第十五話 使役精霊
ここまで出張るとは思わなかったオード・眞爾。
オード・眞爾はこの日、朝靄の中での密やかな逢瀬に遭遇してしまって、内心とんでもなく焦っていた。
黄花・サディル唯一の貴種女性、海夜皇女専属近衛連隊第一小隊。後にこの隊への抜擢こそ軍人の誉れと云われる小隊。
第一皇子の直接選抜という栄えある名誉と共に喜び勇んで参加を決めたオードは、皇子と皇女への縁なら隊随一であるに違いないと、勝手な親近感を抱いていた。
抱いていたが、だが。
何故いつも、この二人には揃って遭遇してしまうのか。そして何故、いつも気まずい場面に行き合ってしまうのか。
金髪に斑らに茶色が混ざる短髪を掻きながら、庭園の二人から無理やり目を外す。己の間の悪さに頭を抱えたくなりながら、新部隊での相棒を見遣った。
検非違使隊でも複数人での任務が義務付けられていたが、皇族警護の専門である近衛隊は二人一組が基本だ。必ず任務を共にする相棒が存在する。
オードの相棒は、二つ年下の男だ。
名は叉孳・井乎。
明るい茶髪に鳶色の瞳。日焼けしにくい体質なのか、色白で子供の頃からのそばかすが消えないのだと笑っていた。めっぽう剣が強く、皇都直轄剣士隊からの引き抜きだったと聞く。
小回りを効かせた戦法が得意なようで、体格にはそれ程重量はない。オードから見ると、よく軍の訓練について来たなと思う程筋肉量も少ない。
……まぁ、元同僚の志麻・ハングズリ曰く、オードは筋肉だるま一歩手前だそうだから、大抵の男は筋肉が足りないように見えるのだが。
「先輩、今の見ましたか? 殿下がご自身の剣を他人に触らせるなんて」
驚いたようにこちらを見上げて確認してくるので、額を小突く。
「護衛対象の私事を覗き見して、うっかりそれを口にする奴は護衛官向きじゃないぞ」
「仲間内ぐらいいいじゃないですか。皇族の私事を外でうっかり話す程迂闊じゃないです。キアリズ殿下の私事なんて殆どの者が知らないんだから、興味が湧くのも仕方ないですよ」
「……それは誰への弁護なんだ。自分か、他の者か」
「皆です」
つまり、大勢を代弁すると言いたいらしい。
「言葉遊びしてないで、さっさと持ち場に着くぞ」
呆れて肩を竦めながら移動しようとすると、叉孳は何とも不思議な表情で眉根を寄せていた。
「黄花・サディルの姫っていったって、誰も貴種のことなんかわからないんだから、キアリズ殿下のお相手は、殿下ご自身のお役に立つ家門の女性がいいんじゃないのかな……。色々ご候補は揃ってるでしょう。公爵家のご令嬢や伯爵家のご令嬢とか」
「お前、ヤキモチ妬いてるのか? 殿下がご自身の剣を触らせたり、笑顔見せられたりするのは、あの姫だからだと俺は思うが」
「………殿下に限って、計算のないご結婚はなさらないでしょう?」
「……俺は殿下じゃないからわからないが、政略ではない皇族のご結婚があってもいいと思う。むしろ大歓迎だ」
「それは先輩の考えですよね? 僕たちは殿下により良い道を選んでほしいと思ってます」
僕“たち”。
その言葉に内心で面食らう。
確かに昨日の顔合わせの後、小耳に聞こえる会話の中には皆の期待を集めるキアリズ殿下のお相手が、あのか弱い姫でいいのかと疑問に思う者の声もあった。
だが、それはごく僅かだ。
オードは元より皇女の素顔を知っているから、忠誠を誓うのに苦もなかった。しかし近衛第一小隊の中には、皇子の直接抜擢の栄誉に浸るべく移動してきた者も少なくない。そういう者達は、皇子からの評価は気になっても、自分達の護衛対象への興味は薄かっただろう。
