辺境守備隊のおじさん、森で幼い魔獣を助けた結果……。
3044日前
砦の高壁に、かがり火が燃えている。夜空に月はない。新月の夜。
非番の兵士オネトは、暗い森の中を歩いていく。ただよう瘴気のもや。異様にねじくれた木々。辺りをほのかに照らす発光キノコの群れ。
魔物たちの巣窟――〝豊魔の森〟。森の外周を、辺境守備隊が陣取る高壁が取り囲んでいる。
オネトはこの森を散歩するのが好きだった。魔物の跋扈する森といっても、森に少し入った程度なら、人間を襲うような凶悪な魔物はまずいない。それに新月の夜は、魔物たちがもっともおとなしくなる時期だ。
少し開けた場所に出た。オネトは大きな切り株に腰かける。お気に入りの休息所。
キャキャキャ、ガアガアガア、ウギギギギ。多種多様な奇怪な鳴き声。魔物たちの鳴き声。オネトはじっと耳を澄ます。
――人間、イル。ドウスル?
――放ットク。タイシタ強サナイ。
オネトは苦笑した。お互い様だなと。
オネトは平凡な中年男。ここの守備隊に勤めて何年も経つが、槍だの弓だのの腕前はからっきし。唯一の取り柄は、魔物の鳴き声を人間の言葉に変換して聞き取れること。
ただ、他の人間に話したことはない。そうと知られれば、捕らえた魔物を拷問して同類の居場所を吐かせる、なんてことをさせられるに決まっているから。
オネトは魔物が好きだった。子供の頃から人間関係にうまくなじめなかった反動もあるだろう。この魔の森に来ればたった一人、異世界の居酒屋にでも迷い込んだような感覚にひたれる。
――助ケテ。
ふと鳴き声が聞こえた。オネトは見回すが、それらしき魔物の姿はない。
――痛イ、痛イ。
やはり聞こえる。オネトは切り株から立ち上がる。鳴き声のする方向へ歩く。
すぐに気づいた。足元に広がる草むら。一部が周囲とは微妙に色合いが違っていて、その端に小さな裂け目ができている。そこから鳴き声が漏れ響いてくる。
草むらを偽装した、落とし穴だった。数年前に守備隊の兵士たちが対魔物用に作ったもので、オネトも作業に参加した。
オネトは腰帯から魔石ライトを取り、裂け目から穴の中を照らす。深さは大人の背丈の倍以上ある。穴底から鉄の槍が何本も突き出している。
「クゥン、クゥン……」
穴の片隅に、いた。
小さな魔獣だった。がりがりと壁をひっかいている。動きがぎこちない。右の後ろ足を怪我しているらしい。あの様子では穴からは出られないだろう。
オネトは一瞬迷ったが、助けることにした。周りに見ている人間はいない。仕事とはいえこんな残酷な罠を作ってしまった、という罪悪感もあった。
オネトは草むらに偽装した蓋部分をはがす。穴の縁に手をかけ、鉄の槍を避けつつ底へ降り立った。
小さな魔獣が振り返る。「クゥン」とおびえた鳴き声。
――ダ、誰?
