第十九話 正妃と側室(挿絵あり)
(…………やっちゃった………)
覗き込んだ湖面に映る自分の顔は、情けなかった。
湖の館の庭園の奥には、船遊び用の小さな船着場がある。背の高い木立に囲まれたそこはちょっとした隠れ場所にちょうど良くて、執務室から逃げ出した後、海夜は真っ直ぐここに逃げ込んだ。
今はまだ日陰に雪も残るし水辺の風は冷たいので、近寄る人影もない。
(どうしてあんなこと言っちゃうのよ、自分の口を抓りたい……)
大前提として、武尊の態度が悪いという判断は変わらない。海夜が大きく関わっている出来事を、海夜本人に隠しているあの秘密主義はどうかと思う。しかも、“隠している”という感覚ではなく、“黙っている”という感覚なのも頭にくる。
言い方を変えたって結果は同じなのに、後ろめたいことではないとでも言いたいのだろうか。確信犯の方がよっぽどたちが悪いのに。
……それともこれは、海夜がいけないのか。
起こっている事象に関してもっと踏み込んで質問しなければ、きっと武尊は都合よくはぐらかす。もっと冷静な思考を持って物事を深く考えられたら、武尊も対等に扱ってくれるのか。
感情に任せて婚約者を詰り倒す女なんて、子供っぽすぎて相手にしていられないだろう。
(部下がいる前であんなこと言っちゃいけなかった……、あの人は第一皇子さま、この国の皇太子。権威とか威厳とか、そういうものを考えなきゃいけなかったのに)
つい、武尊という目の前の個人だけで考えてしまった。
あああぁ、と身悶えて明後日な思考のまま頭を抱える。
考えるべきはそこじゃない、とはわかっている。
たとえば、“皇族としての責任を求めていない”とか。たとえば“望みは全部叶える”とか。
(あれって何なの……?)
責任を求めないとは、何も期待していないと言われたも同然だ。そこに居るだけの存在で、それしか期待していないということ。失礼な話だ。
(でもじゃあ、全て叶えるって何?
何であんなこと言うの?? 全く意味がわからない……怒ってたのに)
そう、すごく怒っていた。見るからに纏う空気が不機嫌で、海夜が傍観者だったら近寄りたくなかった。どんなに美しく笑っていたって、あんな目つきで見られたら竦み上がる。
そしてとどめに、髪に。
(か、髪に……っ)
「………………!!!」
思い出して身悶える。
しゃがみ込んで顔を両手で覆っても足りなくて、蹲る膝に顔を押し付けて丸くなる。
髪の毛なら確かに、直接肌に触られることに抵抗を感じていても平気だった。むしろ、その手があったんだ! と、武尊の頭の良さというか抜け目のなさというか、そんなものに感心した。
……感心している場合じゃなかったのに……。
自分の迂闊さと幼稚さと暢気さに、いい加減呆れる。
子供の頃なら、母から髪にキスされるなんてしょっちゅうだった。愛情表現よ、と母は愛おしそうに笑ってくれたけれど、武尊のそれに同じ意味があるとは思えない。
(……だって、怒ってたんだもの。怒りながらの愛情表現なんてある?)
そもそも親戚以上恋人未満、婚約しているけど渋々、海夜の貴種女性としての立場を考えて、のスタンスでいる彼に、それを期待するのは迷惑だろう。
少しだけ彼の意識をこっちに向かせられれば御の字、全部が欲しいなんて贅沢なことは言わない。仕事の隙間にちょっと気にかけてくれれば嬉しい。
(…………………のに、あの瞬間期待しちゃった…………!!!)
期待しないなんて言いながら、結局期待しまくっている自分に気づいて居た堪れなくて、ひどい言葉を投げつけて逃げ出して来た。もしアレが愛情表現ならこんなに嬉しいことはないけれど、でも違う、と浮いては沈み、沈んでは浮きを先ほどから繰り返しているのだ
そうして愛情表現じゃないなら一体何、と何気なく考えてはっとした。
(………嫌がらせ………!!)
