会いたいと願うほど君を失う
長年に渡って客観的な考察を重ねた結果、どうやら私はあれを愛していたらしい。
私の中にある語彙では、こう形容するのが最も近い状態と言えた。
失ったのはいつだったか。
それすらも思い出せないのに、いまだ私はあれを求める。
影でいい。
幻でもいい。
それすらも叶わないなら、せめて同じ姿をしたものをこの手で造ろう。
ギリギリまで弱めた薄青い間接光が、足下をぼんやりと浮かび上がらせていた。
四方をコンクリートの壁に囲まれた部屋には、直立した人間を頭のてっぺんまで沈めてしまえる水槽が幾つか並ぶ。
窓はない。
唯一の出入り口である鉄のドアは、ごく狭い通路を挟んで二枚設けられている。セキュリティの面も考慮してはいるが、それよりも光を警戒していた。
光は、駄目だ。
最悪なのは太陽光だが、人工照明でさえ、体組織を蝕む。それで何度、何体、駄目にしたか知れないのだ。
私は、一基の水槽へと近付く。
他は空だ。今はただ無為に、培養液がコポコポと気泡にかき混ぜられている。
足を止め、透明で強固な水槽に触れた。
中では愛しい形をしたものが、わずかな粘度を持つ培養液に身を任せて眠っている。
いや、眠っていると言うのは、正しくないかも知れない。正確には、彼女はまだ目覚めた事がないからだ。状態としては、まだ生まれる前の胎児に似ているだろう。
彼女の均整の取れた肢体には何本ものチューブが刺さり、水槽の傍らに設置した箱形の装置につながっている。その内の何本かは彼女の状態を計測し、何本かは栄養を供給するための物だ。
どうしても必要な物だったが、裂いた肉に埋まるそれを見るたびに、私の心は後悔に似たもので炙られた。
けれども、決めたのだ。
どんな姿になっても、どんな酷い事をしたって、必ずまた君に会うと。
そのために、数え切れない君を殺しても。
実際、私は今までに何度となく始末してきた。造り出してしまった失敗作を。
たまに、解らなくなる。
これではまるで、殺すために彼女を造り続けている様だ。
「眼を、開けてくれ」
自分の声だと、解らなかった。
一人で研究室に籠もったまま、何ヶ月、何年、声を発していなかったか解らない。みじめに掠れた声。ぞっとするほど老いた声。
知らず、食いしばった歯の間から零れた声は、そんな音色で耳に届いた。
ああ、と思う。
私はいつから、こんな事をしているのだろう。
私はいつまで、こんな事を続けるのだろう。
私はこれから、何人の彼女を殺し続けるのだろう。
冷たいものに心臓でも掴まれた様に、心が凍えた。
水槽によじ登り、重たい蓋を開ける。水槽は人間一人分を想定した大きさだったが、もう一人くらいは何とかなりそうだ。硬い革靴で彼女を蹴ってしまわない様に用心しながら、私は身体を水槽に沈めた。水槽のふちから、培養液があふれ出す。
床に広がるそれに、電気系統がやられたらしい。バチバチと嫌な音を立てて、薄青い照明が落ちる。一瞬の闇の後、赤み掛かった非常灯に切り替わった。
反射的に舌打ちする。この光は良くない。そんな事が頭に浮んで。
もう、どうだって良い事のはずなのに。
水槽の中から腕を伸ばし、蓋を閉める。これを足場のない内側から、再び開く事は不可能に近いだろう。
構わなかった。
彼女の姿を間近に見ながら、このまま死んでしまおうと決めていたからだ。
ゆらゆらと漂う彼女の豊かな髪を掻き分け、触れる。
瞼に、頬に、すんなりとした輪郭に、小さな耳たぶに。しかし唇だけは、空気を供給するチューブのために触れる事ができなかった。
少し錆に似た奇妙な味の液体が、鼻や口から入り込む。こんな物の中で、私は彼女を育てていたのか。自嘲が浮ぶ。今になるまで、そんな事にも気付かないとは。
苦しい。
空気を求めて喉が引き攣り、身体中の血液が痛いほど激しく暴れた。
力の限り、彼女を抱き締める。その柔らかさを全身で感じながら、私は意識を失い掛けた。指先から知覚が曖昧になり、思考が鈍り、自分が何をしているのかも解らない。
そんな時に、私の頬を冷たい何かがそっと包んだ。
――くそ。
彼女が私を見ていた。
冷たい手の平で私に触れ、見詰めていた。
出来の悪い冗談だ。
――成功か。
脳裏に浮んだこの思考が、私の知る最後の記憶だ。
本当の所は解らない。
何があったか。
私は培養液に揺れながら、絶望を持って覚醒した。目の前には赤みを帯びた非常灯に照らされて、見慣れた死体が漂っている。
水槽の内側から一時間ほども格闘して、最後には彼女の死体を踏みつけにして、やっと重たい蓋を押し開けた。
何とか自分の身体を外へ出し、彼女の死体を引き上げると、ひとまず電気系統の点検に向かう。幸い、床に這わせていた電源がショートしただけの様だ。水気を除いてブレーカーを戻すと、元の薄青い照明に戻った。
私は鬱陶しく顔に掛かる半渇きの髪をかき上げて、床に転がした死体に目を遣る。
少し前まで、私が半生を掛けて造り上げたかったものが、これの中に宿っていた。
しかしそれはもう失われて、影すらも残ってはいない。
生きていた彼女が死に、死ぬはずだった私は生きている。
培養液に包まれて目覚めた時、私の肺は空気で満たされていた。口に噛んだチューブのせいで。
私は死体を膝に抱え、少しぼんやりとしながらその肌を撫でる。
落胆はしたが、自分の早計で失ったものを見るにしては、私の眼は冷静過ぎた。
頭の中ではもうすでに、「次」のための改良プランを組み立て始めていたからだ。
自分がさっきまで何を考え、どうしようとしていたのか、もうすっかりどうでも良くなってしまっていた。
ふと、手を突いて死体に顔を近付ける。そのまま、肺の収縮のために口から吹き出る白い泡ごと唇を舐めた。
その感触はぶよぶよしていて、どこか深海の生物を思わせた。
一瞬。
本当に一瞬、夢の様な事を思った。
彼女は私を救ったのではないかと。
私の命をつないだチューブは、彼女の唇にあるはずの物だったからだ。
この余りに儚い可能性は、芽生えると同時に否定した。恐らく、錯乱した私が無意識に彼女からチューブを奪い取ったのだろう。
ただひとつ確かなのは、彼女を殺したのはまた私だと言う事だけだ。
(了)
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