「ただの通りすがりだ。助けてやるから、ちょっと待ってな」
オネトは背嚢から包帯を取り出す。ばたつく魔獣を捕まえ、血が出ている右足の傷口に巻き付ける。魔獣を背嚢の中に放り込む。木杭を数本取り出し、魔石ライトの底でこんこんと土壁に打ち込む。それを足場に穴から這い出ていく。
切り株まで戻る。背嚢から魔獣を出してやる。
辺りの発光キノコに照らされたその姿を見て、オネトははっと息をのむ。
ぱっと見では狼の子供のようだが、違う。ふさふさの輝くような白銀の毛並み。青く透き通った宝玉めいた目。
子供でも絵本で知っている伝説の魔獣――フェンリル。魔物の中でも、竜と並び称されるほどの力を持つ希少種。
オネトは額に手をやる。
「まいったな。よりによってフェンリルの子供とは……」
子フェンリルが「クゥン」と小首をかしげる。仕草は無邪気な子犬そのもの。
「でも、まあ……かわいいやっちゃな。いいや、ほら手当てしてやる」
オネトは、子フェンリルの右後ろ足に巻いた包帯をほどく。傷口からまだ出血が続いている。応急用のポーション瓶を取り出してどぼどぼとかける。
子フェンリルはおとなしくしていた。フェンリルは知能の高い魔物といわれる。助けられているのがわかっているのかもしれない。
包帯を巻きなおし、処置が終わる。子フェンリルが「クゥン、クゥン」と鳴く。
――オ腹、減ッタ。
オネトは苦笑しつつ、背嚢に手をやる。干し芋の袋を取り出す。夜食用。二切れ地面に放る。
「味に文句はなしだ。俺の俸給は安くてな」
子フェンリルががつがつと干し芋をむさぼる。喰い終えて、尻尾を振り回しながら「クゥン」と鳴く。
――アリガト。
「どういたしまして。じゃ、俺は帰るからな」
オネトは子フェンリルの頭をひとなでし、立ち上がる。
本音では高壁の宿舎へ連れて帰りたいところだが、できない。フェンリルの子供と知れたとたん、即刻処分される。助けたのは気まぐれに過ぎない。しょせん人間と魔物では住む世界が違う。深入りすべきじゃない。
オネトは振り返りたくなるのを我慢しつつ、その場を離れた。
◇◇◇
2985日前
二ヶ月後、新月の夜。
オネトがいつものように切り株に腰かけ、涼んでいると。
「クゥン!」
ねじくれた木の陰から、小さな影が飛び出す。
白銀の毛並み、透き通った青い目。駆け寄ってきて、オネトの足にぐりぐりと頭をこすりつけてくる。
「おぉー、お前かあ」
あのときの子フェンリルだった。オネトが小さな頭をなでる。怪我していた右後ろ足を見ると、包帯はしていなかった。
「足、治ったのか?」
子フェンリルが「クゥン、クゥン」と鳴く。
――モウ、痛クナイ。
「そうか、よかったな……ああ、これ喰うか?」
オネトは背嚢から干し芋の袋を出し、二切れ放る。子フェンリルが尻尾を振り回しながら喰う。
オネトはややばつの悪い気分になっていた。魔物の世界は弱肉強食。とっくに他の魔物たちの餌になってしまっただろうな、と思っていたから。
子フェンリルが身をひるがえし、森の奥へ走っていく。オネトがぽかんとしていると、またやってくる。口にくわえているものを、オネトの足下に転がす。
「ん、お礼ってことか?」
拾い上げる。黒いキノコだった。傘の表面がごつごつと鱗めいて硬く、強い芳香を発している。
「……これ、〝竜松露〟じゃねえか。こんな高級なもん、もらっちまっていいのか?」
〝竜松露〟といえば、森の幻の珍味。めったに見つからない超高級食材。一本だけで干し芋数十本の価値はある。
子フェンリルが「クゥン」と鳴く。
――アゲル。
「でもなあ。俺の方にも、なんか返せるもんがあればいいんだが。干し芋はもうないし」
子フェンリルが「クゥン、クゥン」と鳴く。
――コノ前ノ、オ返シ。
「いや悪いな……って、ちょっと待てよ」
オネトが真顔になる。子フェンリルを見返す。会話が成立している?
