第二十六話 ベルセルクル
時間軸が前後してすみません。
グリーンアンバーの回からずっと、同日に起こったことを凝縮して書いています。
エントランスホールの両階段を跳ぶように駆け降り、扉を蹴破る勢いで主人が開け放った応接室内では、既に事件が起こっていた。
『おいっ!! 滝本っっ!!』
留めようと背中から羽交い締めにする皇女の兄の手を振り払い、彼の腰にあった筈の大型ナイフを手に、来訪者の青年が一心不乱に走り出す所を虎は目撃する。
それに追いすがり、もう一度片腕を掴んだ皇女の兄は、その腕を握り潰すように力を込めている。だがそれすら省みず、……もっといえば、自らの身などどうでも良さそうに、肩が抜ける勢いで青年はその手も払い退けた。
『……っ、海夜っっ!!!』
自らも青年を追う為に走り出しながら、皇女の兄が声を張り上げる。
行く手を阻むように立ち塞がる近衛隊員の身体も突き飛ばし、何かに操られるように青年が目指すのは、テラスにいる皇女だ。
「…………っ!」
この距離では間に合わない。
虎が悟るより早く動いたのは主人だった。
大きく舌打ちし、タイル張りの床を勢いよく左手で打つ。その指の先を追うように床の中を走り抜けた何かが、低く轟音を立てた。
「防げ!」
一言命じた主人の声に応えるように、タイルごと床がせり上がり、唸りを上げて土の壁が猛スピードで走っていく。
命じたと同時に走り出した主人を追い、虎もテラスの皇女へ向けて声を張り上げた。
「姫君っ!!」
受肉精霊と話し込んでいた皇女は、こちらの様子にようやく気づいたようだ。ただならぬ空気に大きく瞬き、声も上げられずに目の前に迫る来訪者の青年を見上げている。
「飛ばせ!」
走りながら主人は短く、更に命を重ねた。
その言葉に反応し、皇女の前に立ち塞がる青年の手の中の大型ナイフが、宙に吊られるように浮き上がる。それを力ずくで青年が抑え込んだ為、ナイフの半身が弾けるように折れ、後方に飛んで行った。
小さな金物が床に落ちる音が響き、主人が叫ぶ。
「海夜っ、伏せろっ!!」
直後の耳障りな轟音は、土煙を辺りに撒き散らし、春の美しい宵の空に残響を震わせた。
※
“狂戦士”。
その昔、効能を知った来訪者がそう名付けたと聞くその薬物は、飛躍的な身体機能の向上と精神的高揚、精神神経系の麻痺障害などを誘発し、恐怖心を克服した何者をも恐れぬ無敵の戦士を作り出す。
定められたキーワードを元に高い催眠暗示状態に入り、戦場では一騎当千の働きをするという。
それは古代、戦時下の兵士の為に開発された毒に近い薬物であり、解毒の方法は現代には伝わらない、秘薬中の秘薬だった。
軍に在籍する薬学研究者である、ギジィ所長からの緊急の謁見報告は二件。
双方ともに、盗難に遭った古代の秘薬に関する報告だった。
一つは秘薬自体の発見報告。
そして、それに付随する別の薬物の関連報告だった。
「––––––––––––別の、とはなんだ」
閲覧厳禁の判の押された、古く黴臭い報告書に目を落とし、主人はモニターの中のギジィ所長に平坦に質問する。
分厚い報告書は何百年も前にまとめられた物だ。所々インクの掠れはあるが、秘薬に関する危険性を伝える媒体としては、未だ十分な役割を果たしている。
しかし、年月の積み重ねでインクが消え、知識自体が風化する日も遠くはないだろう。それ程の時の経過が、この報告書の上にはある。
それでもこれに関して、デジタルアーカイブ化し万人が閲覧可能にすべきという意見が出ないのは、国民に伝えるべき人類の知識としては、あまりにも悲惨にすぎる歴史を持つ薬物だからだ。