そうか。
自分ではどうにもできず、人を頼ることしかできないのに、あの二人に拘り続ける海夜に、頭にきてあんなことをしたのか。
ああいうことに、海夜は不慣れだと知っているから。
(でも、少しでも嫌な相手ならあんなことする筈ないし……、愛情的なものも、ちょっとはあった……? いや、完全に嫌がらせかも)
ぐるぐるとループする思考に惑わされて頭が破裂しそうだ。
「ぅう……、どっち……?」
混乱しながら呟くと、横で伏せていた薄青金の精霊が頭を上げた。
「ウム、我モ迷ウテオル。“朴念仁”モ良イガ“唐変木”モ中々良キ呼ビ名」
「……ん、今そこを悩んではいないの。ごめんなさい」
「……ヌ。違ウタカ」
明後日すぎる所で悩んでいる受肉精霊に、ちょっと考えて否定しておく。
自分も大概だとは思っているが、やはり精霊に現世の出来事は他人事だ。
「……あなたとこうして話せるのも、あと少しね。色々ありがとう。いなくなったら寂しくなるわ」
「イナクナルツモリハナイト言ウテオルノニ。受肉ニ応エル選択権ハコチラニアルノジャゾ。解放トテソウアルベキジャ」
「兄は常にここにいる人じゃないの。嫌になって解放されたくても、簡単にはできないのよ? できる時にしておかないと」
「承知済ミジャ。姫ノ一生ナゾ、我ノヒト時。永ノ時ヲ気ニ入ッタ者ノ傍デ過ゴセルカハ、精霊トテ運ト縁ジャ。機会ヲ逃スハ愚カゾ」
「……一生一緒にいるつもり?」
「ソウジャガ?」
当然のように頷く精霊に苦笑した。
「……情熱的に求婚してくれたら考えてあげる」
精霊が人間に求婚。
夢見る少女のフェアリーテイルかと、若干自分に呆れる。
「姫ガ一生一緒ニ居タイト決メテオル奴モ、我ハ知ッテオルヨ。我ガイテモ特ニ否ヤハ言ワンジャロ、アヤツハ」
……そうかもしれない。
海夜の周囲に置く存在を厳しく管理している武尊が、精霊に甘いのは確かだ。
でも黒い精霊への扱いのように、敵対する存在にはたとえ精霊であっても容赦がない。
「姫ハ心配性ジャノ。……アレカ、アヤツヲ心カラ信用出来テオランノカ」
「そ、そんなことないわ……」
いや、少しはあるかも。
信用しきっていたら、彼の行動でこんなに悩むこともないのだろうから。
精霊の言葉を否定する根拠も乏しくて、声が尻すぼみになる。
「恋ノ相談ナラ、我ヨリアヤツラノ方ガ適任ゾヨ。何セ、女ノ性シカ持タン奴ラジャ」
そう言う受肉精霊の視線の先には、湖面を軽く打ち付けて再び水中に消える色鮮やかな尾鰭たちが見えた。
確かに、私事の悩みを打ち明けられる身近な存在は、この世界ではまだ思い浮かばなかった。日本なら美鈴や貴一がいたけれど、この国の皇子さまの話を気軽にするには、海夜の周囲の人間は武尊に近すぎる。
うーん、と考えながら湖を見据えて立ち上がる。
この湖に棲みついている精霊達なら、勝手に出歩いて武尊の耳に入ることもないだろうか。その辺を漂う精霊達では根無草すぎて、無責任なことをしかねない。
そんな風に考えていたのが顔に出ていたのか、突然鋭く声をかけられ腕を強く引かれて驚いた。すぐ傍に人が近づいていたことに気づかなかったのだ。
「姫っ、どうか思いお留まりをっ!!」
「……えっ!? っあ! いやっ!!」
腕を引かれたと同時に全身を悪寒と鳥肌が走り抜ける。反射的に悲鳴を上げてその腕を強く振り払った。
(誰っ!?)
