第四話 花の奥津城
一週間間違えての更新となります。
ごめんなさい。
そして全話通じて最長の長さの一万文字超えです。
ごめんなさい。
次話で二.五章完結予定です。
振り向くと海夜の婚約者がこちらに向かって歩いてくる所だった。
その姿がここを出る前と少し違う気がすると思った時、鉄錆の臭いが鼻をつく。
何か違うと思ったのは、纏う空気がおかしい気がするからだ。スイーツカフェに居るのだから甘い香りを引き連れて来るならまだしも、奇妙に歪んだ空気が伝わってくる。
海夜の侍衛官に呼び出されてさほど経っていないのに、一体何が起きたのか。
すぐ傍らにぴたりと隙なく立った彼を見上げて眉が寄る。
「薔珠たちは?」
「解散させて先に戻した」
「……何かあったの? 雰囲気が変だわ」
確認するように質問すると、彼は答えもなく片眉を上げた。そのまま円卓の右隣の席に座り、少々面白そうにしながら視線を寄越す。
「目がいいのは天降の遺伝か?」
「今父は関係ないわ。怪我もしてるでしょう?」
飄々としたままの武尊の手を取り確認すると、右手の平からの出血が窺える。それを見て三影が嫌そうに眉間を寄せた。
「何してきたのさ。怪我するなんて珍しい」
ドレスのポケットからハンカチを取り出して出血を拭うと、思ったよりも深い切り傷があった。痛々しくて悲しくなる。
武尊が怪我を負うなんて、余程の事があったのだろう。だから侍衛官たちは休日だとわかっていても彼を呼んだのだ。
ほんの短い時間で解決できたのは、恐らく彼がそれだけ有能だからなのだろう。
「大変! すぐに救急箱をお持ちします。お待ち下さいませ」
三人のやり取りを見て、武尊の分のお茶の準備を始めていた黎眞が驚いたように声を上げた。
慌てて身を翻そうとする彼女を三影が軽く制する。
「大丈夫。普通の薬の効果ない人だから」
「はい? ですが……」
「えぇとね」
言いにくそうに三影は人差し指を唇に当て、少しだけ声をひそめた。
「この人、俺の兄」
わかるでしょ? という三影の言葉に黎眞はぱちりと瞬き、大きく息を吸い込んだ。
「……だ、第一……っ」と言いかけて慌てて両手で口を押さえ周囲を気にするように忙しなく見渡して、真っ赤な顔でエプロンを握りしめる。
その視線が海夜を捉えて瞳を覗き込んで、何かを悟るようにもう一度息を飲んだ。
驚かせたのが気の毒で、とりあえず微笑むと更に彼女は手の甲まで赤くなった。
「し、失礼致しました……っ」
焦ったように頭を下げる黎眞を一瞥する武尊は、彼女の髪色も目に入っただろうが無反応だった。
ハンカチで応急処置として傷口を縛り、息をつく。
「どうして怪我したの? みんな心配するわ。帰ったら天地さんに治療して貰わなきゃ」
「かすり傷にそこまでする必要はない」
「それを判断するのはお医者さまよ」
「確かにそうだね」
面倒そうな武尊に厳しく突っ込むと、三影も簡単に同意した。
手に巻きつけられたハンカチに目を落とし、彼は小さく息をついて微かに笑う。
「大げさだな。……まぁ礼を言う」
「利き手じゃなくて良かったけど、何があっての怪我?」
三影が再び同じ質問をすると、武尊は足を組んで何でもない事のように窓の外を示した。
「魔獣が発生した」
「………え?」
聞き返す三影の声と、ティーポットがカップに当たるカチャンという危うい音が重なった。
お茶を注ぐ黎眞の手が動揺で滑ったようだ。信じられないというように見開かれた榛色の瞳が武尊に向く。
「……それマジ? この時期の花月地区で?」
