出向先は、剣と魔法と人事部でした
伊勢海人は、自分が会社という場所に向いていない人間なのだと、
三十歳になってようやく認めることができた。
努力が足りなかったわけではない。
才能がなかったとも思っていない。
ただ――声が届かなかった。
オフィスの蛍光灯はいつも白く、空調は少し寒い。
机に向かえば、キーボードの音と、どこか諦めを含んだため息が混じる。
パソコンの画面に並ぶ数字や資料は、確かに自分が考え、作ったもののはずだった。
だが会議の場で、それを説明するのは、決まって別の人物だった。
じゃあ、この案については――」
直属の上司が、自分の成果であるかのように話す声を、伊勢は何度も聞いてきた。
反論することもできた。
だが、社内の空気はそれを許さなかった。
――空気を読め。
――波風を立てるな。
そうして黙っているうちに、評価表には何も残らなくなった。
「伊勢くん。君に、異動辞令が出ている」
静かな会議室でそう切り出したのは、異世界から来た部長だった。
年齢不詳、種族不詳。だが、その目だけは、伊勢の仕事を正しく見ていた。
「……左遷、ですか」
思わず漏れた本音に、部長は小さく笑って首を振る。
「いいや。出向だ。異世界への」
冗談めいた言葉に聞こえたが、この会社では現実だ。
「向こうの文明は、魔法に偏っている。便利な発想はあるが、体系化されていない。君の力が必要だ」
「はあ、」
それでも、決断を後押ししたのは、
社内で顔の利く直属の上司の存在だったのも事実だ。
「……行きます」
怒りよりも、奇妙な安堵があった。
(ああ、ここではないんだな)
ここに残っても、何も変わらない。
なら、世界ごと変わる場所へ行こう。
◆
次に目を開けたとき、伊勢は石造りの建物の中に立っていた。
天井は高く、壁には魔法陣のような模様が刻まれている。
空気はひんやりとしていて、遠くから人々のざわめきが聞こえた。
「ようこそ、我が国へ。伊勢様」
出迎えたのは、淡い色の髪を持つ若い女性だった。
きっちりとした制服に身を包み、背筋を伸ばして深く頭を下げる。
「王国人事局所属、リリアと申します。本日より、異世界出向のサポートを担当いたします」
声は落ち着いていて、過不足がない。
必要以上に踏み込まず、だが距離を置きすぎもしない。仕事として、迎えてくれている
それが、妙に心地よかった。
「あ、どうも……伊勢海人です」
反射的に日本式の会釈をすると、リリアは一瞬だけ首を傾げた。
「その動作には、どのような意味が?」
「えっと……挨拶、です」
「なるほど。文化の違いですね。記録しておきます」
真面目にメモを取る姿に、伊勢は少しだけ肩の力が抜けた。
◆
「こちらが、一般的に使われている治癒用の薬草です」
リリアが差し出したのは、掌ほどの大きさの分厚い葉だった。
表面には、微かに光る葉脈が走っている。
「……これは、どのくらい回復するんですか?」
「擦り傷や軽い切り傷、疲労の軽減ですね」
(万能じゃない。応急処置か)
ギルド長が腕に小さな傷をつけ、葉を噛んで貼り付ける。
赤みは引いたが、完全に塞がるわけではない。
「これで動けるようにはなるな」
「“治る”というより、“耐えられる”ですね」
道具屋の店主が笑う。
伊勢は顎に手を当てた。
「じゃあ、液体にして瓶に詰めたりは?」
その瞬間、周囲が一斉に首を傾げた。
「瓶……ですか?保存は効きそうですが……」
「割れますよね?」
真顔で言われ、伊勢は言葉に詰まる。
「ダンジョンで落としたら危険ですし、破片は回収が大変です」
「魔物が武器として投げたりする例もある」
「……投げる?」
「ガラス、硬いですから」
(確かに危ないし、重い)
瓶入りの回復薬は高効果だが扱いにくい。
薬草は安全だが、効果は小さい。
(どっちも、極端だな)
伊勢の頭の中で、いくつもの案が静かに芽吹いていた。
◆
「伊勢様」
道具屋を後にした帰路、リリアが話しかけてきた。
「何か……問題がありましたか?」
「いえ。むしろ、すごく合理的だなって」
リリアが少し目を丸くする。
「だからこそ……中間を取れそうだなと」
「“中間”……ですか?」
「ええ。そのうち、説明します」
伊勢は小さく笑った。
この世界は、不便だ。
だが――考える余地が、確かに残されている。
伊勢海人の出向は、
逃避ではなく、再出発になりつつあった。




