今は過去が好き、なおはパスタが好き
言葉遊びから生まれた短編です。
今は過去が好き、なおはパスタが好き
今は過去が好き。
彼女はパスタが好き、だった。今はどうかは知らない。
「パスタ食べ行かない? 美味しいとこ知ってるから」
まだ三月の終わり、解けてしまった雪化粧の代わりに、木々が小さな蕾の飾りをつけようとしている頃だった。
七桜さんはそう言って僕に笑いかけた。
僕は特段パスタには興味がなかったけど、代わり映えしない食事にも飽きていたから、もちろん、と頷いた。
ちょっとした気まぐれ。七桜さんもきっと同じだった。
気まぐれな二人は、少し気難しそうなおじいさんがやっている、小さなパスタ屋に入った。お昼時だというのに、僕達以外の客はいなかった。店の経営を心配する。
彼女は窓際の席に座ると、今日はボロネーゼの気分かなと言って、メニューを指さした。僕はカルボナーラの気分だった。
「ねぇ、気になってたんだけどさ」
気まぐれな彼女は、ボロネーゼが運ばれてくるまでの退屈な時間を僕と話して過ごそうと考えたらしい。
「なに?」
同じく気まぐれな僕は、彼女の暇つぶしに付き合うことにした。
「海來みらい君の名字って、なんて読むの?」
「水の主、で“かこ”だよ」
「へぇー、じゃあ君の名前って、“かこ みらい”なんだね」
薄く曇ったグラスを指でなぞると、水滴がついた。
「変な名前でしょ」
「そうだね」
彼女が間髪入れずに返事をした時、僕は水を喉に通しかけた所だった。だから水を飲み込むまでの間、次の言葉を紡げなかったのは仕方がない。
「そこは否定しなよ」
僕は指の跡がついたグラスを置いて、気遣いのできない彼女の方を見た。もっと気を使った返事ができないのだろうか。彼女は黒真珠みたいな大きな目をこちらに向けて、まったく悪びれていない様子をだった。
「変だとは思うからね。変わってるよ。それ以上に、時間が名前ってかっこいいと思うけど」
これは彼女の本心からの言葉だろう。彼女は人に気遣いができないタイプであるというのは、先ほど知ったばかりだ。気遣いもできないなら、お世辞も言えないだろうから。
「七桜さんだって、英語の“now”に似てるよ」
「ほほう、その視点はなかったなぁ」
前のめりになった彼女は、黒真珠を見せびらかしているのかというほどに輝かせていた。
「だろうね。君の好きなパスタを“past”に結びつけるのも、僕くらいだよ」
これは彼女の好物がパスタだと知った時に、僕の頭にシャボン玉のようにポンと浮かんだことだ。
「うんうん、面白いね。私の名前は“いま”で、パスタは“かこ”なんだ」
彼女は、シャボン玉が弾けたみたいな笑顔でそう言った。僕のちょっと風変わりな思考を、彼女は面白がってくれた。その事実に、軽く鳥肌が立つ。彼女の気まぐれに、ほんの少し、本当に少し感謝した。
「そっかぁ。じゃあ、私と海來君は似た者同士なんだね」
彼女がそう言った時、ボロネーゼがやってきた。それを見る彼女の目は輝いていて、それまで話していた僕のことなんか眼中になかった。彼女は過去を振り返らないどころか、見向きもしないタイプらしい。僕と彼女が似ているかどうかは、わからなかった。
そこから彼女は一言も話さずに、パスタを食べ続けた。彼女が不器用にパスタをフォークに巻きつけて、目を細めていかにも美味しそうに食べる様子は見ていて飽きなかった。
その日以降、僕と彼女がそのパスタ屋に行くことはなかった。彼女は誘わなかったし、僕も誘おうとは思わなかった。気まぐれな二人の関係は、気まぐれなままに終わったのだ。
それなのに。
今日もまた、あの店に来ている。
それは店の経営が心配だったからなのか、店の雰囲気が気に入ったからなのか、それともあの日食べたカルボナーラが美味しかったからなのか。どれも少し合っていて、どれもだいぶ違う気がする。
カルボナーラの味は、きっと普通。こだわりの食材が使われているわけでも、特別な味付けがされているわけでもない。それでも何度も通ううちに、店主のおじいさんとはすっかり顔馴染みになった。
窓際の席に座れば、萌黄色の丘に薄いピンク色の花が咲いているのが見える。薄くて淡くて、頼りない色。きっと、あと数日もすれば空に知られぬ雪になる。何か特別な花というわけではないけど、今しか見られない景色だ。
彼女は今もパスタが好きだろうか、と過去に思いをはせながら、ミートソースを絡めたパスタを口に運ぶ。
そのパスタの味は七桜さんの言う通り、やっぱり、美味しいのかもしれない。