その距離に、名前はまだない
翌朝のギルドは、いつもより少し騒がしかった。
冒険者の出入りは通常通り。
掲示板の前も、道具屋通りも、昨日と変わらない。
――だが、人の視線だけが、少し違った。
◆
「……リリアさん、今日は顔色いいですね」
受付の職員が、何気ない調子で言った。
「え? そうでしょうか」
リリアは、一瞬だけ言葉に詰まる。
「はい。昨日まで、ずっと張り詰めてたので」
「そう、ですか……」
それ以上、話題は続かない。
だが、リリアは気づいてしまった。
(……見られてる?)
正確には、
“見られている”というより、
探られている。
◆
少し離れた場所では、職員たちがひそひそと話していた。
「昨日さ、二人で帰ってたらしいぞ」
「え、人事の?」
「伊勢さんと、だよ」
「……ああ」
その反応が、妙に生々しい。
噂話として盛り上がるほどではない。
だが、確信に近い納得があった。
◆
伊勢はというと、資料を整理しながら、微妙な居心地の悪さを感じていた。
(……空気が、違うな)
直接何かを言われるわけではない。
だが、目が合うたびに、
一拍遅れて逸らされる。
そして、その原因に、心当たりがあるのが厄介だった。
◆
「伊勢」
低い声に呼ばれ、顔を上げる。
シャウプが、机に肘をつきながらこちらを見ていた。
「少し、いいか」
「はい」
個室に入るなり、シャウプは書類を机に置き、
ちらりと伊勢を見た。
「……昨夜は、遅かったらしいな」
伊勢は、一瞬だけ動きを止めた。
「業務の延長です」
「ふん」
シャウプは、鼻で笑った。
「“業務”にしちゃ、
随分と空気が柔らかくなったな」
◆
伊勢は、苦笑する。
「……そこまで分かりますか」
「長年、人を見てきたからな」
シャウプは椅子に深く腰掛ける。
「特に、人事官の変化は分かりやすい」
「昨日まで、
あいつは“背負ってる顔”をしてた」
「今日は……
少し、肩が軽い」
伊勢は、言葉を失った。
(そこまで、見ていたのか)
◆
「勘違いするな」
シャウプが、少しだけ声を和らげる。
「咎める気はない」
「むしろ」
一拍置いて。
「ちゃんと人として戻れる場所があるのは、悪くない」
伊勢は、静かに息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「ただし」
シャウプは、にやりと笑う。
「仕事中に赤くなるのは、ほどほどにな」
「……努力します」
◆
その頃、リリアは廊下で足を止めていた。
伊勢がシャウプと話しているのが見える。
何を話しているのかは分からない。
だが、シャウプが笑っている。
(……え?)
嫌な予感と、
少しの居心地の悪さ。
そして――
なぜか、胸が少しだけ落ち着かない。
◆
「リリア」
背後から、シャウプの声。
「……はい!」
少し、声が裏返った。
「何を慌てている」
シャウプは、肩をすくめる。
「大した話じゃない」
そう言って、視線を少しだけ横に流す。
「昨日は、よく休めたか」
一瞬、言葉に詰まる。
「……はい」
嘘ではない。
「それならいい」
シャウプは、それ以上何も言わなかった。
だが、その目は――
すべて承知している大人の目だった。
◆
昼過ぎ。
ギルドの中庭で、伊勢とリリアが偶然顔を合わせる。
「あ……」
「おはようございます」
一瞬、ぎこちない。
昨日の夜を、
お互いに思い出してしまったからだ。
「……周り、何だか」
「ええ」
伊勢が小さく笑う。
「察しが、早いですね」
リリアは、少し困ったように眉を下げる。
「……変、でしょうか」
「いいえ」
即答だった。
「自然です」
その言葉に、
リリアの表情がわずかに和らぐ。
◆
遠くで、シャウプが二人を眺めていた。
「……やれやれ」
小さく呟く。
「命のやり取りは任せてくれ」
ただ、自分の心は……自分で守れ」
茶々のようで、
どこか不器用な祝福だった。
そして二人の距離は、
誰も名前をつけないまま、
確実に変わり始めていた。