「ひょっとして、お前、俺の言葉がわかるのか?」
子フェンリルが「クゥン、クゥン」と鳴く。
――少シ。考エテイルコト、ワカル。
「なんとまあ」
フェンリルのような希少種であれば、子供でも人間の言葉を解するくらいわけないということか。あるいは、頭に言葉を思い浮かべるだけで意思疎通できる念話という魔法もあるらしいが。
「うーん、とにかくお前は賢いんだな。じゃ、いいこと教えてやるよ」
オネトは、この〝豊魔の森〟に仕掛けられた対魔物用の落とし穴の場所や、守備隊の巡回ルートを教えてやった。我ながら軽率だとは思う。それでも、この人なつっこい子フェンリルが人間の手にかかって殺される、なんてことにはなって欲しくなかった。
――ワカッタ。気ヲツケル。
オネトと子フェンリルの奇妙な交流がはじまった。新月の夜のたび、切り株で会った。オネトは子フェンリルの鳴き声を聞き、子フェンリルはオネトが考えていることを読み取った。
オネトが自分の名前を教えると、子フェンリルが自分も名前が欲しいといった。グレと名付けた。オネトが子供の頃に読んだ冒険物語に出てくる、主人公のかっこいい相棒のフェンリルの名前にちなんで。
◇◇◇
1538日前
辺境守備隊の評判はよくない。辺境が職場なので娯楽に乏しい。主に魔物を監視する仕事で命の危険もある。そのわりに俸給は少ない。大抵の者は一、二年で見切りをつけてやめていく。中には脱走する者もいる。
月日が流れ、オネトは守備隊で一番の古参になっていた。仕事ぶりは真面目だったので、兵士長にという話もあったが断った。一兵士として、淡々と仕事をこなした。仕事以外では特に話そうともしなかったので、同僚の兵士たちには放っておかれた。
「すっかり大きくなっちまったなあ」
オネトがグレの頭をなでる。グレは子フェンリルではなくなっていた。グレがうずくまった状態でないと手が届かないほどで、そのへんの馬よりも大きい。〝豊魔の森〟は魔力が濃いため、魔物の成長も早かった。
「そろそろ、お前もお相手を探す頃合じゃないか? ほら、番っていうのかな?」
グレが「グルル」とうなる。鳴き声にも迫力が出てきた。オネトと何度も会話を重ねることで、人間の言葉や思考にもずいぶんなじんでいた。
――僕のことより、オネトの方こそどうなの?
「まいったな。痛いとこ突いてきやがる」
オネトは苦笑。こんな辺境で下っ端兵士をしていて、相手なんて見つかるわけがない。いや同僚の兵士たちには所帯持ちもいるかもしれないが、オネトは普段そういう雑談はしないのでよく知らない。
一人で生き、一人で死ぬ。そうあきらめがつきかけたところに、グレが現れた。
「でも、森にはお前の仲間も見つからないんだろ? だったら、森の外に探しに行ってもいいんじゃないか?」
少し前からグレは仲間探しをはじめていたが、今、この森にフェンリルはグレしかいないらしい。
――まだしばらくは、森を探そうと思う。この森は広いから。
オネトはふと思う。グレの親はどうしているのかと。希少種で長命なフェンリルは繁殖力が低い。そのため、子が育つまでは親がつきっきりで世話するという。幼いグレのそばにいなかったということは、はぐれたか、死んでしまったかなのだろうが。
――それに、僕がいなくなったら、一人ぼっちのオネトが寂しがるだろうしさ。
「そりゃありがたいね。ただ、人間の中年男っていうのは繊細でね。露骨な同情には傷つくんだぞ」
◇◇◇
858日前
ある新月の夜。オネトが切り株に腰かけ、グレを待っていると。
不意に、殺気を感じた。オネトが振り返る。
黒い影が迫ってくる。むき出しの鋭い牙。赤く輝く目。魔獣。
オネトが死を意識したとき。
別の影が飛び込んできた。オネトをかばうように立ち、猛然と吠えたてる。グレだった。
魔獣がすくみ上がる。魔獣の目が、赤から透き通った青に変わる。
白銀の毛並み。グレとそっくりの姿形。フェンリルだった。ただ、グレに比べると、ほっそりしてよりしなやかな身体つき。
フェンリルはうなだれる素振りを見せると、身をひるがえし、森の奥へと駆け去っていく。
――オネト、大丈夫だった?
