第三十四話 逃亡?
全く夢を見ずに朝を迎えるなんて、いつぶりだろう。
目が覚めた広い寝台の中で、海夜は勢いよく起き上がった。ふかふかの寝具に、眠りを妨げないよう閉められた天蓋のカーテン。
間違いなく、黄國だ。
自分の願った通り、自分の力で再び来訪した。嬉しくなって寝台を飛び降りる。
裸足のまま寝室のカーテンを開け放ち外を見ると、美しく澄んだ冬の始めの青空が広がる。
窓を開け入り込む寒風は薄い寝巻きの身には毒だが、精霊の気配が濃い空気が懐かしく心地いい。
暫くその空気に身を晒していると、扉が開く音がした。
侍女の二人だろうと思い、笑顔を向けようとした所に耳慣れない声が掛けられた。
「––––––まあ、はしたない」
出し抜けに咎めるような言葉を投げられて、驚いて声の主を見る。
白玖音と眞苑が着ていた高位侍女のシンプルなドレスではない。あれは右の肩口に山吹色のリボンが付いているだけの、動き易さを重視したドレスだった。
でも目の前の人物の服装は令嬢らしい華やかなガウン。侍女ではなさそうな同年代の女子だ。縦に巻かれた栗色の髪は紫色の瞳とよく似合い、愛嬌ある顔立ちは小動物のようで可愛らしい。
(どなた? 何故こんな朝早くに奥宮に?)
不思議に思ってぼんやりと首を傾げると、揶揄するように笑われた。
「申し遅れました。私、キアリズ殿下よりご下命を受け、姫君さまのお世話を申しつかりました、璦蘭と申します。出身は羽咋。どうぞよろしくお願い申し上げます」
そう言って、宮廷作法の手本のような礼で頭を下げられた。
(……わたしのお世話? 侍女ということ?)
海夜よりよっぽどお姫さまのようなこの女の子が? 眞苑と白玖音はどうしたのだろう。それに、薔珠は。
疑問だらけの頭で、この新しい侍女に挨拶を返すしかないのだった。
※
皇宮内に於いて、貴人に仕える立場の人間に家名は必要ない。
何故なら国民の筆頭に皇家があり、敷き並べて皆が平等である一君万民が国是であるからだ。
––––––とは建前だと、皇都に来た時に武尊から教わった。皇宮は魔窟であると。
けれど、海夜がこの国の記憶がないまま過ごした一ヶ月は平穏無事で、貴族間の大きなトラブルもなくひたすら静かに日々は過ぎていた。
それは侍女や侍衛官、それに武尊や三影の影ながらの支えがあってのことだったのだと、今更ながら知った。
どうして以前の侍女がいないのかと璦蘭に問うと、現在自宅にて謹慎中と返った。
「詳しくは存じ上げませんが、殿下に生意気な口をきいたようですわ」
謹慎? なぜ? 武尊にたてついた?
でもそれだけで武尊がそんな処分をあの二人にするだろうか。
璦蘭の歳は十七歳。
急な侍女の召し上げだったが、羽咋家には奥宮に入れる身分と年頃の女子が四人もいたので奪い合いになり(何で?)、海夜と歳の近い璦蘭が成人前の行儀見習いも兼ねて皇宮に上がることになったのだという。
社会勉強の場がこんな素人皇女のお世話では、皇宮どころか貴族間のやり取りの機微も学べないのでは。
そう思いながら朝食を終える。
当の璦蘭は海夜を見ることもなく、自分の美しく整えた爪を眺めては時おり欠伸をしている。
侍女の仕事は早朝からなので、昨日まで令嬢として傅かれてきた身には大変だろう。申し訳ない気もする。
でも、と考え直す。
これが皇妃や現皇家の皇女に仕えるようになったら、叱られるのは彼女だ。
ここは心を鬼に。
覚悟を決めて気になったことを告げた。
「えぇと、朝早くからお勤め頂いてありがとう。けれど、そんな風にお仕えしている人間の前で欠伸を出してはいけないわ。礼儀に欠くでしょう? それから、この奥宮で早朝にご令嬢が歩いていると警備官の方々に見咎められるかもしれないから、侍女服が支給されているならそちらにお着替えなさった方が、良ろしいと思うの」
常識の内を言ったつもりだが、璦蘭は顔を真っ赤に染めて顎を反らした。
「ま、まぁ、ご無礼を。すぐに着替えて参ります。少々失礼致しますわ」
そう言うと、足音高く食事室を出て行った。
(……うん、仲良くなるの時間かかるかも)
ちょっとため息をつきたくなった。
以前のように書斎で祖母の日記を読んでいると、涼やかな呼び鈴が鳴った。誰かが来訪したらしい。
