第八話 番の花
暗闇の中、海夜は走っていた。
耳を打つのはひどく息切れしている自分の呼吸音だ。
不安と、混乱と、恐怖。
沢山の負の感情を背負って逃げていた。
何から? 思い出せない。
けれど、こわいもの。こわいから逃げている。
それだけの単純なことなのに、それは絶対に出来ないのだと悟りながら、絶望しながら走っている。
走る足下には、薄紅色の花びらが散っていた。
闇の中に散る花びらだけが光る。
雪のように舞う花びらに、刹那、血飛沫が散るのが閃光のように目に飛び込んだ。
その鮮やかさに稲妻に打たれたように立ち竦む。
血が飛び散ったその先には。
暗闇の中に浮かぶ白い手に、今まさに片目を抉られた兄の姿があった。
※
痙攣のような衝撃で目が覚めた。
跳ねるように飛び起きて冷や汗を拭う。心臓が不快に早鐘を打ち、呼吸も乱れていた。
もう何度目だろうか。
この国に来てからというもの、眠ると必ずあの暗闇の桜の夢を見る。
花びらに散った鮮明な血飛沫を思い出し、ぶるりと身震いした。
(どうして、あんな夢……)
日本では精神的に不安定な時や体調不良の時しか見ることはなかったのに、こんなに頻繁に見るなんて。
しかも今日の夢は、大事な人が傷ついた上妙に生々しかった。花びらもそこに散った血飛沫も、実際に見たようにリアルで触れられそうだった。
鮮烈な赤が脳裏に蘇って背筋が寒くなる。
急に兄の身が心配になるが、日本にいる兄と連絡を取る手段は今の所わからない。
焦りそうになって、はっと正気になる。
(待って、夢よ。ただの夢)
同じような夢を見続けていることは気になるが、結局は夢だ。
悪夢を忘れようと軽く頭を振った所で、部屋の扉が開いた。カーテンで遮られて薄暗かった室内に一条の光が差し込む。
顔を見せたのは美津里だった。
「よかった、海夜、目が覚めたのね」
安心したように息をつき、笑顔で海夜の顔を覗き込んでくる。
「美津里さん、来てくれたんですね。………? よかったって、何がですか?」
「覚えてないのね、無理ないわ。殆ど意識がなかったもの」
ズレた返答をした海夜に苦笑して、美津里は汗ばんだ額に手を当ててくる。
「熱は下がったわね。補水液持ってきたから、水分補給しましょう」
波々と注がれたカップを海夜に渡し、美津里は部屋のカーテンと窓を開いた。
白い陽光が室内を明るく照らして、眩しさに目を細める。
「わたし、熱を出してたんですか?」
渡されたカップを口につけると、冷やされた甘さに猛烈な渇きを覚えて一気に飲み干した。
「そうよ。覚えてない? 血液検査もしたけど感染症の類ではなさそうだったから、平たく言って疲れね。精神的身体的疲労」
もう一度カップに補水液を満たしてくれながら、美津里は息をついて難しい顔をした。
「熱が出てたなんて思いませんでした。頭痛はしていたけど……」
「疲労は甘く見ちゃダメよ。蓄積された疲労程厄介なものってないんだから。身体にも、心にも」
「でも、疲れなんて感じてなかったです。頭痛も鎮痛剤で楽になるくらいの痛みで……」
「医務室に鎮痛剤を貰いに行って迷子になったって、殿下から伺ったわ」
部屋へ案内された時、軍施設内なので用がなければ出歩いてはならない、と虎と名乗った白金髪の青年に言われた。
でも鎮痛剤を貰うぐらいはいいだろうと部屋を出て、施設の広さと複雑さに迷子になった。
困っていた所を捜しに来た皇子に連れ戻されたが、施設内を歩きすぎて生まれたての子鹿のようになっていた海夜に、呆れているのだけはありありと分かり……。
あれは反省する。
そういえば、そこから記憶が途切れていた。
「貴女、普通の薬はあんまり効かない体質だって言われた事ない?」
美津里は真面目な医師の顔で質問してきた。
薬が効きにくい。
その言葉を聞いて思い当たることはある。そしてそれは、家族も同じだった。
滅多に病気も怪我もしないが、たまに風邪を引くと市販薬はほぼ効かない、病院の処方薬もないよりはいい、という程度。
医師には毒も効きにくいんじゃないかな、とボヤかれる。
頑丈だが治療の効果が薄いので、体調不良は我慢するようになった。
ちょっと痛いだけなら気のせいだと思い込んで、気づかずに過ごせる。
今回倒れるまで体調不良に気づかなかったのも、そういう鈍さが原因の気がする。
「それね、たぶんお祖母さまからの遺伝の体質よ。うちの祖父は皇家の元侍医で、皇家向けの治療と薬を作ってきた人なの。私はその孫で、うちの夫は弟子。貴女が何者かは何となく察していたから、血液検査の情報で調薬したわ。ここに来るまでの鎮痛剤は効いていたでしょ?」
言われてみれば、その通りだと頷く。