「すぐに掃討部隊が来る。小型の割に瘴気は相当だった。聖騎士団の浄化部隊も召喚してある」
「ぅえ。アイツらうるさいんだよ。軍と協力したがらないし」
「見ている方向性が違うからな」
驚いたように質問を重ねる三影に淡々と返して、武尊は静かな目を海夜に向けた。
魔獣の話は祖母から聞いたが、皇都で滅多に見られるものではないとも聞かされてきた。
貴種にはそれ程影響ないが亜種への被害は毎年大きく、軍と神殿にそれぞれ専門部隊を置いて備えなければならない程深刻な問題で国の予算もしっかりと割かれる為、しばしば軍と神殿の凌ぎ合いになるらしい。
命令系統の異なる似た役割の部隊が、それぞれの派閥に存在するからだと祖母は苦笑していた。
仲の良い皇家の兄弟がそれぞれの派閥の重要ポストに配置された事には、それなりの理由があるのだ。聞くと見るでは実感が違う。
(百聞は一見に如かず……)
お茶をひと口飲んでとりあえず武尊の視線を受け止める。
この怪我はその為に負ったものだと目で弁明されたようで、もうこれ以上詰問するのは馬鹿みたいだ。
でも。
「やっぱり怪我はしないで」
事情を知っても譲れない事はある。
「なるべく善処する」
仕方なさそうに笑われて、内心口を尖らせた。
婚約者の身を心配するのは当然なのに、心配性だと思われたようだ。
「この近くなんだよね? 浄化範囲によってはお客の退避も考えた方がいいのかな」
顔色が優れない黎眞を気にしながらの三影の質問に海夜は首を傾げた。
「魔獣は知っているけど、浄化って何の事? 何かするの?」
魔獣の話は聞き知っていても、具体的な対策を学んだ事はない。素直に質問すると、兄弟二人は納得するようにこちらを見た。
「魔獣は他の生物に悪影響を及ぼす毒気を身に纏っている。“瘴気”と呼ばれるが、生来それに耐性ある者たちが貴光石の専用具を使用して瘴気を取り除く。それを一般に“浄化”と呼ぶんだ。空気の浄化作用を人工的に行うという意味だが、仰々しい名称で呼べば神殿の権威が高まるという下心もある」
「うん、その通りなんだけど言い方。古代には魔獣の駆除と浄化は区別されるものじゃなく同時に行われてて、後世浄化のみが神殿側に託される業務になったんだ。でもその名残で浄化部隊も聖騎士って呼ばれてる。駆除を請け負う軍から見たら鼻で笑っちゃうだろうね」
「騎士の名を返上しろとまでは言わない。伝統とやらだろう」
「伝統大事」
擁護するような批判するような二人の不思議な会話に呆れながら、浄化の意味を理解して頷く。
魔獣の瘴気が街中に残ればそれは確かに大変だ。お店の営業どころか、人が歩く事さえままならなくなる。
三影が気にした事が漸く理解できて、黎眞が不安げな理由にも思い至った。
瘴気によって客足が鈍るのは、大店の後継者の黎眞は困るだろう。
「お店に影響あるの?」
黎眞の顔色を気にして問い直すと、武尊は微かに首を傾げた。
「魔獣は地下道に逃げた。発生した裏通り一帯は浄化の為に封鎖が必要だが、建物内部への影響はほぼない」
「瘴気って武尊が連れてきた変な空気の事でしょう? 今は消えたけど、歪んだ変な空気。ここにそういうの感じないわ」
「そうだ。だから眼を使う必要はない」
ん。
眼を使う?
武尊の指摘に三影と黎眞を見れば、三影は若干困って目を覆うように示すジェスチャーをし、黎眞は物凄い勢いで目を瞬いている。
二人とも海夜の瞳に注目しているようだ。
「何かおかしい?」
「虹彩が微かに光っている」
虹彩? 目の?
