ある愚かな婚約破棄の結末
「アデライド・ウィンズレット!! お前との婚約を破棄する!!」
高い天井をふるわすように、セドリック王子の大声が響く。
周囲で談笑していた大臣やら元帥やら高位貴族達の視線が、若い二人に集中する。
「国と王家の政略によって成立したとはいえ、婚約者と思えばこそ、これまでの嫌味や皮肉にも耐えてきた。だが…………もう許せん!」
十五歳の王子は右の人差し指を同い歳の婚約者に突きつけ、宣言した。
「私が愛するのは、このベルタンただ一人! 私は彼女と結婚する!! 貴様の顔は二度と見たくない!!」
王子は左手で愛する恋人をしっかり抱き寄せた。
ふわふわしたローズピンクの髪。エメラルド色の瞳は恥ずかしげに伏せられ、白い頬はほんのり紅潮して愛らしいことこの上ない。
アデライドは深くため息をついた。
「本気でおっしゃっているのですか? 一国の王子ともあろうお方が、そのようなことを軽々しく――――」
「本気だとも。お前のベルタンへの暴言の数々、もはや我慢ならぬ」
変わらず恥ずかしげにうつむいて頬を染める恋人を、いっそう強く抱き寄せる婚約者の姿に、アデライドはますます幻滅が深まっていく。
もはやこれまでとばかりに、思っていた事柄をつらつら並べた。
「セドリック殿下がその娘を寵愛されるのは、殿下のご自由です。ですが『結婚』とは。その言葉の意味や意義をご理解しておられるのですか? 仮に結婚できたからといって、その者になにができると言うのです」
アデライドは扇をローズピンクの髪の少女に突きつける。
「その娘に、妃として侍女達に指示を出すことができますか? 客人をもてなすことができますか? 楽器の演奏や詩吟は? 刺しゅうやレース編みは? 書類に自分の名を記すこともできないのでは、そこらの町娘以下ではありませんか」
鼻で笑ったアデライドに、ローズピンクの髪の少女はただただ恥じらうばかり。
「なにを言う!!」
王子が庇った。
「ベルタンは立派な姫だ! 美しく愛らしく、下層の出でありながら、そうとは思わせぬ品があり、歌を歌えば動物達が聞き惚れて精霊も集まる、闇の邪霊を退ける『光の歌姫』だぞ!!」
「聖なる歌姫だか啓示の乙女だかは存じませんが、殿下が大事そうに抱えるそれは、いわばただの『飾り物』ですわ。むしろ飾り物でありながら一国の王子をここまで惑わせるとは、傾国の悪女のそしりを免れませんわね」
「うぬ! ベルタンを悪女呼ばわりとは…………!!」
セドリックの眉が吊りあがり、右の拳をにぎりしめる。
「そこまで言うなら私と貴様、どちらの言い分が正しいか、この場にいる皆に訊いてみようではないか!!」
左腕にしっかり恋人を抱いたまま、事態を見守っていた周囲の貴族達に向き直った。
「みなの者! このアデライド・ウィンズレットは、私が聖女とも女神とも崇めるメリーベルを無能と断じ、『悪女』とまで罵った! この言い分は正しいと思うか!?」
自分が正しいと信じて疑わぬセドリックの口調に、アデライドは心からのため息をついた。
「そのような飾り物に、そこまで現を抜かされるとは。仮にも先王陛下の御子の言葉とは思えません。亡き陛下も、この場にいる皆様も呆れておいででしょう」
今日の夜会は大臣達や特に高貴な貴族など、限られた者だけが招待された、いわば身内の小規模な集まりだ。言い換えれば、国の中枢にいる者ばかり。
いくら『光の歌姫』達が絶大な人気を誇っていても、王子の愚行が支持されるはずがない。
そう、アデライドは信じていたのだが。
「ウィンズレット伯爵令嬢に非がありますな」
顎鬚をなでながら宰相が言いきる。
他の男からも次々声があがった。
「宰相閣下と殿下の言うとおり。伯爵令嬢が言いすぎです」
「婚約者といえど『光の歌姫』を悪しざまに罵るとは」
