けに行けない。
行けば自分も見つかる。
少女は反射的に指を離した。
達也の身体が床へ落ちた。
達也は床に倒れたまま、動かない右脚を引きずった。
「遥人……来るな」
少女は数歩離れた場所から彼を見ていた。
「どうしよう……触りたくない……」
その視線がキッチンへ向く。
コンロの上では、さっきまで使っていた鍋から湯気が立っていた。
少女は鍋を持ち上げた。
達也の顔色が変わる。
「……待て」
遥人も気づいた。
「達也、逃げろ!」
「待ってくれ!」
少女は近づかない。
腕を伸ばし、離れたところから鍋を傾けた。
「来ないでよ……!」
熱湯が落ちた。
「――ッ!!」
達也の叫びがキッチンに響いた。
遥人は穴の奥へ引き戻された。
「見るな!」
「離せ! 達也が!」
床を転げ回る音。
叫び声。
やがて、それも弱くなった。
遥人が再び覗いたとき、達也はもう動いていなかった。
全身に深いやけどを負い、床に横たわっている。
少女は鍋を持ったまま、しばらくその場を見ていた。
「…………死んだ?」
返事はない。
少女は恐る恐る近づいた。
そして顔をしかめる。
「うわ……最悪……」
それだけだった。
壁の中では、達也の五歳の息子が待っている。
「パパ、パン持ってくる?」
誰も答えなかった。
外では少女が母親を呼んだ。
「お母さーん! 旧人出た!」
「えー、また?」
「お湯かけたら動かなくなった」
「あら……ちゃんと片付けてね」
「触りたくないんだけど……」
遥人は歯を食いしばった。
達也が死んだ。
一人の夫が死んだ。
一人の父親が死んだ。
だが、この家の住人にとっては――
台所に一匹、害虫が出ただけだった。
シューッ――
白い霧が穴から吹き込んできた。
「伏せろ!」
遥人が叫んだ。
直後、鼻を刺すような臭いが壁の中を満たした。
「ゲホッ……!」
「なに、これ……!」
「奥へ! 全員、奥へ行け!」
眠っていた者たちが飛び起きる。
何が起きているのか分からないまま、母親たちは子供を抱き上げ、老人たちは壁に手をついて立ち上がった。
美香が人混みをかき分けてきた。
「遥人!」
遥人は振り返った。
「達也は?」
「…………」
「達也はどこ?」
答えられなかった。
美香の後ろから、小さな男の子が顔を出した。
「パパは?」
五歳になる達也の息子だった。
「パン取れた?」
遥人は唇を噛んだ。
そのとき。
シューッ――!
二度目の噴射。
「うわっ!」
白い霧がさらに奥まで入り込んでくる。
「ここを出るぞ!」
老人の一人が叫んだ。
「裏の配管路だ! あそこなら外まで繋がってる!」
「でも、外なんて――」
「ここにいたら死ぬ!」
誰も反論できなかった。
遥人は達也の息子を抱き上げた。
「行くぞ」
「パパは?」
「……今は走れ」
「パパも来る?」
「走れ!」
少年は黙った。
二十八人が、壁の奥へ走り始めた。
七年間。
ここが彼らの家だった。
断熱材を削り、少しずつ広げた寝床。
空き缶から切り出した食器。
家主が捨てた布で作った毛布。
子供たちは、この壁の外をほとんど知らない。
新人類の家に住み着くことは危険だった。
だが同時に、生きるには最も都合がよかった。
水がある。
食料がある。
冬でも暖かい。
そして何より――
新人類がいる場所には、他の大型生物が近づかない。
旧人類にとって新人類の家は、
最も危険で、
最も安全な場所だった。
その生活が、たった一度見つかっただけで終わった。
*
「まだいるの?」
壁の外から母親の声がした。
「たぶん。なんか中で音する」
「やだぁ……巣になってるんじゃない?」
「え、最悪」
その言葉を聞いた美香が足を止めた。
「……達也は?」
「美香!」
遥人が腕を掴む。
「待って。今、外にいるんでしょ?」
「行くな」
「達也がまだ外に――」
「行くな!」
遥人の声に、全員が振り返った。
美香だけが動かなかった。
「なんで?」
遥人は何も言えない。
「ねえ」
美香の声が震えた。
「なんで達也を置いていくの?」
遥人の腕の中で、少年が母親を見ている。
言えるわけがなかった。
父親が熱湯を浴びた。
床を転げ回った。
叫び声が消えた。
そして動かなくなった。
全部見ていた。
「……死んだ」
美香の表情が止まった。
「え?」
「達也は死んだ」
「…………」
「俺が見た」
少年が遥人を見上げる。
「パパ死んだの?」
遥人は答えなかった。
「ねえ」
少年がもう一度聞いた。
「死んだってなに?」
美香が少年を奪うように抱き寄せた。
「違う」
「美香……」
「違うから」
少年の耳を塞ぐ。
「パパはあとで来るから」
遥人は何も言えなかった。
その瞬間だった。
――ドン。
壁全体が揺れた。
全員が止まる。
――ドン。
もう一度。
今度は、木材が軋む音がした。
「何してる……?」
誰かが呟いた。
外から少女の声が聞こえる。
「ここじゃない?」
「ちょっと待って。お父さん呼んでくる」
「壁、外した方が早くない?」
遥人の顔色が変わった。
「走れ」
老人が言った。
「全員走れ!!」
二十八人が一斉に走り出した。
背後で、
バキッ――
という巨大な音がした。
光が差し込む。
七年間、一度も日の当たらなかった壁の中へ。
少女の巨大な目が、
開いた壁の向こうから中を覗いた。
「…………うわ」
一瞬の沈黙。
そして、
「お母さん!!」
少女の絶叫が響いた。
「めちゃくちゃいる!!」
二十八人は走った。
もう隠れる意味はなかった。
巣が、
見つかった。
少女の目が、壁の裂け目いっぱいに広がっていた。
「めちゃくちゃいる!!」
その声だけで、空気が震えた。
「止まるな!」
遥人は叫んだ。
二十八人は配管路へ向かって走る。
だが、美香だけが何度も後ろを振り返っていた。
「達也……」
「美香! 前見ろ!」
遥人が怒鳴る。
次の瞬間。
――バキッ!!