グレが「グルル」と低いうなり声。
「あ、ああ。助かったよ」
オネトの心臓はまだ早鐘を打っていたが、それを抑えて聞く。
「今のやつ、お前と同じ――フェンリルだったよな?」
――ごめん。今みたいなことは二度としないよう、いい聞かせておくから。
「知り合いなのか?」
――最近、この森にやって来たんだって。あの子も悪気はないと思うんだけど。ここに来る前、人間にひどい目にあわされたらしくて……。
この〝豊魔の森〟の魔力の濃さに惹かれ、外から魔物がやってくることがある。森の外周は高壁に囲まれているが、たまに低い部分を飛び越えて入ってくる。森の一部が海に面しているので、泳いで渡ってくる魔物もいる。だが、そんなことより。
「見つかったんだな、お相手が」
――え? いや、あの子は、僕のことなんて……。
グレが巨体を縮めるようにうずくまる。あのフェンリルは雌なのだ。
「隠す必要ないだろ。隠せてないしな」
オネトは明るくいうが、顔はいくらかこわばったまま。
グレに同種が見つかったことは喜ばしい。ただ、複雑な気分であることも否定できなかった。
何年もの付き合いで忘れがちになるが、そもそもオネトとグレのような関係が成り立っている方がおかしいのだ。本来、魔物にとって人間は餌であり、人間にとって魔物は駆除の対象でしかない。あのフェンリルのオネトに対する態度の方が、普通なのだ。
今後グレが他のフェンリルと関係していくのであれば、オネトとグレの関係も今まで通りとはいかないだろうな、と。
その日以降、オネトはグレの頭をなでるのはやめた。
◇◇◇
356日前
ある日、高壁の兵舎に重症の兵士が運び込まれてきた。
森での巡回中、フェンリルらしき魔物に襲われたという。兵士たちに緊張が走った。相手がフェンリルとなると、一般の兵士では束になっても敵わない。
オネトは動揺した。重症を負った兵士への同情はあった。ただ正直なところ、グレのことの方が気になった。グレが人間を襲う。そんなはずがない。グレに直接会って確かめたかったが、できなかった。
事態を重く見た守備隊の上層部が、厳戒態勢を敷くよう命じた。これまでのように気軽に高壁の通用口を抜け、森に入れる状態ではなくなった。
一兵士にすぎないオネトは、高壁の上から森を見つめるしかなかった。
◇◇◇
150日前
守備隊の兵士たちと魔物たちの小競り合いが日常化していく。高壁のそばへ、魔物たちが十匹二十匹と群れをなして近づいてくるようになった。
兵士が何人も怪我を負った。死傷者も出た。特に危険視されたのがフェンリル。兵士の巡回中に突然襲いかかってきて、兵士の急所に噛みつき、瞬時に駆け去っていくという。
新月の夜。オネトは耐えきれなくなり、監視の目をかいくぐって高壁を抜け、森に入った。
切り株のそばに、グレがうずくまっていた。オネトに気づき、巨体を起こす。「グルルル……」とすさまじいうなり声。ただ、オネトはそこに親しみのこもった響きを聞き取れた。
――久しぶり。なかなか来ないから心配してた。ひょっとして、オネトにいい人ができたのかもって。
「勘弁しろ。か弱い中年男をいじめるな」
オネトは少しほっとした。これまで通りのグレに見えた。
しばらく会えなかったぶん、グレはよくしゃべった。あの雌のフェンリルと番になったこと、森の奥で同棲しはじめたこと、雌のフェンリルにすすめられた川魚が思った以上においしかったこと。
グレはうれしそうだった。今まで森の中で独りで生きてきて、やはりさびしかったのかもしれない。
――ところで、最近、高壁の兵士たちと森の魔物たちの間でいざこざが起きてるよね。
「それについては、俺も聞きたいと思っていた」
――なんとかならないかな。もう何匹も傷つけられたり死んじゃったりで、みんな怒ってるんだ。
「こっちの兵士たちも、似たような感じだな」
――あの兵士たちは、オネトの仲間なんだよね? よければ、説得してほしくて。兵士たちが武器を持って森に入ってこなければ、魔物たちも攻撃しないからって。
オネトは想像した。自分が、同僚の兵士や上官に必死に語りかけている姿。