「婚約者であればこそ、相手が愛するものを積極的に愛する努力をすべきです。それを否定するとは」
「ウィンズレット伯爵令嬢が悪い」「有罪」「有罪」と口々に断言していく。
「そんな」
アデライドは耳を疑った。
国の中枢に位置する者達が、ここまで愚かな判断を下すなんて。
そこまで『光の歌姫』の存在と人気が高位貴族達に浸透していたなんて。
狼狽するアデライドに、セドリックが「それみたことか」と向き直る。
「結論は出たな。みな、私に賛同してくれた。悪いのはベルタンを愚弄したお前だ、アデライド。やはりお前とは婚約を解消する」
セドリックは左腕の中のメリーベルを見せびらかすように持ち直す。その勝ち誇った顔に、扇をにぎりしめたアデライドは言ってやらずにはおれなかった。
「いい加減になさいませ、殿下! そんなこと、その女はしょせん…………っ」
アデライドの扇がセドリックの左腕の中の少女を指し示す。
元凶の少女はこの期に及んでもまだエメラルド色の目を伏せ、頬をうっすら紅潮させて恥じらいの表情を浮かべるだけだ。
「その女はしょせん、『抱き枕』でしょうがっっ!!」
広間中にアデライドの声が響いた。
「殿下がどのような本をお読みになろうと、どのような人物に好感や共感をお寄せになろうと、それは殿下のご自由ですが! 現実にまで持ち込まれるのは話が別です!! 『光の歌姫』メリーベルは物語の中の登場人物!! 結婚など、できるはずないでしょうっ!?」
そう。セドリックの言う『ベルタン』こと『メリーベル』は『光の歌姫』という物語の登場人物の一人だった。
「最近、隣国で大流行している」と大使が国王一家に贈った小説なのだが、『ユーリカ・ワイトナー』という一風変わった筆名の、正体不明の作者が書いたこの本は、あっと言う間に国王一家を夢中にさせたばかりか、またたく間に上流貴族中に広まって写本を求める者があとを絶たない。
その『光の歌姫』の魅力をセドリックは熱弁する。
「ベルたんはなぁ! 音女神の啓示を受けた一人で、聖なる歌声で人々を癒し、希望を与えて悪魔と戦う、健気で勇敢で優しい乙女なんだ!! 私の天使なんだ!!」
セドリックが等身大のメリーベルの絵が描かれたやわらかい枕――――『抱き枕』をアデライドに見せつければ、「そうだ、そうだ!!」と広間のあちこちから男達の同意の声があがる。
「ベルたんは最高なんだぞ!! とっても可愛くって優しくって、女神で聖女なんだ!!」
「マリたんもいいぞ!! 頑張りやでちょっとドジな妹的存在、万歳!!」
「セイラ様のクールなビューティー、最の高!!」
「『光の歌姫』を罵倒するなんて、悪だ! 世界を裏切る大罪だ!!」
「皆様がた…………」
アデライドはこめかみを押えた。本気で頭痛がする。これが国の中枢に位置する者達の台詞だろうか。
なにか言ってやろうとしたアデライドより、一瞬早く。
「だいたいお前だって、ユーリカ・ワイトナーには世話になっているだろう。知っているぞ! 『剣戟無双』のルシファーとやらに執心だそうだな!! お抱えの画家にヤツの絵を何枚も描かせて、部屋中に飾っているそうではないか!!」
「なっ」
セドリックの指摘に、アデライドは青ざめると同時に赤くなった。
「なぜ、それを――――!」
「侍女には充分な給金を出すよう、父親に忠告しておけ。そなたの専属侍女は、金貨五枚で令嬢の秘密を暴露したぞ」
「ふん」と得意げに語る幼なじみに、アデライドは悔しそうに唇を噛む。
「テレーザ…………『剣戟王子』の絵カードをすべてそろえていて、どうやって代金を捻出したのか不思議だったけれど…………そういうこと…………っ」
「飼い犬に手を噛まれるとは、このことだな。あんな根暗キャラのどこがいいのやら」
セドリックの言葉の後半に、アデライドがすかさず反応した。
