捌 経済抗争①
これは5年前、鳴門組長が最初に亜米利加組の組長――四拾五代目の組長だった時のことだ。
鳴門組長は、当時の亜米利加組随一の金融ヤクザ、拝座 頼人顧問の助言の下、中共組との抗争を戦った。
しかしそれはチャカが火を吹くことも、ドスから血を滴らせることもない戦い──経済抗争だ。
……今日は手打ち盃だ。
雨に濡れた料亭「桜花楼」。
床の間には和合神を描いた掛け軸、三宝には塩と神酒、向かい合った鯛が静かに腹を見せている。屏風の向こうには、抗争の残響を抱えた緊張が漂っていた。
「屏風、外せ」
旭日組・靖辺組長のしっかりとした声が、刺すように響く。
旭日組の若衆が屏風を左右に開き、亜米利加組の鳴門組長と中共組の近平組長が対峙した。
双方とも紋付袴の正装に身を包み、左右に組の幹部を付き従えている。
互いの瞳に、羽織に刺繍された相手方の代紋が映る。
──まあ、これで中共組も一発ヤキ入れられて、ちぃとは大人しゅうなるかのぉ。
拝座顧問は悟られぬよう用心しながらも、安堵の表情を浮かべていた。
当時中共組は、亜米利加組の覇権を脅かす勢いで世界列島の裏社会の勢力図を書き換えようとしていた。
一帯一路。この言葉をスローガンに、中共組は静かにリムランドのシマを蚕食していった。
中共組は、亜米利加組のシマでのシノギで莫大なアガリを手にしていた。
これをトイチの利率で、金欠に苦しむリムランドの組に貸し付けていった。
返済が滞った組には中共組の若中がキリトリに向かい、代償として九分一の舎弟の盃を結ばせ、中共組の組事務所を開かせた。
*****
旭日組の靖辺組長は背中合わせに置かれた刀を静かに向かい合わせ、水引で固く結んだ。
「本日ここに、両家の間に生じた一切の不和、誤解、怨念を水に流し、互いに任侠の道を歩む者として、義理と人情をもって和解の盃を交わすこと、ここに取り決められました。
両家の親分衆、若衆一同、今一度胸に手を当て、この盃が意味するものを深く噛み締めていただきたい。
以後、旧怨を蒸し返すことなく、互いに道を違えぬよう、誓いを立てていただきます。」
靖辺組長の声は、穏やかながら、腹に響く重みがあった。
そして、靖辺組長は両手を打ち鳴らした──勢いよく響く拍手が、火花散る抗争に清らかな終止符を叩き込む。
──油断も隙もない連中じゃけぇ。
あの『一帯一路』っちゅう話が、もし本気で成功しとったら──覇権国家っち呼ばれるもんが、ほんまに地べたから這い上がってきよったかもしれんけぇの。
拝座顧問は振り返る。
貸し付けて、キリトリに向かい、舎弟盃。また貸し付けて、キリトリに向かい、舎弟盃。
リムランドの組は、どんどんと中共組の舎弟として取り込まれていった。
…目的は、そう。ハートランドの包囲だ。
ハートランドをチャカの力で攻め落とすことは不可能だ。
だが、盃とゼニの力で包囲すれば…ハートランドは中共組の手に堕ちる。それも、海への玄関口のリムランドをも中共組が押さえた上で。
そうなると、亜米利加組どころか、それ以外の世界列島の全ての組が盃を結んでも、中共組とその舎弟連合に立ち向かうことが出来ない。
あとは──亜米利加組のシマも膨張する中共組に呑み込まれる。
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靖辺組長が厳かに口上を述べる。
「この盃は、命を懸けた和解の証。一度交わせば、後戻りは許されぬ。
以後、互いに刃を向けることなく、義理を通し、筋を違えぬことを誓えるか。
誓える者は、この盃を一気に飲み干し、懐深く納め、心に刻み込むべし。」
そして盃が三度交わされる。
一口目を鳴門、二口目を近平、最後に仲介人として靖辺が盃をあおると、場の張り詰めた空気が音を立ててほどけた。
そして靖辺組長は用意した和解状を読み上げる。
「和解状。
一つ。両組は、互いの縄張りにおいて互いに課しているミカジメ料の引き上げ競争を停止する。
二つ。中共組は……」
──しかしのォ、こげん時の親分は、ほんまに頼もしかったわい。
背中ズシッと見せてくれたけぇ、ウチらも迷うことなく前を向けたんじゃ。
拝座顧問は隣に座る鳴門組長に目をやる。
『よう聞けや、売人どもッ!
今日からのォ、中共組からブツ仕入れよる連中には、ミカジメ料上げるけぇ、覚悟しとけや!
ウチのシマでゼニ抜くんなら、それ相応の筋通してもらわんといけんけぇのォ。
……誤魔化しよったら、コンクリ詰めて海ん底で反省してもらうけぇ──そのつもりで動けや!』
中共組のブツの売人は鳴門組長の怒号に震え上がる。
中共組の一帯一路の原資。それは亜米利加組のシマでのブツの取引によるところが小さくない。
鳴門組長は、中共組のブツの売人のミカジメを吊り上げ、中共組のシノギを干上がらせた。
『中共組の外道どもにはのォ、ウチのシマのハイテク系のブツは、一切出さんことに決めたけぇ。
あいつら、コソコソとチャカなんぞようけ作りよるけぇ──そがぁな連中にブツ渡すわけにはいかんのんじゃ。』
そして中共組の先端系のシノギに不可欠な、亜米利加組のフロント企業でしか作ることのできないブツの供給を止めた。
これらは最新鋭のチャカの密造にも使える。
当然、中共組は報復に出る。
そこから先は際限ない経済抗争となった。
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箸を二つに折り、神酒を鯛に注ぐ。
靖辺組長は鯛と箸を奉書紙に包み、裏手の神田川へと歩を進める。
鳴門組長と近平組長は無言で続き、三人の影がしとしとと濡れた石畳に重なる。
──まあのォ、ウチらの兄弟衆には、ちぃとばっかし迷惑かけたかもしれん。
じゃが、これでよかったんじゃと、ワシは、よう思うとりますけぇ。
皆様。ほんまに、ありがとござんした。
拝座顧問は先を歩く靖辺組長の方をちらりと見る。
旭日組はじめ亜米利加組の盃兄弟の組は、中共組の台頭には懸念を持っていたものの、そのシノギの多くを中共組に依存していた。
そこで始まった亜米利加組と中共組の経済抗争。
兄弟の組もそれなりの打撃を受けたが、この経済抗争の意義は理解していた。
半ば渋々、半ば安堵しつつ、シノギの場を中共組のシマから印度組等に移していった。
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川面に鯛がゆらりと浮かび、折れた箸がゆっくりと沈んでいく。
鳴門組長は黙礼し、近平組長は視線を落とす。
……その沈黙こそが、新たな決意の証だった。