武尊の簡潔な返答に困惑して手元の紅茶に目を落とせば、紅茶の中に奇妙な景色が見える。
恐らく精霊。
でも現れたり消えたり、変な行動を繰り返している。その内それがぐうん、と伸び上がりカップから海夜の顔を覗き込むように現れた時、初めて気づいた。
これは茶葉を作っている人たちの感情だ。美味しくなあれ、美味しくなあれと、呪文をかけるような言葉が耳に届いて、覗き込む存在の目に花が浮かぶ。
それを見てああ、と思った。
「あなた付喪神ね」
話しかければ満面の笑みを浮かべて、光が散るように消える。
ぱらぱらと降る花びらに、魔法でも見せられた心地だ。清々しい気分に海夜も笑みが浮かぶ。
「物じゃなくて感情に憑いた付喪神なんて初めて見たわ。こっちは色々違うのね」
「付喪神を目視する事もそうだが、精霊か付喪神かを判別する眼が異例という自覚はないのか」
髪に落ちた花びらを取ってくれながら、頬杖をついて呆れたようにこちらの顔を覗き込み、武尊は息をついた。
「落ち着いたな。まったく。油断も隙もない」
失礼な。
ただ見ただけなのに。
「精霊事にならなかっただけ進歩してるよ。でも付喪神も興味津々か。こっちが本来存在するべき場所だから、ねえさんの能力が活性化するのもわかるけど」
難しい顔をしてお茶を口に運ぶ三影の横で、まだ瞬きを繰り返している黎眞と目が合った。
魔獣の話で不安になっている筈なのに、きちんと自身の仕事をこなしている姿は好感が湧く。
「黎眞さんがそうやって健気なお姿だから、お店の為に働く方みんな、一生懸命支えてらっしゃるのね」
「はい?」
海夜の言葉に黎眞は大きく首を傾げた。
手にしたカップを示すように両手で持ち上げて笑いかける。
「このお茶、花の咲く木の物なのね。花を咲かせてから葉を摘むの? だから香りが華やかなんだわ。美味しくなあれ、って育てている方と茶摘みの方たちの声が聞こえたの。花が咲いたら必ず黎眞さんが様子を見にくるから、その時が楽しみな気持ちも」
周囲に降った花びらを見て、きっとこれがその花だろうと思う。
「人に愛されるって、凄いわ。ご本人の努力が素晴らしいから、人の目を引くのだと思うの。魔獣の件は風評被害も気になるだろうけれど、きっと黎眞さんに会いに、すぐに人も戻るわ。三影くんに聞いていた通りね。可愛い看板娘さんって」
付喪神を通じてあんな感情が伝わる程、彼女は関連の従業員たちから慕われている。人を率いる立場として、それは大きな強みだろう。
海夜も見習いたいと素直に思った事を口にしたら、黎眞は高熱でもあるのかと思う程顔を紅潮させた。首も手も林檎のように真っ赤になって、口をぱくぱく動かし声も出ない様子だ。
隣の三影もカップを口につけたまま、ちょっと赤くなって震えている。
「………言葉は頭を通過させて口にしろと言った筈だが」
「可愛いと思ったの」
「会話をしろ」
呆れた目を向けた武尊と目が合い憮然と言われるが、義弟の恋路を応援してもいいじゃない、と内心で文句を言うと、深くため息をつかれた。
三回呼吸し直してほしい。
「……ねえさんの事、わかってても油断してると直撃喰らうね」
げほ、とちょっと咳き込みながらカップを置いた三影は、まだ動揺するようにソワソワと落ち着かない。
「兄貴の気持ちがわかった」
「煩い」
食い気味に三影の言葉を切り捨てて、武尊はちら、と周囲に目を遣った。
そういえば背後がざわざわと騒がしいし、隣りの席のお客たちもチラチラとこちらを窺っている。
海夜の身に起こった出来事に戸惑い、何事かを察する声と視線を感じる。
「……騒がしいね」
苦笑気味にそれらに目を遣って、三影はまたお茶に口をつけた。
慌てて我に返った黎眞がそれに頭を下げる。
