第二十九話 告白、そして
振り向いた皇子の眉間の皺は深かった。
帰らなければいけないだろうか。
帰りたくないと言葉に出したら、みるみるそれは現実味を増して、今の自分の本音だと自覚した。
帰りたくない。
……帰りたくても帰れない来訪者達のことを考えればなんて贅沢なことを、と詰られるだろう。我儘を言っている。わかっている。
けれど家に帰れると判明した途端、今まで否定して来た気持ちがふいに頭を上げて、膨れ上がった。
––––––このままこの人の傍にいたい。
きっと、ずっと自分の中に燻っていた気持ちだった。
ずっと、色をつけることを避けて来た。
自分の中には、そんな気持ちはないのだと思って生きて来たから。
でもきちんと自分を見つめ直してみれば、そんな筈がないのだと気づく。
帰りたくないと思ったのと殆ど同時に自覚した気持ちに、海夜だってまだ戸惑っている。
気づいたばかりの不格好な気持ちだけれど、気づいたからこそ無視なんてできない。
今伝えなければ、一生の後悔になる。
だから、言葉を尽くそうと心を決める。
「やめたいの、偽装の結婚」
「……それで? 他に結婚したい奴ができたか。そういえば、結婚の約束をした奴がいるとか言っていたな」
軽くあしらうように言う皇子は、出会ったばかりの頃の戯言のような話を持ち出した。
よく覚えているわね、と思う。
海夜自身、そんな話を交わしたことも忘れていたのに。
「違うわ。それは子どもの頃の話よ。今でも大好きだけど、そういう感情とは違う気がするし……。どう言ったらいいの? 本当はわかっているでしょう、わたしが何を言いたいか」
「全くわからない」
「……意地悪だわ……」
そういえば“束縛しない、恋愛自由”なんて言っておいて、皇子は結局他の人間を極力海夜に近づけないようにしていた。
それなのにどうして今、海夜が頑張ろうとしている時に他の人間と結婚したいのか、なんて言うのだろう。
本当に意地悪で根性悪で、いい所が少ない。
……でも奥底にある本音を読めば、優しいのだと気づく。
この人じゃなきゃ留まりたいなんて思わなかった。
“番の花”の相手をこの人に重ねてしまったのも、きっとそういう理由だ。今ならわかる。
息をついてこちらに向き直った皇子は、再び腕を組んで首を傾げた。
「……おれに、どうして欲しいんだ?」
委ねるように問うのは、彼も戸惑っているのかもしれない。
海夜でさえどう伝えればいいのか自分の気持ちを扱いあぐねているのに、それをぶつけられている皇子にしてみれば青天の霹靂だろう。
肩のショールを両手で握りしめて言葉を探し、選ぶ。
「この結婚を偽装じゃなくて、……本当にはできない……?」
「…………訳のわからない女だな。家に帰りたいんだろう」
「帰りたいわ。けど……」
どんなに伝えたいかわからない。
沢山愛されて沢山の温かい思い出があって、母と兄と過ごした時間は、一生の宝だ。
継父には知らなかった父親の情を教わり、感謝している。
幼馴染二人にも沢山大好きだと伝えたい。
ここで帰ることを諦めたら、この感謝と愛情を伝えることはできない。
それはずっと、一生後悔していくだろう。
けれど、それでも。
「わたしはあなたとずっと一緒にいたい」
意を決してありったけの気持ちを言葉に込める。
文字を一文字ずつ丁寧に綴るように、言葉を音に託す。
真っ直ぐに見た皇子は表情が消えていた。
はっきり伝わった筈なのに、目を逸らし認めたくないように吐き捨てる。
「………だめだ」
「どうして? わたしがあなたに恋をするなんて、目に見えていたでしょう?」
「……誤解させた行動は、謝る。だが結婚はできない。おまえを受け入れることは、もっとできない」
随分はっきりと拒絶してくれる。
鋭いナイフのような言葉に、振り絞った勇気がしぼむのを感じる。
黄花・サディルに近親婚は禁忌。
それを気にかけていると思ってはいたけれど、それだけでなく海夜個人に問題があるような口ぶりだ。
怯んで俯いてしまう。
「……わたしのことが、嫌だから?」
「違う。極論に走るな。そういうことじゃない」
「じゃあ何?」
即座に否定されるが、それなら何がいけないのか。
やはり血筋の問題?