《殿下のお手元の報告書の百三十五項十二行目ですが、“狂戦士”の効能が示されております。その効能を発露させる為には、対になる別の薬物が必要なのです。俗に“起爆剤”や“スイッチ”などと呼びますが》
言われた通りのページを開けば、確かに効果効能の詳細な記録が記載されている。
ギジィ所長の並外れた記憶力の良さが分かる発言だが、虎は若干引く。一体どんな脳の使い方をすれば、こんな複雑な内容を暗記できるのか。
しかし主人は淡々とそれを受け止め答えた。
「その記述には目を通した。スイッチとやらの存在は国内では確認されていないと。材料、製造方法その他も不明である為、ベルセルクル単体では無害であると判断されている。それ故に国内での保管が可能になった。––––––––スイッチが発見されたか」
所長の最初の報告内容を踏まえて主人が確認すれば、モニター内で彼は一つ頷いた。
手の平に収まるガラスの小瓶を取り出し、中身を揺らして見せる。
《ご明察です。こちらがそれらしき薬物ですが、スイッチに関しては不明瞭で不確かな言い伝えしかございません。そもそもベルセルクル自体も、報告書が上梓された時代から眉唾だという意見もあるぐらい正体不明の薬物です。対となる薬品がなければ効果効能を証明できない物など、後生大事に保管することに意味があるのかと。ですが証明できないことが却って、ベルセルクルの危険性への根拠となりうるのではないかと私は考えます》
「……危険にすぎる故に証明実験すらも危ぶんだ。先人がそう考えたと?」
《伝承を疑問視する前に、存在する現物が継承されてきた現実がある。そこに疑問を持つ理由はございません》
「同意する」
簡潔に答えて開いていた分厚い報告書を、主人は音を立てて閉じる。
真偽はどうあれ、実際に存在している物を疑うのは時間の無駄だと、二人が割り切った瞬間だった。
「では問う。それがスイッチであると推測する根拠はなんだ」
執務椅子に深く身を預け直し、足を組んだ主人は再び質問した。
《……三年程前、他国のリポジトリーでしたが、古代の薬学薬草学の図鑑がデジタルアーカイブ化され、我が国でも購入を進めました。古代の手描きの図鑑の上、外国語の古語ということで翻訳に手間取りましたが、昨年ようやく翻訳も終わり、我が国での公開も叶いました。その古図鑑の薬学項目の中に、“点火薬”という名の薬物製造方法があったのです》
ギジィ所長の遠回しな答えに、主人は深く息をついた。
「翻訳の違和感は、言語を異にする外国の書物にはある程度つきまとう。まして古語では尚更。だが名称一つでは、それをスイッチと特定することはできない」
《仰る通り。それのみでは推測の域を出ません。この小瓶は皇女殿下の兄君が先程お持ちになられた物です。強い芳香を放つ精油が納められており、兄君殿下よりこれを盛られた来訪者の青年に、強い媚薬のような効果が見られたとご報告を受けました。確かに報告内容を一見すれば、即効性のある催淫剤です。ですが成分を調べても、そのような効果のある物は抽出されません》
幾重にも巻かれていたらしい紙の封印は乱暴に剥ぎ取られ、中で揺れる液体は何の変哲もない無色の液体だ。
《所内で蓋を開けてもみましたが、誰一人報告内容に合致する効果が認められる者はおりませんでした》
「…………」
……媚薬かもしれない物をその場で開けて試す研究者魂は感心するが、所員を実験台にするのは如何なものだろうか。
虎は内心微妙な気持ちになりながら、主人の顔を見た。いつも通り無表情に淡々と報告を受ける横顔に、これといった変化はない。
だが、執務椅子の肘掛けに置かれた手は、筋が浮かぶ程強く肘掛けを掴んでいる。