自国の統治者の直系貴種。しかも女性という絶滅危惧種への興味は勿論ある。それに、尊敬する上司の婚約者となる人物。
好奇心からの興味はあっても、殆どの者がそれだけだったようだ。
それをあの姫が、階段上の二人のやり取りでもって皆の意識を塗り替えた。
躊躇いがちにぎこちない仕草で、皇子の手に自身の手を託した直後の、あの嬉しくて仕方がないという花が綻ぶような笑顔。美貌の姫だと認識してはいたが、あの瞬間の何とも表現しようのない美しさは、内面から滲み出たものだ。
皇子のことが好きでしょうがない、という普通の女の子の笑顔だった。
貴種であり、皇族であることなどあの瞬間あの場には一切なかった。
自分の評価ばかり気にしていた者達がどよりとどよめき、中には「可愛すぎないか……」と、簡単によろめいた者まであの時既にいたのだ。あの瞬間、オードは思わず片手をぐっと握りしめて静かに喜んだ。
そうして、皇女自身の言葉での挨拶。
体調を崩して静養に入ったのだと聞いていた通り、青褪めた顔色は具合が良さそうには見えず、声と体は震えていた。
しかし、そこでまた皆が驚いたのが、皇女の所作だった。身に染み付いたように、スカートをつまむ指先まで意識の通った優雅さ。最近まで市井で過ごしていたとは思えない、洗練された仕草。
初めて皆が、“皇族”というものを意識した瞬間だっただろう。
普通の女の子でありながら、皇族であること。
貴種という特殊な生まれなのに、普通の人間でもあること。
オードから見ると沢山の矛盾を、あの華奢な身に負って目の前に立っている。
あの場の多くの者が庇護欲というものを知ったに違いない。同時に、皇家の姫の護衛官という誇りも自覚した。
自分達が護衛する存在が血の通った人間だと、しっかり認識できたというべきか。ふんわりと思い描いていたおとぎ話の人物が、その姿を見せることで皆に現実を直視させたのだ。
多くの者が皇女へと傾いた。
だがそうはならない者が存在するのも仕方がない。十人十色だ。
この隊は忠誠心と実力を重視して編成されているという。忠誠心が皇子個人へと突出している者にとって、皇子が選ぶ相手に厳しい目を向ける気持ちもわかる。
その一人がオードの相棒であるというだけの話か。
それにしては、先程の“僕たち”という表現は気になった。徒党を組んでいると、示唆している言葉に聞こえたからだ。
相棒を疑うことなどしたくはないが、これは十年近く検非違使隊で、人間というものの性質を学んできた癖だ。
(……少し、様子を見た方がよさそうだな)
叉孳の不満そうな横顔をそれとなく見下ろして、オードは気を引き締め直すように考えるのだった。
※
花の時期にはまだ少し早いこの時期、早春の空気の中に溶ける儚い精霊達と、薄らと地面の下から顔を覗かせるクリスマスローズのような花々の精霊達に囲まれて、海夜はゆっくりと歩いた。
やっぱりまだ何となく眠いなぁ、とすっきりしない額を押さえて。このところ寝不足気味だったから、それも仕方がない。
でもそれを、まさか武尊に見抜かれているとは思わなかったから、朝食の席で「少しは眠れるようになったか」と訊ねられてびっくりした。
朝靄のすっかり晴れた庭園を散策しながら、武尊との朝食での会話を思い出す。
「あの部屋ではよく眠れなかったんだろう? 少しは改善したか」