だからこの国の医療水準が高くて、薬が効きにくい自分にも合う薬があるのだと、どの医療機関に行っても大丈夫なんじゃないかとたかを括った。
そうして鈍い為に無理をした結果、疲労を溜め込んで発熱したという……。
結論に辿り着き、恥ずかしくて居た堪れなくなる。
「すみません……。わたし、ちゃんと自己管理もできなくて……」
「貴女の責任じゃないわ。私の監督責任よ。それと、貴女に大事な話をしていない殿下の責任でもあるわね」
不意に厳しい口調になった美津里に顔を上げた。
彼女はちょっと考えるように、唇を引き結んでいる。
「……うん、これは独断で怒られるかもしれないけど、貴女の身の安全の為にも話しておくわ。来訪者である貴女は、知らないかもしれないから」
「はい?」
自分自身の言葉に頷く美津里に首を傾げた。
「貴女のその、他の人と違う所。暮らしていた所でも感じていたんじゃない? 怪我がすぐに治るとか」
「はい、体質かなと思ってます。頑丈だから、あんまり辛いと思う体調もなくて」
「それは、貴女が貴種と呼ばれる種類の人間だからよ」
美津里の言葉は海夜の中で落とし所なく、水が流れるように通り過ぎた気がした。
パチリと大きく目を瞬く。
「……きしゅ?」
「貴種。人類の古代種。現生人類である私達亜種とは違う、特別な体質と能力と呼ばれるものを持っている方々が殆どよ」
(……何、それ)
全く聞いたことがない。初耳にも程がある。
この国独自の人類? いや、そんな筈ない。
そんなものが存在するなら、世界で共有される知識となる筈だ。
じゃあこれは一体何の、どこの話だというのか。
ぐらぐらと頭が混乱して呆然と固まる。
「貴種は今、とても数が少なくて世界的にも貴重な方々なのよ。だから貴種というだけで、良からぬ企みを持つ亜種もいるの。自分が何者か知らなければ、そういう人間から身を守ることもできないわ」
だから美津里達は保護してくれている間、他人の目に敏感でいてくれたのか。
「……キアリズ皇子が、一気に話しても理解が追いつかないだろうって……」
「そうなのね! じゃあ話す気はあるってことね」
それまでの深刻な空気を払うように、美津里は明るく声を上げた。
「目が覚めたばかりでこんなこと言って、ごめんなさいね? でも言っておかないと、貴女また無理しそうで。ね、お腹空かない?」
とりあえず話は横に置いて明るく尋ねられ、そういえば胃の辺りが痛むような空腹を感じていた。
素直に頷くと、美津里は安心した笑顔で立ち上がった。
「もうすぐ昼食になるから、消化にいい物作って貰うわね。繋ぎにそこの焼き菓子食べるといいわ」
机の上から可愛い焼き菓子を取り分けてきた美津里は、寝台のベッドテーブルに置いて嬉しげに笑った。
「昨夜は本当に焦ったけれど、顔色も良くなってよかったわ。殿下にもご報告しないと」
「……わたし、皇子の執務室で倒れたんですか?」
「そうみたい。私がここに案内されてきた時には貴女、医務官に囲まれてたの。あの姿は肝が冷えたわ。殿下も相当心配されて、一晩付き添って下さってたのよ」
(…………えぇ?)
そんな話をされても戸惑う。
いくら親戚とはいっても、知り合ったばかりの他人。その上、意地悪ばかり言われた相手だ。
「あ、事実として伝えただけだから。それについての感想は求めてないから安心して。ただ、後で知ってお礼も言えなかったって、悩みそうな性格してるから、貴女」
微妙な反応に美津里は慌てて付け足した。
海夜が皇子にあまりいい印象がないことは、昨日のやり取りで察してくれているらしい。
気を遣わせたことに申し訳なさを感じて、海夜はずっと伝えたかったことを口にした。
「ありがとうございます、美津里さん。今回も今までも。美津里さん達に助けて頂いてなかったら、今頃わたし、どうなっていたか。感謝してもし足りないです」
「こちらこそありがとう、そんな風にお礼を言ってくれて。私達の仕事は人を助けることよ。貴女を助けたのは半分仕事、半分お節介……、少し好奇心も入ってたかしら」
「好奇心?」
「貴女が何者なのかは目星がついてたから、本当の所を知りたかったの。大占の義母が空地のお嫁さんにって思うぐらい、しっかり教育されてるんだもの」
悪戯っぽく笑う美津里に、それまで忘れていたことを思い出す。
去り際の、大占の冗談のことを言っているのだろう。
どう反応すればいいのか困って、曖昧に笑うと美津里は苦笑した。
「空地にはいつも通りの態度でいてあげてね。あの子もお義母さまの言葉に慌ててたから。異性に不慣れな分、まともに会話できる女の子はあの子にとっては貴重なの」
異性に不慣れ。
親近感のある言葉に、海夜は大きく頷く。
海夜も異性に免疫がない。
いきなりパーソナルスペースに踏み込んでくる異性より、距離を測れる異性の方が話し易いので、空地の懸念は理解できた。