みなさん、森の魔物たちは決して悪くないんです。悪いのは彼らの住処に勝手に踏み込んでいるあなたたちの方です。今すぐ自分たちの振る舞いをあらためましょう。魔物たちを害するような行為は控えましょう……。
殴られるか、嘲笑されるか、あるいは規律違反で首になるのがオチだろう。
「すまねえ。恥ずかしながら、俺にそんな力はねえんだ」
――そっか……やっぱり難しいんだね。
オネトは、兵士たちを襲っているのはお前なのかと聞きたかった。言葉が出てこなかった。代わりにいった。
「なあ、こういういい方は全然公平じゃねえと思うが、お前たちはしばらく森の奥に隠れていた方がいい。ほとぼりが冷めるのを待つんだ。これ以上いざこざが続くと、守備隊も本気になる。お前たちを徹底的につぶそうとしてくるぞ……」
◇◇◇
61日前
状況が悪化していく。守備隊と魔物たちが衝突を繰り返し、たびたび死傷者が出ていた。
兵士たちに不安が広がる。このままでは魔物たちを抑えきれず、高壁を突破されてしまう。そうなれば高壁の外の街や村に甚大な被害が出る。手遅れにならないうちに中央の正規軍に援軍を要請し、完全な駆除に乗り出すべきだ――。
オネトは絶望的な気分に陥っていた。
魔物の群れを率いているのは、フェンリル。何人もの兵士が返り討ちにあって殺されていた。
ここまでくると兵士を殺しているのがグレなのか番なのかは関係がない。仮に番だけの仕業だったにしても、守備隊からすればグレも駆除の対象だし、グレは自分の番を命がけで守ろうとするだろう。
すべて自分のせいかもしれない。あのとき、幼かったグレを助けなければ。こんな結果にはならず、何人もの兵士が命を落とさずに済んだかもしれない。
今すぐ上層部にこれまでの経緯を洗いざらいぶちまけ、魔物への内通罪だか反逆罪だかで甘んじて罰を受けるべきかもしれない。
それとも、逃げるか。最近この〝豊魔の森〟を越えた海の向こうに新大陸が発見され、開拓兵が募集されているというからそっちに渡って……。
だが、グレのことだけは気がかりだった。このまま何もせずグレを見殺しにするだけ、というのには耐えられなかった。今ならまだ間に合う。
新月の夜。オネトは監視の隙をついて高壁を抜け、森の中へ。が、いくら待ってもグレは現れなかった。次の新月の夜にも行ったが、グレは現れなかった。
◇◇◇
2日前
守備隊からの要請に応え、正規軍が高壁に到着した。森の魔物たちを殲滅するための作戦が練られた。決行は二日後と決まった。
その新月の夜。オネトは祈るような気分で高壁を抜け、森に入った。
切り株のそばに、白銀の巨体がうずくまっていた。
――やあ。また会えてよかった。
グレが顔を上げる。左まぶたに裂けたような傷跡があった。青く透き通っていたはずの目が白濁している。
「グレ、その左目は……?」
――人間の兵士に矢を射られて。毒が塗ってあったみたいで、しばらく動けなかった。オネトが来ていたのは、知っていたんだけど。
オネトはなんと返したらいいかわからなかった。ふと気づく。いつもにぎやかに響いていた魔物たちの鳴き声が、今はまったく聞こえないことに。
オネトが視線を巡らせる。周囲のねじくれた木々の奥の闇に、星のように無数の赤い輝きがあった。魔物たちの目だった。魔物たちはじっと息をひそめたままだった。まるで王に付き従う忠実な僕たちのように。
オネトは全身を突き刺されているような敵意を感じた。
――今日は、お別れをいいに来たんだ。
グレが低いうなり声。
――森の魔物たちは限界なんだ。僕もこれ以上はみんなを抑えきれない。オネトももう森には来ない方がいい。
オネトは、胸を引き裂かれるような痛みを覚えた。一方で醒めた気分もあった。頭のどこかでこんな風になるとわかっていた気がする。
しょせん人間と魔物は相いれない。そうと知りながらグレとの関係を続けた自分が悪いのだ。自業自得だ。だが、後悔はしていなかった。
「なあ、グレ。俺はお前に出会えて、本当によかったと思ってる」
――うん、僕も思う。でも……。
オネトは手で制しながら聞く。
「お前、泳げるか?」
――え? どういう意味?
「最近、この森の向こうの、海を越えた先に新大陸が発見された。発見されたばかりだから、人間はほぼいない。そこへ逃げればいい」
――そこまで、ずっと泳いでいけってこと?