これ程強い動揺を見せることなど殆どない主人が何に思い当たったのか、虎もすぐに気づいて同じく動揺する。
《古図鑑の“点火薬”とやらには、催淫成分のある薬草が数種類材料として使用されています。ですがそれらは目眩しでしょう。知識のある者ならば、その使用された材料同士が薬効を相殺する相性だとわかります。この精油からも古図鑑と同じ、それらの材料の成分が検出されました》
「………媚薬にみせかけた、媚薬ではない何かか。名称に先入観を促す意図も見える」
《注意深く精査する必要がありますが、おそらくこれはスイッチ……、それに準ずる物と呼べるかと》
肘掛けを掴んでいた主人の手が、強く握り込まれた。
断定は避けていても、緊急の謁見を申し込む筈だと納得いく内容に、虎も思わず息を飲む。
《先程申し上げた通り、スイッチは不明確な伝承が伝わるのみの薬物ですが、もしかしたらそれは、ベルセルクルを摂取した者へのスイッチとしての効果が一定ではないのかもしれないと、仮説を立てました。根拠は、この薬物から感じ取れる匂いが、所員それぞれに違っていたからです》
もう一度小瓶をゆらりと揺らしながら、ギジィ所長は慎重に言葉を選ぶ。
《強い芳香は皆同様に感じます。それが、ある者は苦く、ある者は酸味を、ある者は硫黄のような生臭さを感じると言うのです。好ましいと言った者は一人もおりませんでした。それがおそらく、ベルセルクルを摂取した者との大きな違いかと》
「和夜は甘ったるかったと、そう言っていたが」
《ベルセルクルは対貴種用に開発された薬物と伝わります。亜種の薬物は貴種の方には薬効がない物が多い。スイッチの材料の本来の芳香が甘いものならば、兄君殿下にはそのように感じられたのかもしれません。殿下や皇女殿下にご確認頂くのが早いですが》
「……対、貴種」
《ベルセルクルが脳の催眠暗示の下地作りをする役割があるのならば、スイッチは名の通り、リミッターを外すスイッチ。キーワードを紐付けする為の誘導剤でしょう。おそらく嗅覚から強い拘りのあるもの、強い欲求へと繋げる筈です。嗅覚は人間の五感の中でもとりわけ強く、直接脳の本能的な部分へと働きかける感覚ですから》
ギジィ所長が言い終わるや否や、主人は音を立てて勢いよく執務椅子から立ち上がった。
無表情の中の瞳だけが、焦燥のような色を宿して揺れる。
「––––––––––––ベルセルクルとそれが発見されたのは、同じ屋敷からだったな? 来訪者にベルセルクルが使用された可能性は」
《大いにあるかと。スイッチらしき物の薬効が、かの青年にのみ確認されております。同室に居た被疑者女性、及び護衛の人間達にはなかった反応だと兄君殿下より報告を受けております》
全てを聞き終えることなく、主人は執務室を飛び出していた。
モニター内でギジィ所長が戸惑いの声を上げている。
「緊急事態です、申し訳ない!」と謝罪して通話を切り、虎も急いで開け放たれたままの扉から主人を追いかけることしかできなかった。
※
たぶんこれは罰なんだわと思った。
いつもいつも海夜は考えが足りなくて、何かが起こってから後悔している。
誰かの血なんて見たくない。
そう思っているのに。
早春の夕暮れは早く、冷たく澄んだ空気と藍を抱く天頂からの、紫だちたる残照は橙色で山の端へと終着し、えも言われぬ色相の層を作る。
神が作りたもうた、と形容できる神秘的な空に散った雫を、赤い花びらみたいだと、スローモーションのような時間感覚で捉えて、海夜はその場に立ち尽くしていた。
目の前には半分刃の折れた、大きなナイフが迫っている。
その視界を何かに塞がれ、次の瞬間に響いた地響きのような大きな音に、時間が一瞬で追いつく。恐怖に身体が竦んで強く目を瞑った。足元の石畳がまだ地鳴りのような残響に震えている。
