その09 がらんどうの怪物を穿て
「雨が降ってるから、今日は森には行けませんね」
「…………」
自由時間、いまだ降り止まぬ雨を見上げながら、私はボゥお姉さまと厨房に居た。
勉強に夢中で、趣味の時間が減っていた。それでも野草はまだふんだんにストックしてある。
私はお湯を沸かしながら、偶然居合わせたボゥお姉さまに話しかける。
ボゥお姉さま自身の告白への、私から出来ることはまだよく分かっていない。
私には私の問題があった。今週は、なんだかとても疲れていた。
「そうだボゥお姉さま、弓って作れます?」
「…………?」
小首を傾げるお姉さまに、私は頭を振った。
ボゥお姉さまは何も喋りはしないけど、それでも何となく言いたいことは分かる。
「私にじゃなくて、エーコちゃんにです。こないだを覚えていますか? 一緒に森に行った日」
「……………………」
困惑の気配。忘れてはいないだろう。あの日、ボゥお姉さまは気もそぞろだった。
それはきっと、エーコちゃんが居たからであり。つまりボゥお姉さまは私には分からない理由で、エーコちゃんが『人間以外のヒト』だと見抜いたということで。
「獲物を見る度に、エーコちゃんは反射的に何かを手繰ってました。たぶん、きっと、弓だったんじゃないかと思うんですよ」
「…………ッ」
『エルフ』は弓の達人だという。エーコちゃんが『エルフ』なら、若く見えてももしかしたら何十年という鍛錬を積んでいてもおかしくはない。
「私は、当事者じゃないから、ボゥお姉さまに許しの言葉を投げかけたとしても、それって空っぽだと思うんです」
「…………」
ボゥお姉さまが救いを、許しを求めるのなら、それは赤の他人からではない。
当事者だった可能性の高い、『エルフ』などの『人間以外のヒト』からであろう。
「だから、まずはエーコちゃんを助けて、エーコちゃんのために何かをすれば……もしかしたらボゥお姉さまも……」
「……………………」
私は、言葉の途中で何かに引っかかった。いや、さっきからずっと引っかかっている。
ずっとずっと、喉に魚の小骨が刺さっているのように。
「あ」
「…………?」
「偉そうな事を言いました。全部無し。私、そんなこと言えるほど上等の人間じゃない」
「…………???」
私は青ざめた。嘘でしょ、信じられない。今すぐに自分の舌を引っこ抜いてやりたい。
穴があったら入りたいとはこの事か。
私は気付いてしまった。
私は気付いてしまった。
「私……ティカイルクス子爵のせいで」
思い出す。父と母の絶望した顔。冷たくなった小さな体。
『貴族様』が好き勝手するために上げられた税、不作と重なった流行り病。
私は生まれたばかりの幼い弟を亡くした。村の物知りおじいさんも、なかよしの友達も。他にも、何人も。
税がきつ過ぎた。銀貨の一枚でもあれば、もっと栄養のあるものが食べられた。
お母さんはおっぱいが出なくなることもなかったろう。
間違いなく、その悲しみと憎しみが、今の私を作っている。
私は、『憎む側』の人間だった。
「私は『貴族様』が―――」
「…………ッ!」
言葉の途中で、ボゥお姉さまは私を抱きしめた。優しく力強い腕だった。
ボゥお姉さまは炭みたいに少しいがらっぽいけれど、嫌じゃない匂いがした。
「ボゥお姉さま?」
「…………」
私が落ちついてからも、お姉さまは少しの間私を抱きしめていた。私を何かから守るように。あるいはボゥお姉さま自身がすがりつくみたいに。
「……………………」
私から離れると、ボゥお姉さまはかまどの灰を指でこすり、床に文字を書いた。
『それでも、イウノはロドバは好きでしょう』
「え? ええと……」
拒絶も拒否もできた。
でも、ボゥお姉さまの気持ちが分からないほど、私は愚かではいられなかった。
突きつけられた鋭い切っ先。私が、私自身が『憎む側』だったこと以上に受け止め難い。
ボゥお姉さまは教えてくれようとしていた。
その憎む先は、私の宿敵は、『貴族様』は……私が私の中に作り出した、私にしか見えない敵なのだと。空虚な影法師、がらんどうの怪物だ。
ロドゥバは『貴族様』ではない。
チオットが『タピルスという得体のしれない何か』では無いように。
ロドゥバは、ロドゥバなのだ。
そして、『貴族様』というものは私の偏見と差別そのものでしかない。ロドゥバは違うのだ。
もしかしたら、ティカイルクス子爵だって……いや、それはどうだろうか。悲しい過去があっても、ティカイルクス子爵は良い領主ではない。
私は『貴族様』が嫌いだ。では、ロドゥバはどうなのだ?
私はあの高慢ちきな差別主義者が―――。
「―――やっぱり、ボゥお姉さまはエーコちゃんと仲良くするべきですよ」
「…………」
私の言葉にボゥお姉さまは小首を傾げる。可愛らしい仕草が妙に似合う。
「『エーコちゃん』は『ボゥお姉さま』は許してくれるかもしれないじゃないですか」
黒いベールの向こう側で、ボゥお姉さまが微笑む気配がした。
何も見えないけど、私にはそう感じた。
「ねえ、ボゥお姉さま!」
ふと気が付いて中庭に飛び出した。雨が止んでいる。雲間から指す陽の光が、濡れた中庭を輝かせていた。
ボゥお姉さまの言葉で、塞いでいた私の心も同様に晴れやかになっていた。
晴れたなら、やることはいっぱいだ。
一週間も押し込められていた羊や山羊たちを牧草地に出してやらなきゃだし、洗濯物も溜まってる。
そしてまた、ボゥお姉さまとエーコちゃんとで森に野草を取りに行こう。
そしたらきっと、聖パトリルクス修道院は今日も平和だと思えるんじゃないだろうか。