(薔珠? 三影? ……それとも、まさかの武尊……)
期待してはダメだと思うのに、期待してしまうのは彼に会いにこの国に戻ってきたからだ。
お客様の取次は侍女の仕事なのだが、その侍女がまだ着替えから戻らない。
以前、自分で応対しようとして眞苑と白玖音に大慌てで止められてから、一切を侍女に任せるようにしている。
皇族の面目もあるが、何より不審者だった場合取り返しのつかない事態になる。何かあれば、近くにいた者の責任が問われることは目に見えているのだ。
他の者の仕事はそのままに。
それがひいては仕事を成す者達の身も守る。
皇宮の決め事には、中の者達を守る為の規則も沢山あるということだ。
でも今回は不可抗力。後で誰かに叱られるかもしれないけれど、仕方がない。
外に守衛が立っているのだから見るからに不審者だったら、そこで篩にかけられる。
覚悟を決め、恐る恐る来客が待機している控室の扉をほんのちょっと開ける。
すると中からぐい、と扉を強く引かれてびっくりした。
「お前、オレの存在忘れてるだろ」
「……っ、お兄ちゃん!」
忘れていた。
一緒に来ていたのだった。ごめんなさい。
その後ろにいる医師夫婦にも目がいく。
「美津里さん! 天地さんも!」
「ああ、良かった。海夜さま、お元気そうだわ」
「本当に。顔色も悪くない」
三人を応接室に招き入れて海夜は微笑んだ。
知った顔に会えて、ほっとした。
「海夜さまがお家にお帰りになられたと聞いて、安心もしましたがとても寂しくもありました。こう言ってはなんですが、またお会いできて嬉しいですわ」
「わたしもです。沢山お世話になっていたのに、何も言わずに突然帰ってしまって、ごめんなさい」
美津里の人好きのする笑顔を見て、ああ戻ってきて良かったと思える。
そこで、兄に疑問の目を向けられて医師夫婦を紹介する。逆に医師夫婦には兄を紹介すると、二人は目をまん丸に見開いて口を開けた。
「あの、似てると言って頂いた……!」
「ちょぉっ、似てない似てない!! 顔面偏差値違いすぎでしょ……っ!!」
美津里は遠慮なく大笑いしている。
天地は兄の顔を呆然と見て、眩しそうに目を細めた。
「……キアリズ殿下も大概だけど……。黄花・サディルって一族は、本当に本物の美形一族なんだな……」
しみじみ呟かれて、兄は片眉を上げる。
顔の造作に関して、目の前で色々言われることは兄妹揃ってよくあることだが、武尊を引き合いに出されたことが若干気に入らなかったらしい。
けれど、それを表に出す程幼稚でもない。
「妹を助けて頂いたお礼を申し上げる。今回の怪我に関しても。優れた医師が側近くにいてくれたことは、貴種の身には幸運この上ない。ありがとう」
差し出された手を驚いたように見て、天地は一拍置いてその手を取った。
そのまま海夜は治療と健診に入り、兄は気になることがあるように、部屋の中を眺めてはあちこち移動して見ている。
その辺は海夜も承知している。この部屋は、あの事件があった場所なのだから。
そうしていたら、璦蘭が着替えを終えて戻ってきた。室内の来客に目を止め「来客対応はこれ以降しないで下さいませ」と、やはり注意された。
謝罪を返すと璦蘭は満足そうにふくり、と笑んで部屋の隅に控えた。
回復の確認をした天地がリハビリの提案をしてくれた。
あの日から五日間は上腕の筋肉を固定していた為、最初のリハビリは少し痛ませるかもと説明された時、また呼び鈴が鳴った。
今度は璦蘭が取次に出てくれる。
けれど戻ってきた璦蘭は、頰を紅潮させて慌てていて要領を得ない。
現れた客人を見て、璦蘭の興奮の理由を知った。
「わっ、ホントにねえさん戻って来てる! しかも和兄までいるって、懐かしいねこの顔ぶれ」
部屋の中を見て無邪気に声を上げたのは、三影だった。神官の白いローブに身を包み、明るい笑顔を見せる。
が、海夜が挨拶する前に動いた影によって、その笑顔は飛んでいった。
破裂音だ。
それも、三影の美しいかんばせで鳴り響いた。
「……お兄ちゃんっ!!」
兄が三影の頬を、平手で殴った。
有無をいわせず前触れもなく、いきなり。