「ルシファー様への愚弄は許しませんわよ!? あの方の魅力を、孤独を、殿下はどれほどご存じだと!? 闇に溶ける黒髪、獣のような琥珀の瞳に、雪花石膏の肌! 本来は天界の王が所有すべき聖剣の中の聖剣として誕生しながら、魔剣として地獄の底に堕とされ、我が身を呪いながらも真の主を待ち続ける、哀しい運命を負った美しい御方…………!!」
アデライドが身をよじるように力説すると「そうよ、そうよ」と新たな声があがる。
大臣や貴族達に同行して夜会に出ていた、彼らの奥方や令嬢達だ。
「ルシファー様は最高の殿方ですわ! 旦那なんて、比べものにならない!!」
「ミカエル様もすてきよ! ラファエル様との絡みがたまらないわ! 婚約者とお茶するより、ミカエル様とラファエル様の頁だけ読んで生きていきたい…………!!」
「ああっ!! 過去編のルシファー様、尊い…………っ」
そこここで黄色い悲鳴があがる。
十五歳の少年少女もどんどん白熱していった。
「どうしてもっていうなら、アンタなんかこっちから願い下げよ、セドリック! アンタなんてルシファー様の足もとにも及ばないわ! 私はルシファー様に一生を捧げるんだから!!」
「こっちこそ、ベルたんの良さがわからない石頭女など、頼まれても結婚するものか!! 顔で男を選ぶ面食いが、ベルたんの爪の垢でも煎じて飲め!!」
「爪の垢でもなんでも、持って来れるもんなら持って来なさいよ!! そっちこそ顔で女を選んでいるくせに!!」
「いーや、違う! 私はベルたんの健気で勇敢な心根に惹かれたんだ!!」
「私だって、ルシファー様の孤独を癒して差し上げたいと思っているわ!!」
「いやー…………まったく、毎度毎度すごいねぇ」
混乱の坩堝となった広間から離れて。
国王夫妻と、そのすぐ下の弟がバルコニーから広間の惨状を見守っていた。
「この件であのお二人が喧嘩をするのは、五回目ですわ。私的な場所を含めれば、何十回目になることやら」
「ユーリカ・ワイトナーとやらは天才だな。ペンの力で、一国の上層部をここまで騒がせているのだから。魔法のような話だ」
呆れる王妃に、国王が苦笑まじりに応じる。
「王子も九番目ともなれば、呑気なものですねぇ。二番目の私と代わってもらいたいですよ」
国王の弟が嘆く。
セドリックは第九王子。王位はすでに第一王子の長兄が継ぎ、現国王はすでに男児に恵まれてもいる以上、第九王子に王位が回ってくる可能性はとてつもなく低い。
本人もそれを自覚、理解して、毎日マイペースに生きているくらいだ。
「隣国では『光の歌姫』と『剣戟無双』の続編が次々出版され、小説のみならず、絵画や芝居もどんどん作られているそうです。あの『抱き枕』や『絵カード』も、作者のユーリカ・ワイトナーの発案だとか。おかげで隣国は今、ちょっとした好景気だそうです」
「つまり、じきに我が国にもその好景気の波が押し寄せる、ということか。紙や布を扱う商人達との面会を整えてくれ」
第二王子の説明を聞いた国王の命令に、控えていた側近が恭しくうなずく。
広間の騒ぎは盛りあがる一方で、しばらく収まりそうになかった。
その後、謎の作家、ユーリカ・ワイトナーの二大物語『光の歌姫』と『剣戟無双』は大量に写本が制作され、貴族はむろん、庶民の間にも本格的に出回って一大ブームを巻き起こす。
第九王子セドリックとウィンズレット伯爵令嬢アデライドはその後、「お互いに相手の好きなものは否定しない」「自分が受けつけない場合は、そっと距離を置く」「自分は好きでも、相手が嫌がるものは強要しない」など、いくつかのルールを生み出しながら、付き合いがつづいた。
やがて、この二人は愛する物語の挿絵や絵カード作成のため、大勢の画家を庇護し、劇団を援助して何人もの有望な若手俳優を育てあげ、楽団には自分達の愛する物語をテーマにした新しい曲を何曲も作らせて、印刷業界の発展にも寄与し、後世には『芸術の庇護者夫婦』として名を残した。