確認しようと振り向いた時、腕を勢いよく振り払った反動で足が滑る。
(……え)
湖の人魚達を意識していた為に、桟橋の縁ギリギリに立っていたのが災いした。
そのまま桟橋から足が離れて青ざめた。
(……いやだわ、こういうの覚えがある)
困っちゃう、と内心ひどく焦りながらも、ゆっくりにも一瞬にも感じる現実に身を任せるしかない。
「っばかっ! 叉孳……っ!!」
誰か別の人物の焦った声が聞こえたと思った時には、大きな水音を立てて湖に落ちていた。
腕を引いた人物だろうと思われる、小柄な男性と一緒に。
※
人に触ることに抵抗がある海夜は、落ちた湖から上がれない。何とか桟橋の柱につかまって沈むのを堪えている状態だ。
ガウンは重いし、雪解けの水が流れ込んでいる湖の水は凍える程冷たいしで、桟橋上の人物が青ざめて慌てている。
落ちるどさくさで自分の爪で引っ掻いてしまった手の甲に、血が滲んでいるのも認めた茶金髪の男性は、さらに青ざめて叫ぶように言った。
「ち、血が……っ!! もも、申し訳ありませんっ! すぐに手当てを……っ、ああでもまずは水から上がらないと……っ、でで、殿下を呼んで参りますっ!!」
「えっ!? 待って待って、それは困りますっ!! 怪我なんて気にしなくていいので! ここからもすぐに上がれますっ!」
慌てっぷりにこちらも慌てて止めるが、護衛対象の血に動転している男性の耳には入らない。あっという間に屋敷に向けて走り去り、姿が見えなくなって唖然とする。
「……大丈夫なのに……」
海夜のその呟きを拾ったのは、一緒に落ちた小柄な男性の方だった。護衛官の制服を身につけているので、二人とも屋敷の周囲に配置されていた近衛隊員だろう。
難なく桟橋に引き揚げられた彼は、可哀想になる程身を縮こませてこちらを覗き込んでいる。
「申し訳ありません、姫……。僕の……、いえ自分の勝手な思い込みで、こんなお怪我まで……」
「お気になさらないで下さい。むしろ巻き込んでしまって、ごめんなさい」
思い詰めた顔で湖を見ていた海夜が、入水自殺でも図ろうとしているように彼らには見えたそうだ。
海夜が腕を振り払った反動で一緒に足を滑らせた彼は、気づいた時には隣りで冷たい水に踠いていて、こちらが驚いた。
「水浴ビカ、姫」
「違うわ、落ちたの見てたでしょ? そこをどいてくれる? 下から押してもらうから」
「ウム」
暢気に覗き込んできた受肉精霊に苦笑して、海夜の周りに興味深げに寄ってくる人魚達に目配せする。
上に押して、地上に戻して、と。
すると、水を吸ったガウンの重さなど全く無関係に、ぐんと大きな力で桟橋の上に押し上げられた。
「ありがとう。湖のお方によろしくお伝えして」
昨年秋に邂逅した湖の主への言伝を頼んでお礼とする。色鮮やかな尾鰭達が水中へと戻っていくのを見送って、ガウンの重さにその場に座り込んだ。
一息ついて護衛官の男性へ首を巡らせる。
「……驚きました。精霊の御技ですか?」
どんぐりのように大きく見開いた目で驚いている。
この世界の人は精霊の存在を身近にしながらも、日常的にその力を利用するわけではないと思い出す。
精霊のことは、それ専門の人々が扱うこと。この人も、精霊に馴れ親しむ体質の人ではないのだと理解して頷いた。
「ちょっとだけ助けて貰いました。だから人を呼びに行かなくても、大丈夫だったんですけど……。怪我も、これは自分の爪が当たった自傷なのですぐ治っちゃうんです」
そう言って、血の滲む手の甲を見せると、もう殆ど消えかけている。話している内にもほんの小さな切り傷は、血の跡を少し残しただけで跡形もなく消えた。
差し出した右手の甲の、今まさに目の前で消えた傷に、護衛官は息を飲んだ。
「ね? だから慌てる必要ないんですよ」
「勿体ナイ。一差シ舐メサセテクレレバ良イノニ」
「だめよ」
横から口を挟む薄青金の精霊に肩を竦める。
精霊に血を与えるなんて、契約を結ぶのと同然だ。
貴種は傷の治りが早いけれど、黄花・サディル特有の、自傷が瞬きの間に消える特異体質は精霊との関連も大きいと祖母から教わった。
「………凄い。驚くことばかりです。まるで魔女か、魔物のようですね」
前髪の雫を払いながら、海夜は護衛官の男性が口にした言葉にキョトンとした。
軽く笑顔で放たれた言葉に、首を傾げる。