そう思った海夜は、口にしたくないように躊躇う皇子の表情が、痛そうに歪んだのを見た。
「………おれは過去に婚約者を失っている。彼女以外と添うつもりはない」
––––––婚約者。
結婚の約束をした人。
頭が真っ白になる。
ここに来たばかりの、あの夜。
初めて皇子の琥珀の瞳を見たあの夜、予感めいたものを感じた。
そういう存在がいるだろうから、この人にはあまり近寄ってはならないと。
どうして頭から消えていたのだろう。
この人に、……想う人がいるかもしれない、という可能性を。
それはたぶん彼が向ける表情が、視線が、柔らかくて居心地が良かったから。話すと楽しかったから。
だから、他の女性の存在を頭から締め出した。考えることをやめた。
……考えたくなかった。
「……じゃあ、どうして……」
どうして、あんな思わせぶりなことを何度もしてきたんだろう。
皇子の態度が自分を特別に扱っていたことは、鈍くても自覚していた。
周囲から揶揄われることもあるぐらい、彼は海夜に異性であることを意識させる行動を取っていた。
だから、受け入れて貰えるかもしれないと自惚れた。
「––––––黄花・サディルの貴種女を、その辺の馬の骨にくれてやる訳にはいかない。家に帰す算段はついていたから、偽装の関係を演じるのも短期間だ。その間に余計な虫がつかない程度には、こちらに目を向けさせておく必要があった」
……聞かなければよかった、と思った。
皇子が口にした内容は、傷つくどころの話ではなかった。
多分に思惑を孕んだ、政治的な都合があったのだ。
なけなしだった勇気も抉られる。
自惚れ以外の何者でもなかったことに、羞恥と失望が湧いて混乱する。
全部計算のある演技だったの?
優しくしてくれたのも、他の人の前では無表情なのに自分の前では表情が表れるのも、特別だと思わせる演技?
全部、黄花・サディルという血筋を守る役目の中の。
……だったら、最初からそう言っておいてくれたら良かったのに。
偽装結婚の契約をしたあの時に。
……いいや、それでもきっと間に合わなかった。この心に入り込むこの人の存在感は、鮮烈すぎた。
心が震えた。
こんなに好きだと、今なら素直に認めることができる。
あんなに抵抗していたことが嘘のように、真っ直ぐに自分の心を見つめることができるのに。
この恋は、はじまる前に終わっていた。
彼は最初に言っていた。
この結婚によるメリットの方が大きい。立場も守られる、そういう結婚だと。
黄花・サディルの直系男子として、疎まれる立場を安定させる為だと思っていた。
でも本当の理由は皇家という責任ある立場に生まれながら、結婚を拒否していることを言っていたのだ。偽物でも花嫁さえいれば、結婚という煩わしい問題から解放される。周囲からこれ以上つつかれない、いい隠れ蓑だと。
皇子のこれまでの行動がどんどん理解できて、胃の腑のあたりに迫り上がる痛みに、これが失恋か、と思い知る。
心臓が痛い、なんて表現では足りない。
身体中あちこちから力が抜ける。
体の中が全部痛い。
海夜だって身の安全の為に彼の立場を利用したのに、なんて都合のいい思考だろう。
ずるい自分。
悲劇に酔いたくないのに、喉が詰まって言葉が出ない。
「……っ、……わた……し……っ」
偽装だと、最初に言われていた。
なのに勝手に恋した。
彼は悪くない。この人に罪悪感を持たせたくない。
その為にも泣いてはだめだ。
……でも、止められなかった。
頬を伝った雫を感じて、慌てて俯く。止まれ、止まれと強く思うのとは逆に、溢れてくる涙にどうすればいいのか途方に暮れる。
惨めだった。こんなに人を好きになったことがない。殆ど初恋だった。
それがこんな風にひどい終わりを迎えるなんて、あまりにも惨めで情けない。自分を憐れんで泣くなら人目がない方がいい。特に、この人の前で泣いてはいけないと思った。
とにかく逃げようと皇子の横をすり抜ける。
その翻した手を掴まれた。
「……っ!?」
強く引かれて息を飲む。
足の痛みで踏ん張りが利かず、倒れ込んだ場所は皇子の腕の中だった。
(何これ。どうしてこうなるの?)
