1話 ボーイ・ミーツ・エルフ 1
「世界はこんなにも美しかったのか…!」
睡眠不足と眼精疲労で痙攣する上瞼を擦りながら、俺、笹原祐介は真っ赤に染まる夕焼け空を見上げていた。
大学卒業と同時に入社したこの会社は、いわゆるブラックというものだった。入社から3年、残業なしで帰れた日は両手で数えられる程度。定時で退勤できた日に至っては片手で数えられる程度だろう。
そんな中、今日は奇跡的に残業なしの定時退勤!
しかも土日休みと来た!
今日の朝それを聞いたとき、隕石でも降るんじゃないかと疑ったほどだ。しかしこれは千載一遇のチャンス。深夜に帰って早朝出勤を強いられる毎日では碌に酒も飲めやしない。
「今日は呑んだくれるぞぉ―!」
テンションマックスの俺は、周囲の目を気にすることなくスキップで、住むアパート近くの居酒屋へと向かった。
ちゅんちゅんと、鳥の囀る声が聞こえる。鳥の声という目覚ましで起きられるなら、最高の朝だろう。この酷い二日酔いがなければ。
「頭痛ぇ…」
昨日の記憶が不鮮明だ。
確かすぐ近くの居酒屋入って、飲んでるうちに楽しくなってきて、誰かと大分長い間話してた気がするんだけど…。何を話したか、そもそもどんな人だったかもはっきりと思い出せない。
まあ、酔いの席での話など思い出すまでもないか。
とりあえず水を飲もう。ベッドから立ち上がろうとしたとき。
ふにゅん。
なにか柔らかい感触が手に伝わってきた。こう、すべすべで柔らかいのに程よく弾力があり、ずっと揉んでいたくなるような…。
ちょっと待て。
嫌な予感がしてその正体を見ると、
「OMG…」
絹のようなつややかな髪、モデルと見紛うほどの整った寝顔、そして長い耳の女性が隣に寝ていた。そして今、俺の左手はその女性のたわわな胸を鷲掴みしていたのだ。
急いで胸から手を離したとき、彼女は長いまつげを緩やかに持ち上げ、エメラルドのような眼を露わにした。
「んんー…。ふわぁ…ぁふ」
状況を飲み込めずフリーズする俺をよそに、ゆったりと起き上がり、伸びをする彼女。
そして、ぱちっと目が合う。
すると彼女は寝起きには少しの恥じらいと、眩しすぎるほどの笑顔で言った。
「昨日は楽しかったですね♡」
状況を整理しよう。
昨日は定時で退勤。帰宅する足でそのまま居酒屋へ。気付いたら俺の部屋で寝てた。隣には女性。そして昨日は楽しかった、と来た。
…つまりそういうことですか。
「やっちまったぁぁぁああああ!!!」
「うわ、びっくりした! いきなりおっきい声出さないでくださいよ」
「ああ、すまん…」
思わず頭を抱えて叫んでしまった。
滅多にない定時退勤でテンション上がってたとはいえ、まさかここまでやるとは…。記憶はないがこんな美人さんをよくやっt…じゃなくて見損なったぞ俺。
ひとまずここはお互い何の後腐れもない様、紳士的に接した上でご退場いただこう。面倒は御免だしな。
「いやぁ、あはは…。とりあえず君も水いる? 君も昨日結構飲んだでしょ?」
「ありがと、せっかくだし頂こうかな」
水道水をコップに注ぎ、彼女に渡す。こくこくと小さく喉を鳴らしながら、一気にそれを飲み干した。
「はぁー。ここはお水もこんなにおいしいのね。なんか感動しちゃった」
彼女は両手でコップを持ちながら、しみじみといった。
「あれ、君はここら辺の人じゃないの?」
そんな彼女のセリフに思わずぽろっとこぼれてしまった。
すると彼女はかわいらしく頬を膨らませながら言った。
「あーもしかして昨日のこと覚えてないんだ?」
まずい。このままでは俺の貴重な土日がこの女のせい(もとはと言えば俺のせい)で潰れてしまいかねない。こういう時の最適解は…。
「全く持って申し訳ない」
会社仕込みの腰を直角90度に曲げた誠心誠意の謝罪である。
そのまま自分のつま先を見ていると、少しずつ記憶が戻ってきた。
そうだ。確かに俺が昨日居酒屋で話し込んでたのはこの女性だ。
大将と話しながら飲んでいると、お腹が空いたからなにか食べさせてほしいと彼女が店内に入ってきたのだ。お金もないようで、気分が良かった俺は奢ってあげると言って、そのまま彼女としばらくの飲んだ。確かその時…。
「ああ! 家追い出されちゃったって言ってた君か! 名前は確か…シルフィちゃん!」
「やっと思い出したかユウスケ。ちゃんと思い出したから許してあげよう」
彼女は膨らませた頬を戻し、優しい笑みを俺に向けた。
家を追い出され、泊る所もないというシルフィを俺の部屋すぐ近くだし泊っていきなよと言ったんだった。そのあとのことは、うん。思い出さないほうが今後のためだろう。
それにしてもとてつもない美人だ。
窓から漏れる日の光をキラキラと反射する綺麗な黒髪に、綺麗さと可愛いさを両立した顔立ち、モデル顔負けのスタイルに、目を引くすらっと伸びた耳…。
伸びた耳?