「申し訳ありません、配慮が行き届かず。すぐに個室をご用意致します」
「ん? いいよ、そこまでしなくて。何も言わなかったのはこっちだし」
確かに、騒がせたのはこちらなのだからお店側が謝る事じゃない。海夜はこの席で全く気にならない。
だが護衛のつもりで来ている、隣りの眼帯男が気がかりだった。
置かれた紅茶に手をつける事もせず、無表情に座っている姿は人形のようで、こわいと感じる人もいるだろう。
けれどこの状況に口を挟む事なく、海夜がスイーツを楽しむ姿を眺めているから、とりあえずこのまま過ごす事に意義はないようだ。
「あのね、このケーキとっても美味しいの。虎さんや侍衛官のみんなにお土産にしようと思って」
「虎にまで必要か?」
「普段の慰安を込めて」
「含みがあるな?」
武尊の側近の虎・磋須木は常に彼を支える忠臣だ。幼い頃から武尊の傍に居るおかげで、彼の虎への扱いは遠慮がない。
虎から不満を聞いた事はないが、労わってあげなければと思う程度には、彼は虎を酷使している。
自覚しているらしい武尊は口端を上げて嫌味のように笑うので、じゃあ、とフォークでひと口分を彼の方に差し出した。
「はい、味見。甘くなくて食べやすいと思うわ」
差し出されたケーキを見て片眉を上げる武尊に、まだ席の事で話し合っていた三影と黎眞がピタリと動きを止めた。
何の抵抗もなく当然のように海夜の手からそれを口に入れた武尊は、途端に嫌そうに眉間を寄せる。
「甘い」
「えぇっ? わたしが前に作った梅のゼリーより甘くないのに」
「あれは違うだろう」
「何が違うの?」
「全てが」
武尊の予想外の反応に驚くと、更に謎な答えが返る。
「…………ここまで見せられて割って入るような図々しい奴、ここのお客には居ないだろうからやっぱり席の移動はいいよ。それよりお土産用のメニュー表、見せてくれる?」
「………かしこまりました」
含み笑う三影の言葉に、黎眞も納得するように頷いて、ワゴンの下段からメニュー表を取り差し出してくれるのだった。
沢山お土産のスイーツを選んで、黎眞とスイーツの話もして満足してお店を出た頃には、爽やかな午後の風が頬を撫でていく時間になっていた。
ここからは別行動と言っていた通り三影とはスイーツ店で別れ、武尊が案内してくれたのは小高い丘の見晴し台だった。
大河の支流が作り出した階段状の地形を利用した自然公園で、平坦な段丘面上には優美な意匠の柵が張られ皇都の景色を望める。
深い春の花色に染まった皇都の景色は、高い場所から望むとより一層美しさが際立った。
「きれい」
足元の急崖の斜面にも花の木が咲き、皇族の家名にもある通り花の好きな国なんだと思った。そういえば、海夜自身も大学進学したら何となく植物の勉強をしようと考えていた事を思い出し、遺伝の不思議を実感する。
そんな些細な発見も楽しい。
「楽しそうだな」
「楽しいもの」
楽しい時間に鼻歌が浮かんで、ドレスの裾をひらめかせて踊るような足取りになる。
散歩を楽しむ人や丘からの景色を眺めながらピクニックを楽しむ親子もいる、長閑な時間が心地良い。
「武尊はここによく来るの?」
「祖父の屋敷にいた頃はな。虎の目をくぐり抜けて一人で外に出る事はよくあった」
虎さんの苦労が目に見えるよう。
「お祖父さまって、どんな方だったの?」
「普段は物静かだが、叱る時だけ口喧しいじじいだ」
口振りに親密さが滲み出ていて、皇宮に入るまでどれ程彼が祖父から大事にされてきたのかを窺わせた。父親である國皇よりよほど触れ合う時間も多かったのだろう。
「昨日も会ってきたが、……ああ、そういえば渡して欲しいと頼まれた物があったな」
ん? 昨日会った?
