板挟みの人事官
回復草が足りなくなる。
その言葉は、噂としては軽く、現実としては重かった。
道具屋通りでは「最近よく売れるらしい」と笑い話のように交わされ、
冒険者ギルドでは「次の遠征に持たせる分がない」と低い声で囁かれる。
そして――供給側の現場では、すでに笑えない。
◆
会議室の扉を開けた瞬間、リリアは空気の重さを肌で感じた。
窓は開いているのに、湿った熱がこもっている。
汗の匂いではない。人の焦りが溶けた匂いだ。
席についているのは、いつものギルド職員だけではない。
日に焼けた採取者たち。
服に土と草の匂いが染みついた農園の管理者。
そして、腕を組んで壁際に立つラッジ。
誰も雑談しない。
誰も笑わない。
(……これが、現場の会議)
リリアは背筋を伸ばし、いつも通りの表情を作った。
人事局の制服はきっちり整っている。
それが盾になると信じているわけではないが、崩すわけにもいかない。
シャウプが、机の端を指で二度叩いて場を整える。
「始めるぞ」
声は荒くない。だが低い。
ギルド長としての声だ。
「状況は分かってるな」
そう言って、全員を見回す。
視線が一瞬リリアに止まり、次に伊勢へ移った。
「回復草の消費が増えた」
「そして――足りなくなる」
言葉の最後が、少しだけ重く落ちる。
誰かが咳払いをした。
「原因は、ひとつじゃない」
シャウプは続けた。
「だが……きっかけは、あった」
視線が伊勢に向く。
伊勢は逃げずに頷く。
「束ね加工で潰れにくくなり、冒険者が奥へ行けるようになった。結果、消費が増えた――そういう側面はあります」
責める声が飛ぶかと思った。
だが、採取者の一人が首を振る。
「いや……それだけじゃねぇ」
日に焼けた頬、目の下の隈。
男は帽子を取って頭をかいた。
「こっちは、もう前から限界だった」
その言葉で、会議室の温度が一段下がる。
◆
採取者の男が、机の上に雑に置かれた布袋を開けた。
中には、しおれかけた回復草が数枚。
葉脈の光は弱く、端が欠けている。
「浅層のはな……荒れてる」
男は指で葉をつまみ、苦々しく言った。
「前より採取者が増えて、踏み荒らしてる。採りやすい場所は枯れるのが早い」
「じゃあ深層へ行けって? 無理だ。あそこは魔物の格が違う。採取だけで命を賭ける場所じゃねぇ」
農園の管理者が言葉を継ぐ。
手は綺麗だが、指先に土が残っている。
机の端を強く握りしめていた。
「栽培も万能ではありません」
「回復草は、魔力の濃度と水質に左右される。畑を広げれば増える、というものではないんです」
「苗を増やすにも時間がかかる。急に増産しろと言われても――」
言いかけて、口を閉じた。
その「言えないこと」を、リリアは感じ取ってしまった。
(増産のための人手も足りない)
(農園にも、限界がある)
胸の奥が少しだけ痛む。
彼らの言葉は、どれも正しい。
だが、正しさは、誰かを助けるとは限らない。
◆
リリアは膝の上で手を組みしめた。
指先が冷たい。
自分が緊張しているのが分かる。
(私は、人事だ)
(人を配置し、制度を動かし、現場の負担を調整する)
そう学んできた。そう信じてきた。
けれど今、目の前にあるのは――
冒険者の命。
採取者の命。
農園の生活。
ギルドの信用。
道具屋の商売。
すべてが一本の糸で繋がり、どれか一つを引けば他が引きつる。
(……板挟みだ)
言葉にすると簡単だ。
だが実際は、体の芯が削れていくような感覚だった。
◆
「リリア」
シャウプが呼んだ。
突然だった。
会議室の視線が、一斉にこちらへ向く。
採取者の目。農園の目。ラッジの目。ギルド職員の目。
リリアは、息を飲みそうになるのを堪えた。
「人事局の見解を聞かせろ」
シャウプの声は淡々としている。
だが、その奥に“逃げ道はない”という圧がある。
(……今ここで、私が言う言葉が)
(誰かの明日を決める)
喉が乾いた。
それでも、リリアは背筋を伸ばした。
「……現状のままでは、供給側の疲弊が進みます」
自分の声が、思ったより落ち着いているのが不思議だった。
「採取者の稼働も、農園の増産も、人的リソースの限界に近い。これ以上の要求は危険です」
採取者の男が、小さく頷いた。
農園の管理者が、唇を噛む。
けれど、リリアは続けなければならない。
「ですが」
一瞬、伊勢の方を見る。
伊勢は何も言わない。目だけで「大丈夫」と伝えてくる。
リリアは視線を戻した。
「冒険者の生存率低下も、受け入れられるものではありません」
空気が、張り詰めた。
誰かが「そりゃそうだ」と呟いた。
誰かが「でもよ」と言いかけて、黙った。
(どちらを選んでも、誰かが苦しくなる)
そう思った瞬間、胸の奥がきしんだ。
◆
「なら、どうする」