指摘に、食後のお茶を手にしながら内心でぎく、と心が強張った。
同じようにティーカップをソーサーに戻して、武尊はこちらを見る。
「同じ扉を修理したことが良くなかったな。おまえがここにいる間に、変更しておく」
……何でもお見通しだ。
朴念仁だと海夜も思うが、その実きちんと見えていない人の心を読んでいる。
「……ごめんなさい。ありがとう」
以前に、奥宮の海夜の私室内で起こったことを言っているのだろう。
寝室に通じる扉を壊してまで、悪だくみを実行しようとした人物がいた。彼は皇配という女皇の夫の立場を得るべく、海夜に夜這いをかけようとしたらしい。何とか逃げることはできたが、直接的な身体被害がなかったものだから、すっかり忘れて日々を過ごしていた。
けれど今回の事件で、ようやくあの出来事がどれだけ悪質だったのかを思い知った。あのままあの悪だくみが成功していたら、海夜は今よりもっとひどい精神状態に陥っていただろう。
暢気だった自分にがっかりし、そして本能的な不安感で、あの扉が見える寝室で深く眠ることができなくなっていた。
最近の寝不足も祟って急速に心が落ちたのだと何となく自覚していたので、武尊が気づいていたということは、少し救われる気持ちだ。
そういえば、あの出来事に関わっていた人物達のその後を聞いていない。
侍女見習いとして、一時とはいえ海夜の侍女を勤めてくれた璦蘭はどうなったのだろう。それに、扉を壊した張本人も。
「璦蘭さんってどうなったの? わたしが奥宮に戻った時には、姿が見えなかったけど」
「……璦蘭、とは」
全く知らない名前を聞いたとばかりに、首を傾げながら逆に訊ね返されて戸惑う。羽咋家に侍女を立てるよう下命したのは武尊だと聞いていたのに、侍女本人のことは知らなかったのだろうか。
それに、何となく声のトーンが一段落ちたような。
(訊いちゃいけなかった?)
「……わたしの侍女を、一日だけしてくれたご令嬢だけど……」
「……あれか。あれなら世間知らずもいい所だったので、前宮に修行に出させた」
「えっ、ご令嬢を前宮にっ?」
前宮は皇宮内とはいえ、皇都の住民達が身分問わずに行き交う場所だと聞く。上位貴族である公爵家のご令嬢が働くには、若干不都合がある気がするのだが。
「貴族の世界しか知らない小娘には、いい社会勉強になる」
当然のように言う武尊からは、それが妥当だと信じて疑わない空気しか感じられない。
「……そうかもしれないけれど……、大変な目に遭われていないかしら……」
海夜も働いた経験があるわけではなく、仕事というものには漠然とした責任を伴うもの、という感覚しか持っていない。
だから何かを言えるわけではないけれど、璦蘭のような根っからのお嬢様には、身分を問わない場所はきついのではないだろうか。
「自分の身に起きたことを考えてものを言え。もう一人の当事者は地方左遷だ。二度と皇都の地は踏ませない」
「えぇっ!?」
隻眼の片眉を上げて軽く言い放った武尊に、驚いて肩を竦める。
「だ、だって羽咋公のご子息なんでしょうっ? そんな……、二度と、なんて……厳しすぎない?」
「羽咋一族全てが受け入れた結論だ。自分達が何をしたか、自覚させるには甘すぎるぐらいだが。おまえの皇女宣旨が成る前だったからこんな軽い処分で済んだと、羽咋自身が謝罪して来たぞ。皇族への行き過ぎた不敬は、本来処刑や終身刑、もしくは国外追放だ」
(そうなのっ!?)