片掛マントの懐を探って何かを取り出す彼を眺めながら、言葉の内容に内心首を傾げる。
つい最近祖父に会ったという事だろうか。という事は、まだ元気だという事だ。
そこまで考えて、自分の祖父母の境遇と同じように考えていた事を悟り、居た堪れなくなる。ちょっと変な汗も出ている気がする。
「? どうした」
「いえ、あの。………ご健勝なのね、と思って」
失礼でごめんなさい、と消えるような声で付け加えて体を縮める。顔が熱い。
焦っているのを全身で表してしまって、武尊の悟った沈黙が更に居た堪れなさを刺激する。
そしてその沈黙の後。
「っふ……っ、黙っていればバレないものを……」
堪えきれずに吹き出した彼は、珍しく心底おかしかったらしく目元を押さえて肩を震わせている。
失礼なのは勿論海夜だ。でもこの反応もこれはこれで失礼。
「………笑いすぎよぅ……」
「……おまえが予想外すぎるんだ」
だってみんな武尊と三影の祖父の事は過去形で話す事が多かったから、てっきりもう故人なのだと思い込んでいた。ご健在ならそう言っておいてくれればいいのに。
口の中で言い訳じみた事を呟く海夜に、まだ少し喉の奥に笑いを残したまま、武尊は持っていた小さな箱を海夜の手に置いた。
「……これ何?」
「祖父からおまえに渡すよう頼まれた」
ベルベットの小さな四角い箱。
想像できる物といえば、海夜には一つしかない。
瞬きながらその箱を開けてみる。
「…………指輪…………」
プラチナの石座に大きな長方形のカットダイヤがセットされた指輪だ。周囲をピンクのメレダイヤが囲み、可愛らしい色合いは若い女性向けに作られた物だとわかるが、デザインとしては随分クラシカルな気がする。腰も肩もしっかりとした装飾があり、一目で上等な物だとわかる。
ある意味想像通りの中身だったけれど、これを武尊の祖父から渡される理由がわからない。
首を傾げて彼を見上げると、いつもの無表情に戻っていた彼は感慨もなさそうに答えをくれた。
「祖父が夜花に渡す筈だった物だそうだ」
「祖母に? どうして?」
「祖父は夜花の婚約者だった」
軽ーく簡単に言い放たれた言葉にすぐに反応できない。
反応できないどころか、様々な事が頭に浮かんで思考がぐるぐるマーブル状に混ざる。
何も思い浮かばず、口を開けたままびっくりまなこで固まった海夜に、武尊はひとつ息をついた。
「やはり知らなかったか」
初耳です。
声に出せず、こっくりと深く頷く。
海夜の祖父母は大恋愛の末に結婚したと聞いた。滅多に喧嘩もしないご近所でも評判のおしどり夫婦で、特に祖母が祖父にベタ惚れなのは孫から見てもよくわかった。
そんな祖母の結婚前の事情なんて考えた事もない。
だから海夜には衝撃以外の何者でもなかった。
「まあ政略だったと聞いているから、夜花も特に話す事もなかったんだろうが」
「……政略? 本人たちの意思じゃなく?」
「基本的に王侯貴族は未だに政略結婚で縁を結ぶ国が多い。本人の意志に任せているだけでは、一生独身でいる事を許す事にもなるからな。それでは血統が絶えるだろう。祖父たちの婚約もそういうものの一つだった」
そうなんだ……。
「ずっと祖母の日記読んでたのに、婚約者の方の記録は一切なかったから……」
「あれは子孫が読む事を前提に書かれた公式の記録だ。私事を書く事はないだろうな」
「……日本での祖母の日記、何冊か持ってきたけれど、……読んでみるわ」
祖母の遺書に“日記は全て海夜に”と記されて海夜の手元に遺された私的な日記。
日本での祖母を思い出して辛くて、祖母を看取ってからこちら一冊も開いた事はない。
黄國に永住すると決めて何冊か持ち込んだのは、祖母が日本に亡命したばかりの頃の記録は、国に残しておいた方がいいと思ったからだ。
若かった祖母の心情が記されている日記。
そこにはきっと、故郷に残してきた人々への想いも綴られている。
「じゃあこれって、婚約指輪なのね」
ベルベットの箱の中を改めて見て確信する。
大粒のダイヤモンドはそれ以外に思い浮かばない。
「そうなんだろうな」
興味なさそうに頷く武尊に、これを孫である海夜に渡す彼の祖父の考えを聞いてみたい気もした。
だって、もうお互いに結婚をし、子どもも孫もいる世代だ。祖母のお墓に入れるには、一緒に眠っている祖父に悪い気もする。
悩ましい、と難しい顔で考え込んだ時、ふいに左手を取られた。
すい、と軽い仕草で薬指に嵌ったものに目が釘付けになる。
………………えぇと。
……。
…………えぇ……?
