よそごと
「婚約を解消するよ、フリーディア」
すすめられた椅子に座った途端、私の婚約者、ガイツハルト第二王子殿下は言い放った。まるで明日の朝食のメニューでも宣言するような口調で。
「……は?」
十二歳で調った婚約で、それから三年間、この方に私なりに尽くしてきたつもりだ。確かに私の家はそこそこの家柄だし、顔も能力もそこそこだけど、こんな風に突然、婚約解消を一方的に、もう決まったかのように言われて受け入れられるはずもない。
「…… ガイツハルト殿下のご意志でしたら否やはございませんが、私も非才の身ながら努力を重ねてきたと自負しております。婚約を継続できない理由をお聞かせいただけますでしょうか」
伏せていた顔をあげて、私は真っ直ぐにガイツハルト殿下を見た。私の渾身の抗議にも、殿下は全く表情を崩していなかった。
「理由ね。その前に前提として、フリーディア、私は君との婚約は、婚約当初から不本意だった。だから他の令嬢に変更してもらうために、君に死んでもらうことも考えていたのだけどね」
……え?は?
殿下の言葉に私は返事もできなかった。
ガイツハルト殿下は野心家の上、腹黒だ。彼の野望の妨げとなるものは排除しにかかるだろうとは予測できるけど、この鬼畜!
「そうしなかったのは、君がいなくなったとしたら、君より条件の悪い者がやってくるのが明白だからだ。君よりさらに家格や容姿の劣る者を娶らされるなんて耐えられないからね」
……私、とんでもない理由で命の危険に晒されてたんだ。しかも、さらにとんでもない理由でその危機を脱していたとは。言い草もとんでもないし。
「それにね。婚約してみたら、君がまるで主人に従う子犬みたいに思えてきてね。情が湧いたというのかな。命まで取るのが哀れに思えてね。君自身に罪があるわけじゃないし」
当たり前じゃねーか。私が何をした。子犬上等!飼い主は責任を持って最後まで世話してくれないと。
「それでも婚約を継続できない理由ができた」
「……理由、ですか?」
殿下は私を見るとニヤリと片頬を上げた。
「以前からたびたび、隣国の女王の後宮に入る人物を探すよう打診されていたのは知っているだろう。私が立候補した」
つまり隣国の女王の婿の一人になるってことか。ってか、事後報告かい!
「私は、君との婚約も、自分の立場にも、納得がいっていなかった。だが大人しくしておくべきだというのも理解していた。王太子である兄上を慕う気持ちも、あるにはある。だからこそ、この状況にも耐えようと甘んじて受け入れていたが、最近、兄上の婚姻が近くなり、兄上の婚約者の令嬢と接する機会が多くなるにつれて、かの令嬢と君との差を見せつけられるんだ」
……ああん?喧嘩売ってんのか。大体、私が「そこそこ」だからこそ婚約者に選ばれたのだ。幼い頃から容姿も能力も磨き抜かれた才気煥発な高貴なるかの令嬢と私との差が、この国での王太子殿下とアンタの立場の差であることを忘れんな。
「それに、君のことはせいぜい、子犬のようにしか思えないと言ったろう。もうすぐ兄上の完璧な婚約者との絢爛豪華な婚姻式を見せつけられるだろうし、その後、この私が子犬の君とみすぼらしい婚姻式を挙げるなんて屈辱でしかない」
はぁ。コイツもういいわ。よぉーっくわかりましたとも。
「私、人間扱いすらされていなかったのですね」
「私は君で満足しておくべきなんだろうけどな。自分の中の野心をもうこれ以上、自分でも押さえ込むことができそうにない。それでも、君や兄上に対して非道を行いたくはない。だから柵のない隣国に渡り、野心を解放することにした。だが後宮に入るには君との婚約が枷になるというわけだ。陛下には白紙撤回を求めたが、それでは君への賠償ができなくなると言われてね。婚約解消することになった」
これで悪意なく私を思い遣っているつもりなんだから、ある意味すごい。でも私はそこまでの不良品じゃないし、そもそも女性は殿下の野心の道具じゃない。だが理解を求めるのも不毛だとわかっていた。そもそも本当に「野心」なのか?完璧な令嬢への募る想いに耐えきれず……。いや、そんな殊勝なヤツじゃなかった。
私はため息をつくと立ち上がって頭を下げて礼を執り、床に向かって話し出した。
「婚約解消の旨、承知いたしました。また、たとえ愛玩動物への配慮であっても、私にお心配りをいただいたこと、感謝申し上げます。ただ、最後に、まだ婚約者の立場で奏上が許されるこの時に一度だけ、申し上げたいことがございます」
