数字が、動き始める
変化は、音もなく忍び寄った。
冒険者ギルドの掲示板に貼られた新しい告知。
ラッジの店先に増えた、たった一枚の札。
それだけだ。
誰も騒がない。
誰も「何かが変わった」とは言わない。
だが――
帳面の中だけは、正直だった。
◆
朝の道具屋は静かだ。
まだ冒険者の足音もなく、
金属の擦れる音も聞こえない。
ラッジは一人、帳面を開いていた。
窓から差し込む光が、紙の上をなぞる。
指先で行を追い、
時折、無意識に眉間に皺を寄せる。
「……おかしいな」
声に出してから、
自分で苦笑した。
数字そのものは、悪くない。
むしろ、想定よりいい。
上級者向けの上位品は、狙い通りの層が買っている。
無駄は少ない。
だが――
視線が、五枚綴りの項目に落ちる。
「……減らねぇ」
呟きは、乾いた空気に溶けた。
回復草の総売上量が、
ほとんど減っていない。
いや。
よく見れば、わずかに増えている。
ラッジは、ゆっくり椅子に背を預けた。
(束ねたら無駄が減って、
量は落ちるはずだった)
それが、商売人としての読みだった。
◆
昼過ぎ、店に人の気配が戻る。
伊勢とリリアが扉をくぐった。
「どうですか」
伊勢の声は、いつも通り落ち着いている。
ラッジは答えず、帳面を差し出した。
「見ろ」
二人が覗き込む。
伊勢の目が、数字の並びを追い、
ほんのわずかに細くなる。
「……減っていませんね」
「ああ」
ラッジは腕を組んだ。
「減ると思ってた。だが、減らねぇ」
リリアが、静かに口を開く。
「無駄が減ったのに……ですか?」
「そこだ」
ラッジの視線が、棚へ向く。
束ね加工の回復草。
手に取れば、潰れないことが一目で分かる。
◆
「考えられる理由は、いくつかあります」
伊勢は、帳面から目を離さず言った。
「一つは……」
言葉を選び、続ける。
「初心者が、前より奥へ行くようになった」
ラッジの眉が、わずかに動いた。
「……安全になった分、か」
「はい」
伊勢は頷く。
「潰れない。
余っても無駄にならない」
「だから、
“もう一歩”を踏み出せる」
リリアが、思わず息を吸う。
「行動範囲が……」
「広がった」
ラッジが、低く言った。
◆
だが、それだけでは終わらなかった。
「もう一つある」
ラッジは、入口の方を顎で示す。
「初心者がな……」
少し、言いにくそうに言葉を探す。
「勧めてる」
「勧めてる、ですか?」
「“これ、潰れねぇぞ”って」
ラッジは、鼻で短く笑った。
「安心すると、人は喋る。
喋って、連れてくる」
伊勢は、黙り込んだ。
(想定していた……
だが、ここまでとは)
◆
「商売としては」
伊勢は、慎重に言葉を置く。
「悪くありません」
「悪くねぇ」
ラッジは認めた。
だが、すぐに続ける。
「だがな」
一拍。
「想定と違う」
その言葉に、商人としての警戒が滲んでいた。
◆
「生存率は?」
リリアが、真っ直ぐに尋ねる。
「上がってる」
即答だった。
「死ぬやつは減った。
帰ってくるやつが増えた」
リリアは、胸の前で小さく手を組む。
「……それは、良いことです」
ラッジは、すぐには頷かなかった。
帳面に視線を落とし、
ゆっくりと言う。
「商売としては、な」
そして、顔を上げた。
「次の問題が出た」
◆
「在庫だ」
棚を指す。
「回る。
だが、減らねぇ」
「消費は増える。
供給は、変えてねぇ」
伊勢は、静かに息を吐いた。
「……詰まりますね」
「ああ」
ラッジは、笑わなかった。
「このままだと、
回復草が足りなくなる」
店の外で、冒険者の笑い声が聞こえた。
生きて帰った声だ。
その音が、
今は少しだけ重く感じられた。
◆
「伊勢」
ラッジが、低い声で呼ぶ。
「お前の言った通りだ」
伊勢が顔を上げる。
「生存率を上げる商売は、
確かに回る」
一拍置いて、続ける。
「だが……
回りすぎる」
伊勢は、視線を落とした。
(これは、
“良い問題”だが、
簡単じゃない)
「次は」
静かに言う。
「供給側ですね」
ラッジは、ふっと息を吐いた。
「面倒な話だ」
だが、その声には――
どこか、楽しげな響きが混じっていた。
◆
店を出ると、夕方の風が通りを抜けた。
冒険者たちが、今日も帰ってくる。
生きて。
笑って。
ラッジは、店先に立ち、その背中を見送っていた。
しばらく黙ったまま、
ぽつりと言う。
「……悪くねぇ」
伊勢が、振り返る。
「何がですか」
ラッジは、視線を逸らしたまま答えた。
「生きて帰る客が、増えるのは」
それだけだ。
だが、伊勢には分かった。
それは――
商人としてではなく、
一人の人間としての言葉だった。
風が吹き、
軒先の布が、静かに揺れた。
数字は、まだ結論を出していない。
だが。
人の顔を見る商売が、
ここに生まれ始めていた。