「お世話になった方ですし、凄く感謝してます。大占さまに気に入って頂けたのは光栄ですけど、冗談ですし。気にしてません」
はっきり言い切ると、美津里は「あ、バッサリね?」と明後日の方向を向いて肩を震わせている。
「? 美津里さん?」
「……何でもないわ。海夜は恋人はいないの?」
唐突な質問に驚いて、焼き菓子がゴフッと喉に詰まった。
激しく咳き込む海夜に、美津里は背を撫でてくれる。
「……っ、いないです……っ。……なんですか、とつぜん……っ」
「貴女とっても美人さんだし、恋人ぐらいいるだろうと思って。何日も会えてないのは可哀想って思ったんだけど……いないとは。意外」
意外って。
この歳で恋人がいないのは普通じゃないだろうか。
まだ少し咽せるのを、胸を軽く叩いて落ち着かせ、顔が熱いのを自覚しながら正直に告白した。
「……いたこと、ありません。十八年間、一度も」
「あら、そうなの? 貴女の周りの男は何やってんのかしらね? 居眠りでもしてるの?」
冗談混じりで言われてちょっと困る。
「言い寄る人がいなかった訳ではないでしょ?」
「……好きでもないのにそういうのは、失礼な気がして……」
「しっかりしてるのね。前の皇女さまの教育が行き届いているんだわ。それでいいと思うわよ? まだ若いんだし。私も貴女の年齢の時は勉強ばかりで、“櫻”なんていなかったしね」
「……? “櫻“?」
「こういう伝統はお祖母さまから教えられていない? 礼儀作法は完璧なのに……」
呟く美津里に首を傾げると、ふいに目の前を幻のような白い花びらが一枚流れていった。
それを目で追いかけた時、飛び込むように耳に声が蘇る。
“番の花だよ“
舌足らずな、幼い声。
“だから、これをやる“
少し大人になった、少年の声も。
差し出した手の平の上に、小さな花びらを一枚乗せてくれた。
あの花びらは今、どこにあるんだろう。
……思い出せない。
降って湧いた記憶に違和感なく寄り添う自分を、疑問にも感じず俯いた。
きゅう、と手の平を握り込んで、喪失感を仕舞い込む。
「……“番の花“……」
「そうそれ! 古い言葉ね。皇家伝来の知識だからかしら。簡単にいうと、将来を約束した相手ってことなんだけど」
何気なく思い出したことを口にしたら、美津里は大きく反応した。
「……貴女の場合は立場的にデリケートな問題だったわね。殿下も色々考えていらっしゃるだろうけど」
殿下、と聞いて心臓が小さく跳ねる。
色々考えてるって……、昨日言ってたみたいな?
“おれとは結婚して貰うことになる”
思い出すのを避けてきたのに、ばっちり思い出してしまった。
途端に頬に血が上り、顔が熱くなって振り払うように頭を振る。
「ん、赤い顔。殿下のこと気になる?」
こちらを覗き込んで軽く指摘してくるものだから、肩が勢いよく竦んだ。
(大人って!!)
デリカシーとか気遣いとか、そういう類をどこかに置いてきてしまう時があるわよね! と感じるのは間違いではない筈だ。
「あ、当たり? 殿下、素敵だものね。少なくともお姿は。同年代の女の子達にはファンも多いみたいよ」
「……えぇ……?」
失礼ながら物凄く疑ってしまった。
「去年の成人の儀の時に一瞬だけお姿を披露されたらしいけど、凄く騒がれてたわよ。私は新婚旅行中でその騒ぎ自体を見てないけど」
さりげなく惚気て、キャハと少女のように笑う美津里につられて笑うが、多少白々しかったと思う。
「海夜はご親戚だし、近くにいるって意味ではその他大勢、有象無象よりはチャンスもあるんじゃない?」
疑いの方が強くて話を流してしまいそうになり、慌てて否定する。
「気になるの意味が違いますっ、わたしの状況、色々説明できるのはあの人だけなんです。美津里さんが言うような意味じゃなくて、……情報源というか……」
うまい表現がみつからなくて、考えていることかそのまま口に出た。
酷い表現かも。でも訂正はしない。
「……そういうことにしとくわね。中々な表現で素敵よ」
含み笑いで頷かれて何となく入念に訂正したかったが、その前に美津里は立ち上がった。
「貴女の体調次第で、明日皇都に発つそうよ。その前にうちの夫が診察に来るからよく休んで。私は殿下へご報告と、厨房に行ってくるわ」
まだ少し笑いながら美津里は部屋を出て行ってしまう。
残りの焼き菓子を口に入れて飲みこむと、少し空腹の胃の痛みは治まった。
発熱で汗をかいた分身体はスッキリと軽い。
けれど心は夢の名残りと自身にまつわる奇妙な情報のせいで重いまま、ため息を飲み込むしかなかった。
お読みいただきありがとうございます♪
ブックマーク等大変嬉しいです。
ありがとうございます。