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「地味で陰気な婚約者は要らない」と婚約破棄されましたが、私が支えていた全てを失って初めて気づいても遅いですわ

作者: uta
掲載日:2026/06/24

「今日この場をもって、君との婚約を破棄する」


シャンパンゴールドの煌めきが満ちる大広間に、レオンハルト様の声が高らかに響き渡った。


夕暮れ時の社交界パーティー。窓から差し込む茜色の光が、私の琥珀色の瞳を照らしている。


(ああ、やっと――やっとこの瞬間が来ましたのね)


私、黄昏院琥珀は、三年間待ち望んでいたこの言葉を、ようやく聞くことができた。


「君のような地味で陰気な女より、太陽のように輝くセレスティーヌの方が公爵家に相応しい。異論はないな?」


レオンハルト様の傍らで、義妹のセレスティーヌが勝ち誇った笑みを浮かべている。プラチナブロンドの髪を揺らし、潤んだ青い瞳で私を見下ろすその姿は、確かに『社交界の新星』の名に恥じない輝きを放っていた。


「……左様でございますか」


私は静かにシャンパングラスを傾けた。黄昏色の液体が、唇を湿らせる。


(これで49回目の浮気現場、127回の讒言、そして12回の財政救済。全て、この懐の手帳に記録済みですわ)


会場中からくすくすと嘲笑が漏れる。貴族たちの視線が、哀れみと軽蔑を込めて私に注がれている。


「まあまあ、病弱なお姉様には荷が重かったのよ」

「地味な令嬢には、太陽の貴公子は眩しすぎたのね」

「可哀想に。でも自業自得だわ」


(ええ、ええ。どうぞお好きなだけお笑いになって。この瞬間を、私がどれほど待ちわびていたか、貴方たちには想像もつかないでしょうから)


「お姉様、ごめんなさい……私、レオンハルト様のことを……好きになってしまって……」


セレスティーヌが涙声で演技を始める。大きな青い瞳に涙を浮かべ、震える唇で私を見つめるその姿。周囲の貴族たちが、たちまち同情の視線を彼女に向ける。


(ああ、この台詞も128回目ですわね。よく飽きませんこと)


「私のせいでお姉様が傷ついてしまうなんて、私……私……っ」


「まあ、そうでしたの」


私は穏やかに微笑んだ。三年間磨き上げてきた、完璧な令嬢の仮面。


「黄昏院琥珀! 何か言うことはないのか!」


レオンハルト様が苛立たしげに声を荒げる。その碧眼には、期待が滲んでいた。


(きっと、泣き崩れる私を想像していらっしゃるのでしょうね。膝をついて許しを乞い、惨めに縋りつく『地味で陰気な婚約者』を)


残念ですわね、レオンハルト様。


私は三年間、ずっとこの瞬間を待っていたのですから。


「お望み通り、この婚約解消、謹んでお受けいたしますわ」


一瞬、会場が静まり返った。


「……は?」


レオンハルト様が間の抜けた声を上げる。その碧眼が、困惑に揺れている。


「受ける? いや、私は破棄すると――」


「ええ、存じておりますわ」


私はグラスに残った黄昏色のシャンパンを、ゆっくりと床に注いだ。


琥珀色の液体が、大理石の床に円を描く。そしてその円が――淡い光を放ち始めた。


「な、何だこれは……!?」


「ですが殿下、一つ訂正させていただいてもよろしくて?」


私は三年間で初めて、真っ直ぐにその目を見据えた。私の『黄昏の魔眼』が、彼の本性を映し出す。浅はかで、傲慢で、そして致命的なまでに状況を理解していない愚者の姿を。


「訂正だと?」


「これは婚約破棄ではございません、レオンハルト様」


床に広がった魔法陣が、黄昏色の光を放つ。それは黄昏院家の――いいえ、『夕闘家』の正式な契約解除の証。


「私からの――解消通告ですわ」


「解消通告……?」


「そして、公爵家との取引契約も本日をもって全て終了でございます」


会場がどよめいた。貴族たちが顔を見合わせ、何が起きているのか理解できずに囁き合う。


「取引契約だと? 何を馬鹿なことを。そんなものは存在しない」


レオンハルト様が嘲笑う。しかしその笑みには、僅かな動揺が混じっていた。


「あら、ご存知なかったのですか?」


私は小首を傾げた。三年間演じ続けた『病弱で地味な令嬢』の仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。