「………ゆびわ………」
先程と同じようにぽかんとなるのに、今度は別の場所がびっくりしている。
即ち、心臓が躍り出しそうな程驚いている。
箱の中の指輪とは別の指輪。
きらりと春の陽に輝く大粒のそれは、きっとダイヤモンド。腰も肩もない現代風のデザインは脇石もメレも一切なく潔い程シンプルで、だからこそ極上品だとわかる。
中石がシンプルな分、石座から続く腕の部分は手の込んだ装飾が施されていた。壮麗な透かし細工と彫刻は、武尊の持つ剣のはばきの彫刻と似た雰囲気で、それを意識してデザインされたのだとわかる。
それも、その部分の装飾を知る者でなければ気づけないだろう。だからこれは、海夜の為だけに作られた物なのだ。
声も出せずに魅入っている海夜に、苦笑する声が落ちる。
「気に入らないか」
その言葉に反射で強く首を振る。
気に入らないわけがない。
そんなわけないじゃない。
「……びっくりして……。婚約指輪の習慣が黄國にあるのも知らなかったから」
武尊がそういう習慣を気にかける性格でない事もあいまって、尚驚いていたのだ。
婚約指輪を貰った、という事がじわじわと現実感を伴って心を侵食し高揚させる。
「嬉しい。本当に嬉しい。ありがとう。どうしよう、踊っちゃいそう」
「踊るな」
指輪を手の中に握り込んで見上げた武尊は、呆れたような、けれどちょっとだけ安心したようなそんな不思議な表情をしていた。
くすぐったい気持ちになり、居てもたってもいられなくなってとりあえず確認してみる。
「じゃあ、ぎゅうってしていい?」
「“ぎゅう”?」
「うん、ぎゅう」
海夜の不思議な語彙に首を傾げながらも、武尊は頷いてくれた。よくわからないが断る理由はないと思ったらしい。
なので、遠慮なく。
両手を伸ばして武尊の背に手を回す。
ぎゅう、と感謝を込めて彼を抱きしめる。
一瞬だけ海夜のその行動に固まった彼は、諦めたような深いため息をついた。
つい先日まで人に触れなくて困っていた海夜だが、回復してこうしてくっつくと彼は若干困惑した態度を見せる。
他人に触られる事に不慣れなのはむしろ武尊の方なんじゃないかと思うから、確認してから触るようにしているけれど、それでも困らせているようだ。
でも振り払う気配はないから、受け入れてくれているんだと安心する。
ふわりと大きな腕の中に柔らかく収められて広い胸に頬をくっつけると、懐かしい森林の香りに包まれて居心地がいい。
帰ってきたと思うような懐かしさがある。
帰ってきていいと許された気持ちになる。
だから、今ならいいんじゃないかと思った。
海夜がこの国で生きて行く為に、還る事を自分に許す為にも、ずっと気に掛かっている事を口に出しても。
「……武尊、あのね……行きたい所があるの」
海夜は海夜の罪と、正面からちゃんと向き合わなければならない。
※
花の奥津城。
そう呼ばれているのだと聞いた通り、そこは季節それぞれの花が咲き乱れる。美しく整備され絶えず人が訪れる場所だった。
植えられた花々だけでなく、それぞれに手向けられた花束たちの芳香も風に乗り流れて行く。
真新しい石碑の前に立ち、刻まれた名前を見て涙する事を許せる程、海夜はまだ自分の罪と向き合えていない。
––––––––シャイマ・平群中佐。享年十九歳。
若すぎる彼女の訃報にどれだけ沢山の人が衝撃を受け、悲しんだだろう。
シャイマは薔珠の相方として海夜の侍衛官についた、この国での最初の友人の一人だった。そして、海夜の業に巻き込まれ命を落とした、最初の一人でもあった。
きっとまだ他にも、海夜の業によって傷つく人々は現れる。海夜の大事な人ほどそこに巻き込まれるだろう。
それでも海夜は、自分の我儘を通した。
だから、この罪とは一生向き合っていかなければならない。
自分を許す事を決してせず、巻き込んだ人々を決して忘れずに生きていく。
そう決めたから。
(………シャイマ、久しぶりね)
美しく磨かれた、小さな墓碑だった。
そこは任務中に殉職した軍人墓地の一角で、大貴族の令嬢であるシャイマには見合わない待遇のように見えた。