私が床を見ながら待つと、一瞬の後、殿下の声がした。
「申してみよ」
私は姿勢を正すと真っ直ぐに殿下を見た。
「私のような者でもわかっていることです。殿下ご自身はもちろん、下々の者まで理解しているはずです。なぜ両陛下や王太子殿下が、ガイツハルト殿下をはじめから隣国へ縁付かせるのではなく、私と婚約を結ばせたのかを。それは温情でございます」
「……わかっている」
隣国の後宮は、ずいぶんと苛烈な状況だと聞く。蹴落としたり足を引っ張ったりの様は周辺諸国随一の悲惨さと聞いている。そんなところに送るより、平凡な娘と平凡な人生を送ってくれとの周囲の配慮だ。だが、ガイツハルト殿下は波乱の人生に命を懸けることを選んだらしい。そうですか。わかりましたとも。
「こんな私ですが貴族としての矜持は持ち合わせております。私の手を取れば得られたであろう安寧や平穏を捨て、私の努力や矜持を踏み躙ってまでも燃やされる野心とやらです、決して後悔なさることなく、邁進されますよう」
私はそう言って殿下を真っ直ぐに見た。殿下は私を眉を寄せて見ていたが、ふっと苦笑した。
「最高の激励だな。ずいぶんと鼓舞されたぞ。君は、その安寧や平穏とやらの中から私の邁進する姿を指を咥えて見ているといい」
挑戦的に言い放つ殿下の顔を、わたしは少しだけ眺めた。もう二度と会うこともないだろうからだ。再び礼をとって退出しようとすると。
「フィー」
久しく呼ばれていなかった愛称で、殿下が私を呼び止めた。
「今生の別れとなるだろうから、元気で」
……そういうところですよ、殿下。憐憫かなんかだろうけど、時折見せる一片の思いやり。だから私も、あなたを見放すことができずにいたのです。
「殿下のご武運をお祈りいたしております」
私の言葉に、殿下は意表をつかれた顔をした。
「武運ね……。そうだな」
そう言うと殿下は手を払って私を退出させた。
あれから三年が経った。
「そりゃーまあ、そうだろうなぁー……」
あれからさほど時を経ずに隣国の後宮にはいったガイツハルト殿下だが、彼の邁進ぶりは我が国には聞こえてこない。それどころか、ほとんど消息不明のようなものだ。我が国の大使が時折、姿を見ることは許可されているらしいが、直接言葉を交わすことも、書を交わすこともできないらしい。大使によると、少々肥えてきているそうだけど。
まぁ、こうなることは予測できた。隣国だってバカじゃないし、女王陛下だって有能な方だ。多情な方だけど。
そこへやってくる、才気も野心も溢れる美貌の我が国の第二王子。王配殿下だって後宮の面々だって、そんな者をのさばらせておくはずはない。ガイツハルト殿下の立場はせいぜい、我が国に対する人質だろう。「お手がついた」かどうかも怪しいところだ。
「それでも自分なら、どうにかできると思っていたんでしょうけどね」
私はつぶやいた。
ガイツハルト殿下はなぜあの日、私に心情を吐露したのだろうか。まさに、もう会わない飼い犬に話すような気分だったのか。彼なりに隣国での生活に不安でもあったのか。
あれから、ガイツハルト殿下は挫折を味わったのだろうか。それともあの腹黒さで、着々と地位を固めているのか。あの苛烈な後宮で生き残っているだけでも、たいしたものなのかもしれない。どちらでももう、私には関係ないけど。
私は殿下との婚約解消後、中堅どころの中庸な方との良縁に恵まれて結婚、先日、第一子を出産し終えたばかりである。涙しながら息子を抱く愛しの旦那様を眺めたり、砂糖漬けより甘い旦那様の言葉を聞きながら抱きしめられたりする毎日だ。
つくづく、ガイツハルト殿下に手を離していただいて、本当に良かったと思っている。感謝の気持ちもあるけれど、かの方の境遇は、私の中ですでに「よそごと」であるのも再確認した。
ガイツハルト殿下。
あなたと婚約していた日々は、努力を貶され続け、犠牲を強いられる苦痛に満ちたものでしたが、教養と経験を得たおかげで良縁に恵まれることができました。感謝とご活躍を祈る気持ちは本物です。ちょっとだけ、ざまぁみろと思う気持ちも本物ですけど。
だから、頑張って邁進してくださいね、殿下。
私は安寧と平穏の中から、高みの見物をさせていただきます。
ありがとうございました!珍しくシンプルなタイトルになりましたが、考えるのが面倒だったわけではなかったような感じだと思わなくもないような??