ちょっと待て(2回目)。
作り物か? いや、にしてはリアルすぎる。日の光を若干透過する肌の感じもぴょこぴょこと時折動くのも、全てが作り物などではなく、その耳が紛れもない彼女の体の一部であることを主張している。まるで御伽噺や漫画に出てくるエルフみたいだ。
「そんなにまじまじと見られると、さすがにちょっと照れる…」
シルフィは頬を赤らめながら、タオルケットで顔を隠した。
かわいい。いや、そうじゃなくて。
「あのー…。まだ酔いが残ってるかもしれなくてさ、念のため聞くんだけど」
きょとんとしているシルフィに聞く。
「もしかして、エルフ…とかだったりする?」
「え? 昨日も言ったじゃない。私エルフの村から追い出されたって」
彼女はさも当たり前のように答えた。
エルフの里というワードが出た瞬間、スイッチが入ったようで。
「昨日も言ったけどさ、酷くない? 私がちょっと我儘言っただけで村から追い出すなんてさ! そもそもみんな私のことを変だ変だって言うけど―」
愚痴の機銃掃射が始まった。
要約すると彼女はエルフの村だと男癖が悪く、手に追いきれない、一旦外の世界を見て自分の異常さに気付いてこい、ということで追い出されたそう。
「―やっぱり好きになったらいっぱいいっぱい会いたいじゃん! これって私が変なのかな? ここでもみんな私のこと変っていうのかな?」
「いや、好きな人出来たら少しでも一緒に居たいって思うこと自体は何も変じゃないと思うけど…」
彼女の迫力に押されつつ、俺は答えた。
「そうだよね! 変じゃないよね!」
俺の同意に目を輝かせながら続ける。
「でもみんな私のこと束縛し過ぎって、重いって言うのよ!」
人間界でもエルフ界でも重い女性という概念は存在するのか、としみじみしながら聞いてみる。
「重いって言ったってそう感じるには個人差あるじゃん。ぶっちゃけどんな感じなの?」
「付き合ったら少なくとも1年に一回は会いたいし、5年に一回はデートしたいし、ちょっとぐらい我儘言ったって―!」
エルフは長寿な生き物、というのが定説だ。そう考えると彼女の要求というのは、長い長い人生(エルフ生というべきか)基準で考えると激しい束縛という解釈に至ってしまうのだろう。
しかし。
「え、少なくない?」
こちらの基準―というか俺の基準で考えれば、
「彼女とだったら毎日でも会いたいし、デートだって時間が合えば何回でもしたいって思っちゃうな。まあ俺が我儘なだけかもしれないけど」
笑いながらそう答えた。
「ッッッ!!!???♡♡♡」
シルフィのほうを見ると、顔を真っ赤にして、タオルケットをぎゅっと握りしめながら俯いていた。
何かまずいことを言ったかもしれない。
「何か不快なこと言ってたらごめん! 悪気があったわけじゃなくて―」
「…に…たのね」
あたふたと情けなく弁明していると、彼女が何かを小声でつぶやいたのが聞こえた。
「え、今なんて?」
俺が聞き返すと、彼女は真っ赤な顔をあげた。きらきらと光る若竹色の瞳でまっすぐと俺を捉える。
…なんか、彼女の瞳と背景に無数のハートマークが見えるんですけど。
「運命の人はここに居たのね!!!」
シルフィはバッとタオルケットを投げ、すごい勢いで俺に抱きついてきた。
「ぐえ!」
勢いを受け止めきれずそのまま倒れ込んだ。そんなことはお構いなしに、抱きしめる腕に力を籠めるシルフィ。
あー腹の辺りに斯くも素敵な、柔らかな感触が…。じゃなくて!
「シルフィさん! いったん落ち着いて!」
引き剥がそうとするも物凄い力で何ともならない。ぐりぐりと甘える猫のように俺の胸に顔を押し当てながら、彼女はつぶやく。
「こっちの世界で貴方に最初に出会えたのは、きっと運命ね…」
起き上がり、逆床ドンの構図となる。
そしてにんまりと笑みを浮かべ、言った。
「私、貴方のお嫁さんになるわ! 今決めた!」
「…は?」
激重(?) エルフとの騒がしくも愛すべき日々が始まりを告げた瞬間である。