「何……?」


「公爵家の財政を支えていた利権の七割。王都の商業ギルドとの優先取引権。北方領地の鉱山採掘権。その全てが、黄昏院家との婚約を前提とした契約でしたのよ?」


「そんな、馬鹿な……父上からは何も……」


「まあ。ご存知なかったのですね」


私は三年分の毒を、丁寧語の衣に包んで吐き出した。


「三年間で十二回、私が密かに行った財政救済策。全てご自分の手柄だと思っていらしたのかしら?」


会場がさらに大きくどよめく。嘲笑は消え、困惑と驚愕が広がっていく。誰もが、この展開を予想していなかった。


「嘘よ! そんなの嘘に決まってる!」


セレスティーヌが金切り声を上げた。涙で潤んでいたはずの瞳が、剥き出しの敵意を宿している。


(ああ、やっと本性を見せましたわね。127回目にして初めての、素の表情ですこと)


「お姉様は病弱で、社交も苦手で、何もできない役立たずだって――!」


「セレスティーヌ」


私は静かに、しかし会場の隅々まで届く声で言った。


「っ……な、何よ」


「平民街の孤児院出身者が、いつから伯爵令嬢を名乗れるようになりましたの?」


血の気が引いていくセレスティーヌの顔。その青い瞳が、恐怖に見開かれる。


義母――マリアンヌ・エトワールが青ざめて前に出ようとした。


「琥珀様、何を根拠にそのような戯言を――」


「根拠ですか?」


私は懐から、一冊の手帳を取り出した。革表紙のその手帳は、三年間の全てを記録した私の武器。


「三年分の記録がございますわ、義母様。貴女が私の父を騙し、この家に入り込んだ経緯も含めて」


マリアンヌの顔から、完全に血の気が引いた。常に慈愛に満ちた継母を演じてきた彼女が、初めて醜い狼狽を見せている。


「そ、それは……」


大広間の扉が、重々しく開いた。


「なるほど。やはり、夕闘殿の娘御は聡明でいらっしゃる」


現れたのは、漆黒の髪と深い紫の瞳を持つ青年。その姿を認めた瞬間、会場の全員が膝をついた。


「へ、陛下……!? なぜここに……」


レオンハルト様が悲鳴のような声を上げる。


若き国王、アルヴィン・レイ・クラウディウス陛下。


「やっと見つけた」


陛下は真っ直ぐに私の前まで歩み、そして――跪いた。


国王陛下が、一介の伯爵令嬢に膝をつく。前代未聞の光景に、会場中が息を呑んだ。


「……陛下」


「我が祖母が遺した『黄昏の継承者』を、三年も他家に奪われていたとは。不明を恥じる」


「黄昏の継承者……? 琥珀が……?」


レオンハルト様が呆然と呟く。何が起きているのか、まるで理解できていない様子だった。


(まあ、そうでしょうね。貴方は三年間、私を見ようともしなかったのですから)