兄の理不尽さに青ざめて、咎めるように呼びかけることしかできない。
殴られて顔を背けた状態のまま、三影は「てぇ……」と口元を拭っている。口の中が切れたらしい。
慌てて三影の元へ行こうとして、「お前はそこにいろ」と兄に静かに叱られる。
「––––––お前ら兄弟、何か言うことあんだろ」
低い低い声だった。
こんなに怒っている兄は、天馬と対峙した時以来目にしていない。
そう、怒っている。
物凄く怒っている。キレている、と言ってもいいぐらい。
リハビリ指導をしていた天地と診察簿の記録をしていた美津里は、突然の事態に唖然と兄と三影を見ている。
璦蘭はこんな暴力の場面に立ち会ったことなどないのか、青ざめて小刻みに震えていた。
「お前のぼんくら兄貴どうした? 人の妹囮に使ってここまで痛めつけた挙句、ボロ雑巾みたいに捨てやがって」
ちょっと。
ボロ雑巾って。
酷い喩えに眉間が寄るが、兄が怒っている理由を知って納得した。
そういえば父が迎えに来た時に、兄が激怒していると言っていた気がする。
日本ではそんな素振りは全く見せず、お帰り、としか言われなかったからすっかり忘れていた。
(……まだ怒ってたんだ……)
「……兄貴、皇宮に居ないんだ。任務で。だから俺が先に謝りに来たんだよ」
「居ない。あいつ。逃げんなっつっといたのに。今すぐ呼び戻せ」
確認するように繰り返した兄は大きく舌打ちした。
「いや、オレが行ってやるよ。どこに居んだ?」
まずい。ほんとにキレてる。
急いで立ち上がり、宥めるように兄の袖を引く。
「お兄ちゃん、三影くんは謝りに来たって言ってるわ。それをちゃんと聞いて」
「あ? まず主犯が謝りに来い。そしたら聞いてやる」
「二人とも犯罪者じゃないわ。お兄ちゃんが怒るのも仕方がない事件だったけど、犠牲者はわたしじゃないのよ?」
「あの子だろ。痛そうで可哀想だな。でもオレが直接会った子じゃない。妹のお前がこんな怪我したことの方が重要に決まってんだろ」
兄が顎でしゃくって見せたのは、窓辺の椅子の辺りだ。
カーペットもソファ類も全て新調されているが、そこは事件が起こった時、血まみれのシャイマが倒れた場所だった。
父の血のせいか、自分達の目には当時の姿のシャイマが、呆然と立ち尽くしているのが写る。何が起こったのか分かっていないようでいて、時々自分の姿を見下ろしては残念そうにため息をついている。
「あれがこいつらの犯罪の証拠だってんなら、オレは二度とお前をここに置くつもりはない」
「犯罪じゃないってば。それに、どうしてお兄ちゃんがわたしの未来を決めるのよ。わたしが決めることよ」
「ふざけんな。ばあちゃんがどんな思いで日本で生きてたか、お前が一番知ってんだろ。あの馬鹿殴ったらすぐ帰るからな」
「一方的に決めないで。怒ってくれるのはありがたいし嬉しいけれど、自分のことは自分で決めるわ。どうしてお兄ちゃんも武尊も、勝手に決めつけるの!」
腹が立って一気に言い放つと、打たれた頬を押さえたまま三影が驚いたようにこちらを見た。
「……“武尊“って……、思い出しただろうって聞いてはいたけど、………本当に?」
見開かれた緑色の綺麗な瞳を見て、ちらりと笑う。
「……わたしが色々忘れちゃってたから大ごとになってしまって、とても後悔しているし、反省もしているわ。……シャイマには謝っても謝りきれない」
肯定する形で三影の言葉に答えると、彼は無言で俯いた。
そこからぽたりと落ちた小さな雫に思わず彼の頭を撫でる。
「……やっぱり、ちゃんと話すべきだった。……ごめんね、ねえさん……」
震える声としくしくと子供のように涙を流す三影の頭を、とにかくひたすら撫で続けた。
※
武尊が皇宮にいない。
じゃあ誰が海夜達を皇宮に保護してくれたのか?
それは兄貴だよ、と三影は答えた。
「海夜が界を渡る時は武尊を目印に飛んでる節があんだよ。すげぇ嫌だけど」
兄が眉間に深く皺を寄せて心底嫌そうに言うのを、横で三影の頬の処置をしながら天地が大きく頷いたのが印象的だった。
武尊は身分上、激務に追われている。
けれど海夜がここにいた一ヶ月間は、任務で皇宮を留守にすることなんてなかったのに。
(……やっぱり、逃げられた?)