「精霊はわたしでも存在を知っているのですけど、魔物って? この世界には、魔物と呼ばれるものが存在しているのですか?」
精霊が身近でない人に精霊に頼った現象を見られると、“魔女”と呼ばれることはよくあることだった。子供の頃なんて“化け物”とまで言われたこともある。
傷つかないといえば嘘になるけれど、それよりも“魔物”の方が気になる。
日本では“魔物”という存在は見たことがない。鬼とか、山姥とか猫又とか、そういう怖い存在は昔話で聞いたのみだ。探しに行こう、と兄と美鈴が言った時には、流石に祖母に告げ口して止めて貰った。
自分達の手に余るモノを、言葉にすること自体も厭うた祖母は、怖い存在をしっかり知っていた。
その存在の名を、“天馬”という。
天馬が悪鬼と呼ばれる所以は、その“魔物”が存在しているからなのか。
純粋に気になって質問したのだが、男性は何となく怯んだように見えた。
「……いえ、存在しているかは……」
「そうですか。人に訊いてはいけませんね。自分で調べてみます」
護衛官の小さな声の返答に、大きく頷いて立ち上がる。このままここにいたら、自分はともかく彼は風邪をひいてしまう。
立ち上がると目に入るのは、ひどい有様の自分のガウンだ。
「ああ、綺麗なガウンだったのに……。またやっちゃったわ……」
ピンク色基調のプリンセスラインのガウンは、張りのある生地に細かく同色の刺繍が施され、上からは黒いレースが飾られて大人っぽく美しかった。
けれどレースは所々破れ、引きずる程長い裾は泥で汚れて真っ黒だ。
水を吸って重くなった裾を持ち上げ、屋敷に向けて歩き出すと護衛官の男性も付いてくる。
「申し訳ありません。姫のお召し物にも、国民の血税が投入されているのに」
!
血税。
まさか、皇族の私物に国民の税が?
それは初耳だった。祖母から教わったこととも、若干食い違っている。
「………そうなんですか?」
「……え。まさか、ご存じない?」
「ごめんなさい。まだ国政と経済の勉強は追いついていなくて。祖母から五十三年前の知識は教わりましたが、その頃とはだいぶ様変わりしているでしょうし……」
正直に告白すると、男性はちょっとだけ小馬鹿にするように鼻で笑った。
「ご自分の身の回りのこともご存じないとは思いませんでした。ご自覚の問題では? 今回の事故も、少々軽率ですね。これが他のご令嬢でしたら、身を弁えてあんな事故が起こりそうな場所に、お一人で出向かれることもないでしょう」
(………そうよね……、本当に)
自分に皇女としての自覚が足りないとはわかっているけれど、身近ではない第三者にきちんと指摘されると鋭く胸に響いた。
自分には皇族としてだけでなく、庇護される立場としての自覚も薄いと。
「……あー、でもアレかな。殿下はご正妃に血筋正しいお方を据えて、足りない実務の後ろ盾を、他のご令嬢をご側室にして埋めるおつもりなのかも」
「………………え?」
聞き間違いかと思った。
庭園の途中まで来ていた足が止まる。屋敷はもう目の前で、エントランスが騒がしいから、海夜とこの男性が湖に落ちた知らせがいったのだろう。
「だって國皇陛下も今の皇妃殿下の他に、三影殿下を産み参らせられた羽咋家のご令嬢を娶られたのですよ? 皇族のご結婚って、そういうものでしょう? ご覚悟がなかったのですか?」
どこまでも笑顔で、けれど獰猛な目が海夜を射すくめる。
質問の形だったけれど、この人の言うことはあの黒い精霊を通じて結婚を申し込んできた人と同じだ。国を司る者が、個人的な見解で縁を結ぶなどあり得ないと。
侍女の眞苑と白玖音が、心配顔でタオルを手に走り寄ってくるのが見える。
それを確認した男性は、一瞬だけ大きく鼻で笑った。
「お風邪を召されませんよう、お早めにお召し替え下さい。殿下へのご報告は僕が致しますから」
そう言って、硬直した海夜を横目に、侍女達と入れ違いに傍をすり抜けた男性は、嬉しそうな笑顔だった。
「姫さまっ、もう、心配させないで下さいませっ!」
眞苑がぷりぷり怒りながら、頭からタオルで包んでくれる。
それに曖昧に力なく笑って、歩き去る男性の後ろ姿を見送った。
“正妃”と“側室”。
この言葉がぐるぐると、頭から離れなくなったことを自覚して。
お読みいただきありがとうございます♪
ブックマーク等大変嬉しいです。
ありがとうございます。