「黄昏院琥珀嬢。いや、夕闘家正統後継者殿」


陛下の紫の瞳が、真摯な光を湛えて私を見上げる。


「王家の守護者としての地位を、貴女に授けたい」


「そんな……嘘よ……こんなの嘘……!」


セレスティーヌが崩れ落ちた。あれほど輝いていた『社交界の新星』が、今は見る影もなく取り乱している。


「そして、もし望むならば――」


陛下が私の手を取った。その手は温かく、三年間凍えていた私の心を溶かすようだった。


「王妃の座を」


会場が完全に静まり返った。誰もが、この劇的な展開についていけずにいる。


「ま、待ってくれ琥珀! 私は、私は君を――」


レオンハルト様が叫んだ。しかし私は振り返らなかった。


「三年遅いですわ、レオンハルト様」


私は陛下の手を取り、立ち上がった。


「さようなら。貴方が捨てた『地味な女』が、どれほどの価値を持っていたか。これからたっぷりと、思い知るとよろしいですわ」


背後で、公爵家の崩壊が始まる音が聞こえた。利権が剥がれ落ち、後ろ盾が崩れ、三年間『地味で陰気な婚約者』が密かに支えていた全てが、音を立てて瓦解していく。


私は振り返らなかった。


黄昏時の光の中、私は陛下と共に歩み出す。三年間の屈辱が、解放の喜びに変わっていく。




§




あの夜から一週間。


私は王宮の一角に用意された貴賓室で、忠実な侍女ヴィオラが淹れた紅茶を味わっていた。琥珀色の液体が、午後の光を受けて輝いている。


「お嬢様、本日の報告書でございます」


ヴィオラが無表情のまま、薄い書類の束を差し出す。栗色の髪を質素に結い上げた彼女は、亡き母に仕えていた侍女の娘。幼い頃から、私に絶対の忠誠を誓ってくれている。


「まあ、もうそんなに?」


「はい。公爵家の没落は予想以上の速度で進行しております」


私は紅茶を一口含み、報告書に目を通した。


公爵家所有の商会、三つが倒産。

北方領地の鉱山採掘権、王家に返還。

王都の屋敷、債権者により差し押さえ。


(たった一週間で、ここまで)


三年間、私が密かに支えていた全てが消えた途端、公爵家は砂の城のように崩れ去った。当然の結果ではあるけれど、改めて数字で見ると感慨深いものがある。


「レオンハルト様は、いかがしていらっしゃるかしら」


「毎日のように王宮を訪れ、お嬢様への面会を求めております。本日で……七度目でございますね」


「そう」


私は窓の外を見た。黄昏時が近づいている。シャンパンゴールドの空が、王都を優しく包み込んでいく。


「お会いになりますか?」


「いいえ」


即答だった。ヴィオラが小さく頷く。


「かしこまりました」


「ただ、セレスティーヌと義母の件は進んでいるのかしら」


「はい。出自詐称と詐欺の罪で、現在取り調べ中でございます」


私は手帳を開いた。三年分の記録。127回の讒言。49回の浮気。12回の財政救済。その全てが、今や彼女たちを縛る鎖となっている。


「お嬢様」


ヴィオラが珍しく、僅かに声を揺らした。


「三年間、お辛うございましたね」


「……ええ」


私は紅茶のカップを置いた。この三年間を思い返す。


母を亡くしたのは、私が十二歳の時だった。父は悲しみに暮れ、やがて現れた義母の甘言に溺れていった。連れ子のセレスティーヌは、最初から私の全てを奪うつもりだった。


婚約者のレオンハルト様は、セレスティーヌに魅了されるままに私を蔑ろにした。49回の浮気。127回の讒言を信じ込み、私を『地味で陰気な女』と断じた。


それでも私は耐えた。待った。いつか必ず、この日が来ると知っていたから。


『黄昏の魔眼』は、人の本性と嘘を見抜く。だからこそ、私はあの社交界パーティーの日、レオンハルト様と初めて会った瞬間から分かっていた。


彼が、私を見ていないということを。


「でもね、ヴィオラ。私は三年前から知っていたの」


「何をでございますか」


「いつか必ず、この日が来るということを」


扉がノックされた。


「黄昏院琥珀嬢。陛下がお呼びでございます」


王宮の侍従が告げる。私は立ち上がり、シャンパンゴールドの髪を整えた。


「行ってまいりますわ」


「お気をつけて、お嬢様」


王宮の回廊を歩く。すれ違う貴族たちが、一様に頭を下げていく。一週間前まで『地味で陰気な令嬢』と嘲笑っていた者たちが、今は媚びるような笑顔を向けてくる。


(滑稽ですこと。人の手のひら返しほど、醜いものはございませんわね)