海夜が何を言い出すのか大体察しているのか。ううん、絶対に察してる。
戻って来るまで帰らない、だめだ帰るんだ、という不毛なやり取りを兄と繰り返し、その日は終了した。
だが夜半過ぎ、誰かに呼ばれた気がしてぼんやりと目が覚めた。
中途半端な覚醒で目が暗闇に慣れない。
その中で桜色の光跡に目がいく。“姫“と呼ばれた気がした。
「……シャイマ?」
半覚醒の頭のまま起き上がると、隣の部屋から不審な物音がすることに気づいた。
いや、物音じゃない。話し声だ。
途端にざっと音を立てて血の気が引いた。
隣の部屋は衣装部屋だ。
祖母の遺した衣装や宝飾類、新たに海夜自身に贈られた物もあるが、大抵は祖母の歴史的にも価値のある遺産ばかりが保管されている。
そんな部屋で、こんな時間に誰かが話している。
物盗りを疑うべきなのだろうが、各部屋は就寝時に侍女によって施錠される。
人が入り込める筈がない。
特に寝室へと直接繋がる衣装部屋には二重の施錠がされていて、侍女と海夜が持つ特殊な鍵でなければ開けることはできない。
寝台を降り、足音を忍ばせて衣装部屋の中の気配を扉越しに探る。
––––……んとうに、皇女なんだな?
––––本当ですわ。瞳は間違いなく琥珀でしたもの。
––––黄花・サディルは美形の一族。まぁ、どんな年増であっても、楽しめるものは楽しめる。
––––公爵令嬢のことを仰っていらっしゃるなら、だいぶタイプが違いますわ。田舎くさいネンネの小娘でしたもの。
これは明らかに璦蘭の声だが、男性の方は誰だろう。
何が目的でこんな夜中にここにいるのか。
––––タイプが違うのか。……まあ、顔がよければそれでいいさ。皇配の地位は父の悲願。侍女の入れ替えがあって、俺が夜勤で殿下もいなくて、最高のタイミングだったな。でかした、璦蘭。
––––事が成ったあかつきに、キアリズ殿下とのご縁組のお約束を守って下されば十分ですわ。ほら、さっさと行って下さいませ。扉は見張っておきますから。あまり変な声を立てさせないで下さいませよ。
––––声を立てさせるのが一興なんだが、わかったよ。外に漏れても困るしな。
そう言って、こちらに向かってくる気配がするので、慌てて咄嗟に扉の把手に触れて“お願い”した。
(“今から来る人を来させないで”)
そうして激しく鳴る鼓動を抑えながら、大慌てで辺りを見回す。
どうしよう、これは貞操の危機というもの?
ここに来たばかりの頃、三影が心配していたことが現実になるなんて。
寒さ除けのショールを羽織り、肩の固定具を手にして、次はどう動けばと混乱で固まる。すると目の前を桜色の光が過ぎり、寝室の角で止まった。
導かれた、と感じてそちらに足を向けた時、扉が開かないことに苛立つように把手を力任せに動かす音が響く。
扉自体が年経た付喪神だったのでお願いできたが、精霊除けが施されている奥宮では彼らの影響力も弱い。
すぐに把手がばきりと折られる音がして、海夜の“お願い”は粉々に吹き飛んだ。
(このままじゃ入ってくる!)
冷水を浴びた心地がして、震える手で桜色の光が浮いている辺りを手探りしてみる。
よくわからない……どうしよう、と泣きべそを掻きそうになった時、今度は朱金の光が現れて指でなぞるように壁の溝を縦に流れた。
かたん、と静かに何かが外れる音がして、屈んで通れるぐらいの扉が開く。這うように急いで外に出て静かにその扉を閉めると、再びかたん、と音がして鍵がかかったのだと認識した。
(非常用の出入口? 助かった)
息をついて、とりあえず逃げられたことに安堵する。
改めて這い出た場所を見ると、私室の目の前の廊下だ。早く移動しようとして、桜色と朱金の光が消えゆくのに気づいた。
シャイマと金魚を象徴する色の光に、喉が詰まるような切なさが込み上げる。
生きていた頃と同じように助けてくれたシャイマ。
そして、金魚も。
精霊ではなく、彼女もシャイマと同じ存在。
だから精霊を見る者達の目に写らないのだろう。
“タスケテ”と叫ばれたことを思い出す。
……何か海夜で役に立てることがあるなら、いつか。
光が完全に消えたのを見届けて、ともかく逃げなきゃと顔を上げた。
それにしても守衛もいたのに、どうしてあんな危険人物が入れたの……?
廊下の先の守衛を振り向くと、にやにやしながら指先で摘んだ何かを灯りに透かそうとしている。それがキラリと光ったように見えて、ため息が出そうになった。
武尊達が皇宮の膿、と言って憚らない現状。奥宮で皇家と直接向き合い職務をこなす人々でさえこの体たらく。
これは確かに膿を搾り出さなければ、と思う人々が嘆くのもわかる気がした。
お読みいただきありがとうございます♪
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