けれどそれはシャイマの遺言通りに実行された結果なのだと、ここに来るまでに武尊から説明を受けた。
任務に着く軍人は全員、任務前に上官に遺書を預ける。
シャイマも例に漏れず上官である武尊に遺書を預けて海夜の侍衛官に就き、そのまま帰らぬ人となった。
そうして武尊は、一族の墓所ではなく仲間と共に眠りたいという彼女の遺書にあった通り、平群家の代々の墓所にシャイマを葬る事はせず、軍人としての栄誉を讃えたのだ。
「……あの髪が気に障ったか」
花束を手向けて立ち上がった海夜の背後で、武尊がポツリと呟いた。
確認するような問いかけに、すぐに何の事か気づいて苦笑する。
「違うわ。確かに黎眞さんの髪色は驚いたけど、ここに来たいと思った事とは関係ないの……ううん、きっかけにはなったかも。ずっと何をしていても、頭の片隅から離れる事はないから」
「………おまえが気に病む必要はない」
無感情で平坦な声だった。
けれど、何も感じていない筈ない。
シャイマが海夜の侍衛官になったのは、武尊の指示だったのだから。
きっと、海夜よりずっと責任を感じ、後悔を飲み込んでいる。
「……一緒に覚えておきたいの」
「……………」
肩越しに振り向いて少し笑いかけると、長い沈黙の後、そうか、と小さく呟く声が印象的だった。
何もかもを飲み込むには、まだ傷は新しすぎて直視する事自体にも傷ついてしまう。
でもこうして墓所を訪れる事もできたように、時間と共に傷にも慣れて行くのだろう。
その時間の全て、海夜は彼と一緒に居ると決めている。
最後まで、全てを共に。
気を取り直して振り返り、武尊に笑いかける。
「黎眞さんの髪色、シャイマとそっくり同じだったから驚いたわ。平群のお家とは関係なさそうなのに」
「先祖がえりだろうが珍しくはある。あの髪色は貴種の色だ。祖母の花梨があの色だったそうだが、子孫の亜種に出るなら白が最も多い。綺羅がそうだ」
そういえば、武尊と三影の異母妹の綺羅は、可愛いミルク色の髪をしている。父親が黄花・サディルの貴種だから不思議ではないけれど。
「基本的に亜種に貴種の髪色が引き継がれる事は殆どない。平群は皇家と一番近しい家門だった為に、三、四代に一人はあの髪色が亜種にも出たそうだが」
美しく波打つ桜色の髪を思い出して、その色に映える空色の瞳も思い出す。
切れ長で冷静なのに、すぐに人に同情して揺れていた。
「黎眞さんも普段は髪を染めて隠しているって言っていたわ」
「貴族家門ならまだしも、何の力もない亜種の平民ではそうなるだろうな」
「……貴種に間違われるから?」
「貴種の女に力がないのは悲劇だ」
軽く頷く武尊に、ひぇ、と肩がすくむ。
……力って権力の事?
自分の立場で考えるが、皇族で良かったのかはまだわからない。
「でもわたしは、亜種の人たちと見た目変わらないから平気ね」
「………どこが」
呆れるように武尊は腕を組む。
ここでは海夜の瞳は貴種本来の色に変化するが、他は日本にいる時と変わらない。
……最近髪色が更に薄い色に変化している気がするけれど。きっと目の錯覚。
「おまえは黄花・サディルの貴種としての特徴を全て外見に持つ。亜種と同じなわけがない」
そう言われても。
決定的な亜種との違いって何があるのだろう。
よくわからなくてそれを質問しようとした時、何かを言い争うような声が耳に届いた。
花の咲き乱れる歩道の向こう。
花咲く木立ちに見え隠れして、複数の男性の声が激しく響いている。
「……喧嘩?」
武尊も声の方を注視しているが、特に動こうとする気配はない。
墓地での喧嘩なんて余程の事だ。しかもここは軍人墓地。
軍の責任者でもある武尊にしてみれば、おいそれと首を突っ込んでいい場面でもないのだろう。
そう思い、とりあえず様子を窺ってみようとそちらを見て驚いた。
そこにはつい先日、海夜の侍衛官に着任したばかりの軍人である、響紀・誉古継中尉の姿があった。
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