「いや。まず、俺が近くの港で船を借りる。この森の北に、高壁が途切れて海に面した部分があるだろ。そこなら監視の目が薄い。で、俺が船でぐるっと回って、沖合で待ってる。お前は暗くなるのを待って、海岸から船まで泳げばいい。そこから船で新大陸へ行く」
――新大陸かあ、いいね。行ってみたいけど……やっぱり僕は行けないよ。
オネトの顔がゆがむ。
「なんでだ?」
グレが背後を見やる。森の奥の、無数の赤い目がぎらぎらと輝く。
――今の僕は、森のみんなの王さまみたいなものなんだ。僕だけが逃げ出すわけにはいかないよ。それに、僕はこの森で育った。やっぱり最後までここにいるべきだって思うしね。
オネトはグレをじっと見つめる。その青く透き通った右目に、負の感情は見えなかった。
オネトは自分を恥じた。独り身の悪い癖なのかもしれない。つい相手も自分と同じように、身一つで自由に動けると思い込んでしまう。
「軽はずみなこと、いっちまったな」
――いや、いいんだ。できるなら、僕もそうしたいって思うから。
オネトはうなだれた。自分を取りつくろう気力は残っていなかった。
「俺にはもう、お前にしてやれることはないんだな」
グレは視線を少しさまよわせてから、いった。
――一つだけお願いしたいことがあるんだ……。
◇◇◇
その日
魔物討伐が実行された。正規軍が森の奥へ入り、守備隊の兵士は後詰め役。多くは高壁で待機することになり、オネトもだった。
やがて、森を揺るがすほどのすさまじい雄叫びが響いてきた。伝令役の報告。魔物たちを率いていたフェンリル二匹を討ち取った、と。兵士たちがどっと歓声を上げる。
オネトはめまいがした。高壁の階段を転げ落ちるように下り、宿舎の自室へ駆け込んだ。ベッドに倒れ込み、何度も吐いた。全身から一切の熱が失せていくようだった。
夜。オネトはふらつく身体を引きずるようにして、兵舎を出た。高壁を抜けて森へ。
それがグレの最後の頼みだった。自分が死んだら、いつも会っていた切り株へ行ってほしい――。
夜空に、爪の先めいたか細い三日月が浮かぶ。遠くから魔物たちの悲鳴。森の奥へ逃げ込んだ魔物たちを、正規軍が狩り続けているのだ。
切り株に来た。辺りは静まりかえっている。
切り株の裏に、黒いものがこんもりと積んであった。一つ手に取ると、傘が鱗めいて硬く、強い芳香――〝竜松露〟。
お礼ということか? これだけ〝竜松露〟があれば大金にはなるだろうが……。
「クゥン!」
ねじくれた木の陰から、小さな影が飛び出す。
白銀の毛並み、透き通った青い目。駆け寄ってきて、オネトの足にぐりぐりと頭をこすりつけてくる。
オネトが目を見開く。子フェンリルだった。いつか見た光景。夢でも見ているのか?
すると、木の陰から、もう一匹の子フェンリルが現れた。こちらは警戒するようにそろそろと近づいてくる。口になにかくわえていて、オネトの足元に置く。
拾い上げる。ぼろぼろの布切れだった。ただ、たしかに見覚えがあった。グレと初めて会ったとき、怪我した足に巻いてやった包帯だった。
見つめていると、包帯の表面にぽたりと何かが落ちた。頬に手をやって、自分が泣いていることに気づいた。泣くなんていつ以来か覚えていないが、涙が止まらなかった。信じられないほどの量だった。
オネトは屈み込み、二匹の子フェンリルを抱き寄せる。一匹は幼い頃のグレそっくりの姿形で、雄だろう。もう一匹はほっそりとしてしなやかな身体つきで、雌だろう。雄の方はきょとんとした顔つきで、雌の方は迷惑そうに身をよじらせているが。
オネトは嗚咽を押し殺しながら、二匹を強引に抱きしめていた。
雄の子フェンリルが「クゥン、クゥン」と鳴く。
――オ腹、減ッタ。
オネトは涙をぬぐって苦笑する。背嚢から干し芋の袋を取り出す。二切れ放った。
「さ、喰え。味は……お前らの父ちゃんのお墨付きだ」
◇◇◇
1日後
高壁からオネトは消えていた。宿舎の部屋は空っぽになっていた。
オネトは規律違反など一度もしたことがなかったので、同僚の兵士や上官は不思議に思った。が、結局は辺境生活に嫌気が差して脱走した、ということで片づけられた。
その後、オネトの姿を見た者はいない。