背後の壁がさらに剥がされた。
断熱材が崩れ落ちる。
七年間隠されていた集落が、外から丸見えになった。
寝床。
食器。
水を溜めていた容器。
乾燥させた食料。
小さな衣服。
少女はそれを見下ろしていた。
「…………なにこれ」
後ろから母親がやってきた。
「どうしたの?」
「見て」
「え?」
母親が壁の中を覗き込む。
その表情が変わった。
「うわ……」
「住んでたっぽい」
「嘘でしょ?」
「ベッドみたいなのある」
母親は眉をひそめた。
「気持ち悪……」
その一言を、逃げていた全員が聞いた。
*
「入口だ!」
先頭を走る老人が叫んだ。
配管の横。
人間一人がようやく通れるほどの隙間がある。
その奥から冷たい風が吹いていた。
「ここを抜ければ床下だ!」
一人ずつ潜り込んでいく。
「急げ!」
十二人。
十三人。
十四人。
――ドン。
また家が揺れた。
遥人が振り返る。
少女が、壁の中へ手を入れていた。
巨大な指が集落を掻き回している。
布の寝床が飛ぶ。
食器が潰れる。
七年間かけて集めた物が、一瞬で消えていく。
「あ、逃げてる!」
少女が叫んだ。
遥人の背筋が凍った。
「急げ!!」
十九人。
二十人。
二十一人。
少女の指が近づいてくる。
「待って待って!」
少女の声。
「そっち行く!」
旧人類に向けた言葉ではなかった。
虫を逃がしたくない人間が、家族に言うような声だった。
「お母さん、そっち塞いで!」
「え、どこ?」
「配管のとこ!」
遥人は前を見る。
残り六人。
「早く!」
老人が通る。
女性が通る。
美香が息子を抱いたまま入口へ向かった。
「先に子供を!」
遥人が少年を受け取り、隙間へ押し込む。
「お母さん!」
「すぐ行くから!」
少年が床下へ消えた。
美香が続く。
そのときだった。
配管路の向こうが暗くなった。
遥人は顔を上げる。
巨大な指先が、出口の前に降りていた。
「…………」
全員が止まった。
外から母親の声がする。
「あった。ここね」
出口が完全に塞がれた。
「そんな……」
誰かが呟いた。
後ろからは少女。
前には母親。
逃げ道がない。
老人が周囲を見回す。
「下だ!」
配管と床材の間に、わずかな隙間がある。
「潜れ!」
遥人が床へ伏せる。
狭い。
胸が擦れる。
だが通れる。
「美香!」
美香も這い始める。
その直後、頭上で少女が言った。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「これ、どうする?」
「お父さん帰ってきたら床下も見てもらおうか」
「業者呼ぶ?」
「これだけいるなら、その方がいいかもね」
遥人の動きが一瞬止まった。
業者。
その言葉の意味を、ここにいる大人たちは知っていた。
旧人類専門の駆除業者。
家屋の隙間を調べ、巣を探し、薬剤を流し込み、逃げ道を塞ぐ。
見つかれば終わる。
「遥人」
老人が小声で呼んだ。
「今日中に、この家から出る」
「外へ?」
「ああ」
遥人は暗い床下の先を見た。
外。
それは安全を意味しない。
むしろ逆だった。
十五メートルの新人類に合わせて作られた街。
巨大な道路。
巨大な車。
鳥。
猫。
雨。
排水溝。
そして、どこにでもいる新人類。
壁の中で生まれた子供の中には、一度も外へ出たことのない者さえいる。
「外で、どこに行く?」
遥人が聞いた。
老人はしばらく黙っていた。
「旧駅だ」
遥人が顔を上げた。
「……まだあるのか?」
「ある」
「新人類に潰されたって――」
「地下は残ってる」
老人は振り返った。
「旧人類だけの集落がある」
遥人は初めて聞いた。
「何人いる?」
「知らん」
「本当にあるのか?」
「二十年前に、一度だけ行った」
老人は暗闇の先を指した。
「ここから三キロだ」
遥人は絶句した。
旧人類の身体で三キロ。
しかも新人類の街を横断して。
だが背後では、母親と娘がまだ話している。
「明日でいい?」
「ダメ。増えたら嫌でしょ」
「じゃあ今日?」
「お父さん帰ってきたら電話してもらう」
老人が言った。
「時間がない」
遥人は美香を見る。
美香は息子を抱きしめていた。
少年だけが、まだ何も理解していない。
「ねえ、ママ」
「なに?」
「旧駅にパパも来る?」
美香は答えなかった。
遥人も答えなかった。
暗い床下を、二十八人は進み始めた。
目的地まで三キロ。
彼らにとってそれは、巨人の街を横断する三十キロにも等しい旅だった。
『旧人類』第1巻の続きはこちら
第一話「壁の中」をお読みいただきありがとうございます。
第1巻は全8話・完結済みです。
第二話以降では、壁の中を追われた遥人たちが新人類の街へ出て、「旧駅」を目指します。
第2話〜第8話+電子書籍版(EPUB)はnoteで公開しています。
▼『旧人類』第1巻
https://note.com/noteman777/n/n639ecd9ab1fb