おそるおそる目を開くと、誰かに抱え込まれていると気づいた。
森林を思わせる、深い緑の香り。抱きすくめられると、故郷の自然の中にいるようで落ち着く。
つい胸いっぱいにその懐かしい香りを吸い込んで浸ってしまって、ぱたっ、と軽いものが落ちる音に正気づく。慌てて顔を上げて、抱き竦めている人物の顔を覗き込んだ。
「っ、……ほたるっ!!」
顳顬から細く赤い筋を一本流し、肩を上下させて抱きすくめていたのは、紛れもなく自分の婚約者。
いつの間にこんな怪我を、と青ざめて、慌てて美しい黒髪の掛かる顳顬に手を伸ばせば、その手を取られて「無事か」と安堵したように声を落とされる。
「……無事じゃないのは武尊でしょ……っ、薔珠っ」
もうもうと上がる土煙の向こうで、武尊と背中合わせで立つ薔珠の赤い髪が見える。自身の脇腹を押さえる薔珠の指の隙間から赤い筋が滴って、真新しい黄土色の制服を濡らしていた。
「……っ姫君、お怪我は……っ」
「ないわっ! 二人とも早く手当てを……っ」
鮮やかな赤い色にすっかり動転して高く声をあげれば、かすり傷だと二人同時に答えが返り、武尊の腕から解放される。
土煙が収まってきて、よくよく周囲を見渡せば、ぞっとするような光景が見えてきた。
応接室内から長城のように走り伸びた土の壁が、自分達の前に立ちはだかっている。明らかに、精霊の技だ。
「……これ、武尊が……?」
「余裕がなくておまえまで巻き込む所だった。怪我がなくて良かった」
土壁の所々からは針のように尖った鉱物が飛び出し、凶悪な鈍い輝きを放つ。
そっと指先でその尖端をつつくと、かなり痛い。すぐそばに居たら、身体中蜂の巣にされていただろう。
心底安堵したように息をつく武尊がその土壁を軽く叩くと、何かが解けるような空気の弾けとともに、バサっと音を立てて壁が崩れた。
残るのは、モグラが這った後のような盛り上がった土の道だ。
「殿下、あちらに」
脇腹を押さえながら薔珠が示す場所に、複数の人影が見える。
急いで駆け寄ると、兄と近衛隊の眞爾大尉、それに虎の三人掛かりで床に引き倒し、押さえつけられている滝本の姿が見えた。身体中から血を流し、ぐったりと意識なく横たわっている。
その光景に、海夜は息を飲んだ。
四人のすぐ傍らには真っ青な顔をして、今にも倒れそうな三本木の姿がある。
「海夜、無事か。良かったー、もう三年前みたいの勘弁な。で、こいつは何なん? やっとこさ意識飛ばしてくれたけど」
兄が暢気な口調で、まだ警戒しながら滝本から手を離して武尊に問いかけた。
「……厄介な薬を盛られているようだ。暫くは軍の監視下に置く」
(薬?)
真っ白い顔をして横たわる滝本の顔と、不穏な単語に不安が募る。
薬のせいであんな風に襲いかかって来たのだとしても、直前までいつも通りの滝本の笑顔があっただけに、心がひどく痛んだ。
どうして、と考えてしまう。
どうして海夜に関わる人々は、こうして傷ついてしまうのだろう。滝本も、薔珠も、武尊も。海夜がここに存在すれば、その分だけ傷つく人々も増える。
以前考えたことが現実になりつつある気がして、振り払うように軽く頭を振る。落ち着きたくて、いつしか膝元にある青い毛並みを探すことに慣れてしまっていた手が、ぱたりと落ちた。
薄金が光を流す青い被毛が、海夜の視線の先で赤い水たまりの中に倒れ込んでいる姿を、見つけてしまった。
お読みいただきありがとうございます♪
ブックマーク等大変嬉しいです。
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