第二章:「法の塔より、ベルナール卿来訪」
あれは、風の音ではなかった。 火薬の匂いを含んだ、“宣告”の音だった。 鐘が鳴ったのだ。廃墟の向こう、崩れた塔の頂きから。 それはかつて、この世界がまだ“人間の法”を持っていた頃に鳴らされた音だった。
「……誰か来る」 リュリュが囁いた。 風が止まり、空が青ざめたように色を失っていく。 空気の粒が、神経を逆撫でるように震え始めた。 俺は、その音に聞き覚えがあった。 あれは――“秩序の音”だ。 死んだ法が、まだ自分を生きていると思い込んで、 腐りきった塔から腐りきった正義を配るために鳴らす鐘。
そして、それに従って地獄を練り歩く男がいる。 「……ベルナール卿だな。あのクソ鉄塊」 「知ってるの?」 「地図のど真ん中に、何度も書いたよ。“近づくな、狂犬につき”ってな」 足音がした。 鉄が石を踏み、地を裂く音。 リズムが正確すぎて、生き物には聞こえない。 あれは、“機械の正義”の足取りだ。
「案内人ヨハネス・グラウ――お前を、審問に処す」 その声は、かすかに笑っていた。 ベルナール卿が現れた。 全身を覆う甲冑。 隙間から覗く口元だけが露出しており、笑みを絶やさない。 それが表情ではなく、“構造”として存在していると知るのに、時間はかからなかった。 「“法の塔”はまだ動いてるのか? そりゃ驚いた。てっきり、お前ごと埋まって死んだと思ってたが」
「我々の正義は、死によって洗われる。 罪なき者は石となり、罪ある者は灰となる。 ――お前は、どちらだ? 案内人」
「どっちでもねぇな。俺は“人間”だ。 勝手に石にすんな、好きに焼くな、そして何より、黙ってろ」 金属音が、ひとつ。 ベルナール卿の手に、奇妙な武器が現れた。 柄のない刃。 法の文書を巻いた羊皮紙が、血のように垂れている。 「“秩序の剣”だ……」 リュリュが小さく呟いた。 「そうさ。 信仰を捨て、神を捨て、民を捨て、それでもなお“正義”と称して振るわれる殺戮の証」
俺は肩を竦めた。 「どこまでいっても、“人間ごっこ”が好きだなお前ら」 「違う。“正義ごっこ”だ。――殺すために、必要な理屈を作ってるだけだよ?」 ベルナールは笑っていた。 あまりにも自然に、まるでそれが最善の選択であるかのように。
「この地には、死体と化け物と、わずかな記録者しか残っていない。 我々は、それを“清める”」 「焼き払うって意味だな」 「然り」
俺は銃を抜いた。 “灰ノ牙”。 かつて、神殺しのために鍛えられた、反神性構造弾頭。 「じゃあ、お前から清めてやるよ。――案内人式の、な」 銃声。爆ぜる破片。火花と煙。 リュリュが後ろから斬首剣を振り抜いた。 だがベルナールは動かない。 いや、動く必要がなかった。 甲冑が、何かを喰ったのだ。 物理法則か、斬撃の軌道か、あるいはこの場の“殺意”そのものを。 「無駄だよ、案内人。 この鎧は、“正義”という概念でできている。 人が信じた数だけ、強固になる」 「じゃあ一発、信じてやるよ」 俺はもう一発、銃弾を放った。 今回は、地面に。 破裂。瓦礫。粉塵。視界が白に染まる。 「逃げるぞ、リュリュ! あれはまだ“殺せない”」 「了解、“案内人”!」 俺たちは廃墟を駆け抜けた。 炎を背に、死を追い越しながら。 世界はすでに終わっていたが、だからといって終わらせる義理はない。
「ヨハネス。次、どうするの?」 「決まってる。地図の“空白”を探す。 まだ焼かれてない“未踏領域”がある。そこに――」 「――“本当の地獄”が?」 「違ぇよ。 ――“希望”が、あるかもしれねぇ」 その瞬間、頭上に“あれ”が現れた。 巨大な目。 塔を背に浮かぶ、無数の観測球体。 ベルナール卿の“視認機構”――つまり、追跡用のドローンが俺たちを睨んでいた。 「さぁ、案内人。次の道は?」 リュリュが聞いた。 俺は、地図の燃え残りを見ながら言った。 「決まってるだろ。――“下へ潜る”。 次は、“第四階層”だ」