謁見の間の手前で、私は足を止めた。


見覚えのある金髪が、回廊の影に佇んでいる。


「……琥珀」


レオンハルト・フォン・シュヴァルツェン。かつて『太陽の貴公子』と呼ばれた男は、一週間で見る影もなく憔悴していた。


整っていた金髪は乱れ、碧眼は血走り、頬はこけている。一週間前まで自信に満ちていた美青年は、今や見る影もない。


「レオンハルト様」


私は足を止めることなく、歩み続けた。


「待ってくれ! 頼む、話を聞いてくれ!」


「何のお話でございましょう」


「私は、私は間違っていた! セレスティーヌに騙されていたんだ! 彼女が、彼女こそが全ての元凶で――」


(ああ、まだ分かっていらっしゃらない)


私は足を止め、振り返った。三年間で初めて、真正面からその碧眼を見据える。


「レオンハルト様」


「な、何だ」


「貴方が騙されていたのは、確かにその通りでございましょう」


彼の顔に、一瞬だけ希望が灯る。許してもらえると思ったのだろうか。愚かな人。


「ですが」


私は微笑んだ。三年間で磨き上げた、完璧な令嬢の笑み。


「騙される方もまた、愚かでございますわね」


希望の光が、消えていく。


「三年間、貴方は49回浮気をなさいました。その度に私は見て見ぬふりをしました。12回、公爵家の財政危機を救う献策を行いました。貴方はそれを自分の手柄だと思っていらした」


「そ、それは……」


「私が何も言わなかったから? 私が大人しく従っていたから?」


一歩、近づく。


「違いますわ、レオンハルト様。貴方が、見ようとしなかっただけ」


「琥珀、私は――」


「『地味で陰気な女』の言葉など、聞く価値がないと思っていらしたのでしょう?」


彼が言葉を失う。図星だったのだ。その沈黙が、全てを物語っている。


「さようなら、レオンハルト様。貴方とお話しすることは、もう何もございません」


私は背を向け、歩き出した。


「待って……待ってくれ琥珀……! 私は、私は君を愛して――」


「三年遅いですわ」


振り返らなかった。


謁見の間の扉が開く。陛下が、穏やかな微笑みで私を迎えた。


「お待たせしました、陛下」


「いや、構わない。……彼と話していたのだね」


「ええ。最後のご挨拶を」


陛下が私の傍に歩み寄る。深い紫の瞳が、労わるように私を見つめていた。


「辛くはなかったか」


「いいえ」


私は微笑んだ。今度は、仮面ではない本当の笑顔で。


「だって私、三年間ずっと今日を待っていましたもの」




§




セレスティーヌとの再会は、王宮の地下牢で実現した。


「どうしても、とおっしゃるのでしたら」


私がそう言った時、陛下は少しだけ眉をひそめた。


「あのような場所に、君が行く必要はない」


「いいえ、陛下。これは私自身のけじめでございます」


三年間、義妹として同じ屋根の下で暮らした。127回の讒言を受け、婚約者を奪われ、『出来損ないの姉』と陰で嗤われ続けた。


(最後に一度だけ、本当の顔を見ておきたいの)


