肩書きを、外した夜
街が、ようやく静まり始めた頃だった。
昼間の喧騒が嘘のように、
通りにはぽつぽつと灯りが残るだけになる。
ギルドの裏口を出た伊勢は、深く息を吐いた。
(……今日は、長かったな)
終わったわけではない。
だが、確実に一山は越えた。
◆
「……伊勢様」
背後から、少しだけ硬い声がした。
振り返ると、リリアが立っている。
制服はきちんと整っている。
表情も、いつも通り落ち着いている。
だが――
指先だけが、わずかに落ち着きなく動いていた。
「どうしました?」
「その……」
一拍、間を置いてから。
「今日の件で、
少しお話を聞きまして」
伊勢はすぐに察した。
「ギルド長から、ですか」
リリアは小さく頷く。
「シャウプ様が、
ラッジさんの件で動いたのは……」
視線を逸らし、続ける。
「伊勢様が、
事前に言葉をかけていたからだと」
伊勢は、ほんの少し驚いた顔をした。
「そこまで話しましたか」
「はい。
“あれは背中を押された結果だ”と」
◆
沈黙。
夜風が通りを抜け、
リリアの髪をそっと揺らす。
「あの……」
リリアが、意を決したように口を開いた。
「もし、お時間がありましたら」
深呼吸。
「今日のこと、
少しだけ労いの場を……」
一瞬、言葉に詰まる。
「飲みに、行きませんか」
どこか事務的で、
それでいて不器用な誘い方だった。
伊勢は、すぐに微笑んだ。
「ぜひ」
即答だった。
リリアは、ほっとしたように肩を落とす。
「……よかった」
◆
店は、ギルドから少し離れた小さな酒場だった。
木の扉を開けると、
柔らかな灯りと、落ち着いた空気が迎えてくれる。
「こちらで、よろしいでしょうか」
「ええ。静かでいいですね」
二人は向かい合って腰を下ろす。
最初の杯は、軽めの酒。
「……では」
「お疲れさまでした」
小さく音を立てて、杯が触れ合う。
◆
しばらくは、
本当に“労い”の時間だった。
ギルドの対応。
現場の混乱。
シャウプの判断。
「正直、
胃が痛かったです」
そう言ってリリアが苦笑すると、
伊勢も同じように笑った。
杯が空になり、
自然に二杯目が来る。
三杯目も、
特に意識せずに。
◆
ふと、伊勢は気づいた。
(……結構、飲んでるな)
時計を見る。
思ったより時間が経っている。
リリアは、
頬がほんのり赤い。
だが、声ははっきりしていた。
「……ねえ」
その一言で、
敬語が消えていることに気づく。
伊勢は、何も言わなかった。
「伊勢ってさ」
呼び方も、自然だった。
「こんな状況なのに、
ちゃんと眠れそう?」
「……どうでしょう」
「私はね」
リリアは、杯を持ったまま言う。
「今日は、
久しぶりに肩の力が抜けた」
◆
「……正直に言うと」
少し声を落とす。
「もうだめかと思った」
杯の縁を指でなぞる。
「人事として、
正しいことは言えたと思う」
「でも……
何も救えない気がして」
伊勢は、黙って聞いていた。
「そんなときに」
顔を上げる。
「後から聞いたの」
「伊勢が、
陰で動いてたって」
少し照れたように笑う。
「……ずるいよ」
伊勢は、思わず苦笑した。
「そんなに飲む人だとは、
思っていませんでした」
「え?」
一瞬、きょとんとした顔。
そして、吹き出す。
「ひどい」
「これでも、
かなり抑えてるんだけど」
「そうなんですか」
「そう」
少し胸を張る。
◆
「私ね」
リリアは、少しだけ身を乗り出す。
「お酒入ると、
敬語も、人事官も、消える」
「だから……
今の私は、ただのリリア」
伊勢は、視線を逸らしながら答える。
「……その方が、
話しやすいです」
リリアは、満足そうに笑った。
「よかった」
◆
気づけば、杯はもう何度も重なっていた。
空いた皿。
少しだけ乱れた髪。
店を出る頃には、
夜はすっかり深まっている。
街灯の下、
二人は並んで歩いた。
距離は、いつの間にか近い。
「……今日は」
リリアが、ぽつりと言う。
「本当に、救われた」
「人事としてじゃなくて……
私として」
伊勢は、ゆっくり頷く。
「それなら、よかったです」
リリアは足を止め、
少しだけ勇気を出した声で言う。
「……また、飲みに行こう」
伊勢は、迷わず答えた。
「ぜひ」
その返事に、
リリアは安心したように笑った。
肩書きを外した夜は、
思っていたよりも長く、
そして、温かかった。