強い言葉に慌てて周囲の人々を見れば、薔珠も虎も侍女達も頷いている。
受肉精霊だけが与えられた食餌をペロリと平らげ、お腹を出して仰向けになっていたけれど。
「この国は皇家を見失って久しい。国民の手本となるべき貴族がこの為体では、国の根幹たる国民が国家を取り戻すことなどできない。まずは貴族がおまえに何を見るかだ」
「……試してるの?」
「何を」
「………わたしを」
「おまえは揺るぎなく貴種皇女だろう。試されるべきは、貴族どもだ」
組んだ足の上でゆるく指を組み、武尊は泰然と言った。そうして、小さく口の中で「……それに、国民もな」と呟いている。
何のことかわからなかったけれど、やっぱり武尊は海夜が思うよりもずっとずっと遠い所を見ているのだと、改めて思った。
庭園の植え込みの脇に立ち、目を上げると湖が見える。
昨年の秋に、あの湖の中の竜宮城へと誘われた。そこで聞かされた残酷な話を、まだ誰にも話せていない。
同じ貴種である人々には、残酷すぎて口に出すこともできなかった。海夜の知る貴種は黄花・サディルの直系ばかりで、これはその直系にまつわる呪われた話だから。
“黄花・サディル直系男子は、生まれた直後に精霊に喰われていた”
海夜の兄も婚約者も、その直系男子。そして、母はその直系男子を何の躊躇いもなく産み、愛情深く育ててきた人だ。
……たぶん、三人ともこの話を、知っていたのではないだろうか。
母と兄は祖母から、武尊は湖に棲む精霊達からそれぞれ聞かされて、各々考えることも感じることもあったのに、口を閉ざして生きて来た。
知らなかったのは、海夜だけ。海夜だけが何も知らなかった。
きっと、海夜を守る為だったのだろう。海夜の心を。
将来、黄花・サディルの直系男子を産める存在は、海夜だけだから。
ありがたいことだと思う。
でもそうやって遠ざけられたことで、海夜は逆に誰にもこのことを相談できずにいる。
いずれは海夜も母親になる時が来る。
“きさいがね”として元皇女だった祖母に育てられ、その願いの通り、武尊の花嫁として彼の隣に立つ日が。
でもこんな漠然とした不安を抱えたまま、その時を迎えることができるんだろうか。
……現段階では、それもとんでもなく難しいと思うような状況だけれど。……あんまり、当事者の武尊に危機感はなさそうだけれど。
(そもそも子供とか興味がなさそうというか……、わたしを意識してないというか……。だからあんな、デリカシーのないことを簡単に言う気が……)
ため息が出そうになって、はっと顔を上げる。
(だめだめ、こんな後ろ向きな考え! だって、武尊には歳の離れた妹もいるのよ。小さい子と縁がない訳じゃないんだから!)
悩んだって仕方がない。
そう思うけれど、いまいち自信がないと感じるのは、言い訳じみていると自分でもわかっているからだ。
武尊への気持ちに疑いも曇りもない。想っていることを許されているだけましだ。拒絶され続けたことを考えれば、今の境遇は幸せすぎる。
傍に居て、声を聞けて、言葉を交わせる。こちらの言葉に反応を返してくれる。呆れてくれる、笑ってくれる。
そのどれもが、海夜にとっては失ってしまった二年半を取り戻す為の大事な縁だ。
だから、決めている。
海夜が想うだけでいいんだと。
海夜とは違う、ずっと遠くを見ている横顔を見守れるだけで。
「姫、面白イモノヲ見ツケタゾヨ」
まだ花の少ない庭園の植木の中を突っ切り、薄青金の受肉精霊が何やら口に咥えて、弾むような足取りでやって来た。
「なぁに? どこに居たの? もうすぐ兄があなたの解放にやって来るのに」
「ソレハ好カンナ。我抜キデ物事ヲ決メラレテハ困ル。コンナ面白キ事、数百年出会エヌノダカラ我ガ決メルト朴念仁ニ伝エネバ」
まるで口を尖らせるように、武尊への文句を言う精霊に苦笑する。
受肉したことを心から楽しんでくれているのは救われる。
それよりも、何を咥えて来たのだろう。
狩の獲物を主人に見せるが如く、受肉精霊が足元に置いたそれを見て首を捻った。
「……生き物?」
黒い被毛の……、小型の動物。
そう見える。
……猫……、のような?
薄青金の精霊の口に強く圧迫されたのか、意識を失いぐったりと四本の手足を投げ出して横になっている。
「コレモ受肉精霊ジャノ。我ト違ウテ、使役精霊デモアルヨウジャガ」
自分が見つけたこの小さな同胞に、受肉精霊は手柄だと言わんばかりに胸を張った。
対して海夜は、受肉精霊でしかも使役精霊だと言う言葉に、鋭く息を飲んだのだった。
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