シャウプが問う。
答えはすぐには出ない。
誰もがそれを知っている。だからこそ、沈黙が痛い。
リリアは、手のひらに爪が食い込んでいるのに気づいた。
(痛い)
(でも、痛みは生きている証拠だ)
そんなことを考えてしまう自分が、少し怖い。
沈黙を破ったのは伊勢だった。
「供給を増やす、以外に」
伊勢の声は穏やかで、しかし揺れていない。
「供給の“使い方”を変える、という選択肢があります」
採取者の男が眉をひそめた。
「使い方?」
「はい」
伊勢は頷く。
「回復草は“使う前提”で消費されます。ですが、“使わないで済む状況”を増やせれば、結果として消費を抑えられます」
農園側が口を挟む。
「そんな都合よく……」
「都合よくはありません」
伊勢は即答した。
「だから、仕組みとして作る必要があります」
ラッジが、壁際で腕を組んだまま言う。
「金にならねぇ話だな」
その声は相変わらず軽い。
だが、目は軽くない。
伊勢はラッジを見た。
「短期では、そうかもしれません」
「長期では、違います。生き残る冒険者は装備を更新する。準備に金を使う」
ラッジは何も言わなかった。
ただ、口元がわずかに動く。否定ではない。
会議室の空気が、少しだけ動き始めた。
けれど、リリアはその動きに、安堵だけは感じられなかった。
(これで解決……ではない)
(むしろ、これから決めなければならない)
ギルドが、供給側の負担を背負うのか。
誰が責任を持つのか。
それは、人事の仕事の核に触れる。
◆
シャウプが、深く息を吸った。
その呼吸が、やけに大きく聞こえた。
ギルド長の肩が、わずかに下がる。
重さを一度体の中に落とし込んでから、言葉にするような仕草だ。
「……今日のところは、ここまでだ」
場がざわめく。
採取者は不満げに口を開きかけ、農園側は不安そうに視線を彷徨わせる。
「結論は、俺が持ち帰る」
シャウプは短く言った。
「お前らの言い分は分かった。だからこそ、軽い答えは出せん」
その言い方は、
「今すぐ決める」という宣言ではなく、
「逃げない」という宣言に聞こえた。
リリアは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
(……ギルド長は、逃げない)
それが分かったからだ。
◆
会議が終わり、人が散っていく。
採取者たちは低い声で何かを話し、農園管理者は資料を抱えて足早に去る。
ラッジは最後まで残り、帳面に目を落としてから、何も言わず出ていった。
リリアは、椅子に座ったまま動けなかった。
制服の襟元が、少しだけ苦しい。
胸が詰まる。
(私は、正しいことを言ったのか)
(それとも、正しさを並べただけか)
誰も答えてくれない。
伊勢が、ゆっくりと近づいてきた。
「……大丈夫ですか」
その声が、少しだけ柔らかい。
リリアは、笑おうとして失敗した。
「大丈夫、です」
言いながら、自分の声がわずかに震えているのに気づく。
「正しい判断をしたつもりです」
視線を落とす。
「でも……誰かが無理をしている」
伊勢は、すぐに慰めなかった。
少しだけ間を置き、言う。
「それを見ないふりをしなかった」
その一言が、胸に刺さった。
「人事としては……それだけで十分です」
リリアは顔を上げた。
伊勢の目は、変わらず真っ直ぐだった。
評価でも同情でもない。
ただ、同じ現場に立った人間の目だった。
(……この人は、逃げない)
その事実が、なぜか怖くて、少しだけ安心した。
◆
外に出ると、夕暮れだった。
ギルドの壁に長い影が伸び、石畳が橙色に染まっている。
遠くで冒険者の笑い声が聞こえた。生きて帰った声だ。
リリアは、息を吐いた。
「……今日は」
言葉にすると、急に疲れが重くのしかかってきた。
「少し、疲れました」
伊勢は小さく笑った。
「私もです」
並んで歩く。
肩が触れない距離。だが、離れすぎてもいない距離。
リリアは、ふと気づく。
いつもなら、歩幅を合わせるのは自分の方だった。
今日は、伊勢がわずかに歩調を落としている。
(……気遣い)
その事実に、胸がまた少しだけ熱くなる。
けれど、すぐに冷たくなる。
(まだ、何も終わっていない)
今日の会議は、結論ではなかった。
むしろ、結論を先延ばしにしただけだ。
リリアは、心の中で呟いた。
(私は、どちらを守りたい)
(冒険者? 採取者? 農園? ギルド?)
(……全部だ)
それが傲慢だとしても。
夕風が吹き、制服の裾が小さく揺れた。
リリアは足を止め、空を見上げる。
赤い空は綺麗なのに、
胸の中は、少しも晴れていなかった。
――答えは、まだ出ていない。
だが、答えを出さなければならない。
その重さだけが、
確かにリリアの肩に乗っていた。