王宮の地下牢は、意外なほど清潔だった。重い鉄格子の向こうに、かつて『社交界の新星』と呼ばれた少女が蹲っている。


プラチナブロンドの髪は乱れ、青い瞳は虚ろに宙を見つめていた。あの輝くようなドレスは囚人服に変わり、整えられていた爪は汚れている。


「……お姉、様?」


私の姿を認めた瞬間、セレスティーヌの目に光が戻った。しかしそれは、かつての計算高い輝きではない。剥き出しの憎悪だった。


「来たの? わざわざ私を嗤いに来たの!?」


「いいえ」


私は鉄格子の前に立ち、静かに義妹を見下ろした。


「一つだけ、お聞きしたいことがございましたの」


「何よ!」


「どうして、私だったのかしら」


「……は?」


「貴女が奪いたかったのは、私の全てでしょう? 婚約者も、父の愛情も、伯爵令嬢という地位も」


私は首を傾げた。


「でもね、セレスティーヌ。私、貴女に奪われて困るようなものなど、最初から何一つ持っていませんでしたのよ」


「嘘よ!」


セレスティーヌが鉄格子に縋りついた。その青い瞳には、涙が溢れている。しかしそれは、社交界で見せていた計算された涙ではなかった。本物の、醜い嫉妬の涙だった。


「お姉様は何もかも持っていたじゃない! 伯爵家の正統な血筋! あの美しいシャンパンゴールドの髪! 公爵家との婚約! 私が……私がどれだけ欲しかったか……!」


「……」


「孤児院で、いつも思っていたの。どうして私には何もないんだろう。どうしてあの子たちには家族がいて、綺麗な服があって、美味しいご飯があるんだろうって」


セレスティーヌの声が震える。私は黙って聞いていた。『黄昏の魔眼』が、彼女の言葉の真偽を映し出す。


嘘はなかった。全て、本心だった。


「マリアンヌ様が私を引き取ってくれた時、やっと手に入れられると思った。やっと私も、『持っている側』になれるって」


「……」


「でもお姉様は違った。何もしなくても全部持っている人。私がどれだけ頑張っても、追いつけない人」


「セレスティーヌ」


「だから奪おうと思った! お姉様が持っているもの、全部全部――!」


「それで、幸せになれると思った?」


彼女が言葉を詰まらせる。


「レオンハルト様を手に入れて。私を追い落として。それで貴女は、本当に満たされると思っていたの?」


「……っ」


「答えなくていいわ。もう分かっているもの」


私は鉄格子から一歩下がった。


「貴女は一生、満たされなかったでしょうね。何を奪っても、何を手に入れても。だって貴女が本当に欲しかったのは、婚約者でも地位でもない」


「違う……」


「『自分自身の価値』でしょう?」


セレスティーヌが崩れ落ちた。嗚咽が、冷たい地下牢に響く。


「私は……私は……」


「さようなら、セレスティーヌ」


私は背を向けた。


「貴女の罪は、法が裁くでしょう。でも貴女の心の空白を埋められるのは、貴女自身だけよ」


「お姉様……!」


「最後に一つだけ」


私は振り返らずに言った。


「私を『お姉様』と呼ぶのは、今日が最後にしてちょうだい。私たち、最初から姉妹ではなかったのだから」


地下牢を出ると、陛下が待っていた。


「終わったか」


「はい」


私は深く息を吐いた。三年間の重荷が、少しだけ軽くなった気がした。


「陛下」


「何だ」


「義母の……マリアンヌの処遇は」


「出自詐称、詐欺、そして伯爵家の財産横領。重罪だ。終身投獄となるだろう」


「そう、ですか」


私の声が、僅かに揺れた。陛下がそれに気づいたのか、そっと私の手を取った。


「父君のことを、案じているのか」


「……少しだけ」


父――オスカー・フォン・黄昏院。母を亡くした悲しみから、義母の甘言に騙されて私を顧みなくなった人。


憎んでいる。けれど、完全には憎みきれない。あの人もまた、騙されていた被害者なのだから。


「父は、どうなりますの」


「伯爵位は維持される。ただし、夕闘家としての実権は全て君に移譲だ」


「……そう」


「彼は君に会いたがっている。謝罪したいと」


私は俯いた。シャンパンゴールドの髪が、顔を隠す。


「今は、まだ」


「無理をすることはない」


陛下の手が、優しく私の髪を梳いた。


「君には時間がある。傷が癒えるまで、何年でも待とう」


「……ありがとうございます、陛下」


黄昏時の光が、地下から出た私たちを包み込む。


全てが終わった。


いいえ、違う。全てがこれから始まるのだ。




§




一ヶ月が過ぎた。


公爵家は不正取引の発覚により、正式に爵位剥奪となった。レオンハルト・フォン・シュヴァルツェンは一夜にして全てを失い、今は遠方の修道院で余生を送っているという。


『太陽の貴公子』の没落は、社交界で長く語り継がれる話題となった。あれほど傲慢だった青年が、全てを失って初めて、自分が何に支えられていたのかを知った。しかし気づいた時には、既に遅かった。


セレスティーヌと義母は投獄。二度と社交界に姿を現すことはないだろう。『社交界の新星』と謳われた少女の転落は、偽りの輝きがいかに脆いものかを証明していた。


父は、全ての事情を知った後、私に長い手紙を送ってきた。謝罪と後悔に満ちた文面。私はそれを読み、静かに引き出しにしまった。いつか、向き合える日が来るだろう。今はまだ、その時ではないけれど。


そして私は――


「お嬢様、お支度が整いました」


ヴィオラが鏡越しに告げる。シャンパン色のドレスを纏った私が、そこに映っていた。


黄昏時の空を閉じ込めたような色合い。シャンパンゴールドの髪が、ドレスと調和して柔らかく輝いている。


「ありがとう、ヴィオラ」


「本日の舞踏会、陛下は大変お喜びでございます」


「そうかしら」


「お嬢様」


ヴィオラが珍しく、微かに口角を上げた。彼女の笑顔を見るのは、いつ以来だろう。


「三年間、お疲れ様でございました」


「……ええ」


私は立ち上がった。


王宮のバルコニーには、陛下が待っていた。黄昏時の光が、その漆黒の髪を柔らかく染めている。


「待たせたな」


「いいえ。お待ちしていたのは私の方ですわ」


陛下が微笑む。私の手を取り、バルコニーの縁へと導いた。


眼下には王都が広がっている。夕暮れの光に染まる街並みが、まるで琥珀色の宝石のように輝いていた。


「美しいな」


「ええ」


「だが、君の方がずっと美しい」


「……陛下」


私は頬が熱くなるのを感じた。三年間、感情を押し殺してきた反動だろうか。最近になって、こうした些細な言葉に心が揺れるようになった。


「琥珀」


陛下が私の名を呼ぶ。臣下としてではなく、一人の女性として。


「一つ、聞いてもいいか」


「何でございましょう」


「……いや、私の方が聞かれる立場だったな」


「え?」


「太陽のような女性がお好みではなかったのですか、と。君はそう聞きたいのだろう?」


私は目を丸くした。そして、小さく笑った。


「お見通しでしたか」


「君の考えていることは、大抵分かる。三年間、ずっと見ていたからな」


「……三年間?」


「ああ。君が公爵家に婚約した時から、ずっと」


陛下の紫の瞳が、真摯な光を湛えて私を見つめる。


「私が求めていたのは、最も美しい時間――」


陛下が私の顎を持ち上げた。深い紫の瞳が、私の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめる。


「昼と夜の狭間を支配する、黄昏の貴女だけだ」


「……陛下」


「アルヴィンと呼んでくれ。私たちはもうすぐ、夫婦になるのだから」


「まだ、正式にはお受けしておりませんわ」


「では」


陛下――アルヴィンが、片膝をついた。


「改めて問おう。黄昏院琥珀。夕闘家の正統後継者にして、黄昏の魔眼の持ち主。私の王妃になってくれないか」


私は一瞬だけ、過去を振り返った。


母を亡くした幼い日々。義母とセレスティーヌに居場所を奪われた日々。望まぬ婚約者に冷遇され、三年間ひたすら耐え続けた日々。


全てが、この瞬間のためにあったのだと思えた。


「一つ、条件がございますわ」


「何でも言ってくれ」


「私のことを、決して『太陽のようだ』とはおっしゃらないでくださいませ」


アルヴィンが笑った。本当に楽しそうに、心からの笑顔で。


「約束しよう。君は永遠に、私だけの黄昏だ」


私は差し出された手を取った。


「では、謹んでお受けいたしますわ――アルヴィン」


黄昏時の光が、私たちを祝福するように降り注ぐ。


三年間の忍耐の果てに、私はようやく本当の居場所を見つけた。


太陽のように眩しく輝く必要はない。私は私のまま、最も美しい時間――黄昏を司る女として、この国の王の隣に立つ。


(ああ、お母様。ようやく、貴女の遺してくれた力を正しく使える日が来ましたわ)


空には、シャンパンゴールドの夕焼けが広がっていた。


太陽が沈み、夜が訪れる前の、最も美しい時間。それは決して派手ではないけれど、誰にも真似できない、唯一無二の輝きを持っている。


(さようなら、地味で陰気だった私。そしてようこそ、本当の私)


こうして、最も輝かしい時間を司る令嬢は、真に彼女を理解する王の隣で、新たな人生の幕を開けるのだった。



【完】

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