強く抱きしめられて、涙の海に溺れながら混乱する。
「……やめて、もうこんなことしないで」
「怒りは尤もだ。だが、泣くのは勘弁してくれ」
「わたしだってそうしたいわ……」
「……悪かった。……と謝っても、もう遅いだろうな」
「……あなたが悪いんじゃないって言ったって、信じないでしょう? わたしはあなたが好きなのよ。身勝手に好きになったの。家に帰るのをやめてしまいたいぐらい、あなたの傍にいたい。でも、それは受け入れられないんでしょう?」
「––––––、……それはできない」
混乱と拗ねた気持ちと、ぐるぐるした気持ちのままやけっぱちで物凄く恥ずかしいことを言っている。
自覚していても止められない。本音だから止めるつもりもないけれど、それでも言いすぎたかもしれない。皇子が絶句するように一瞬沈黙したのを感じて、腕の中から抜け出そうと踠く。
だがそれを封じるように更に強く抱きしめられて、もう暴れる気にもなれない。
(もう嫌だ、本当にイヤ)
どうして今まさにふられている真っ最中の相手に、こんなことをされているのだろう。
しかもどうしてそれにときめくの。もう、自分を嫌いになりそう。
「だったらもうやめて。契約通り、偽装は続けるわ。……でももうこんな風にしないで。余計な期待させないで」
「…………泣くな」
「……これきりよ。後は泣かない……わ……」
泣く自由まで奪わないで欲しい。
今だけ思い切り泣いて、明日からはまた最初に約束した通りの関係に戻るから。
そう思っていた心の出端を挫くように、皇子は涙が止まらない海夜の頬に唇を寄せた。
何をされたのか理解できなくて、ぱちり、と目を瞬かせるとそのまま唇を重ねられる。
「…………っ」
何なの、どうして。
以前のような、口と口がくっついただけのキスではなかった。
何度も深く吸われて舌を絡められ、混乱したまま抵抗していた腕からも力が抜ける。
痺れるように頭の芯が溶かされる気がして、早く離れなければと思うのにうまくいかない。
優しく指を絡められて、彼の婚約者だという人のように、大事に想われているのではないかと勘違いしそうになる。
(ずるい、こんなの)
心底から抵抗できないと知っているくせに、受け入れられないと残酷なことを言うくせに、気持ちの整理もつけさせないなんて。
「………あなた、意地悪ね……」
「……同じことを言うのか」
唇がほんの少し離れた隙に、恨み言のように文句を言うと、皇子はくっと音を立てて息を飲み、呟いた。それは、苦笑にも自嘲にも似た響きにも聞こえた。
皇子の不思議な呟きに首を傾げると、堪えきれないように耳の後ろにくちづけされ囁かれる。
「––––––おまえを受け入れることはできない。だが、……おまえを諦めることも、おれには……できないんだ」
そうして再び、今度は奪うという形容そのままのくちづけにさらされる。
乱暴な仕草とは裏腹の頬を撫でる指の優しさや、腰を引き寄せる腕の逞しさに、切なくなって離れられなくなる。
ひどいことを言われてひどいことをされているのに、“諦められない”と言われたことに希望を持ちたくなってしまう。
(何なの? 何を言っているの?
……失くした婚約者と、重ねてでもいるの)
それでもいいと思ってしまう、愚かな自分に嫌気がさす。
その人と重ねられることに苦しむ筈なのに、この人が与える刹那の熱が、愛しい。
皇子の服に掛けた指を頼りなく握り込んで、叶う筈のなかった恋に、もう一度涙を零した。
※
泣き腫らした目を、侍女達に氷嚢で冷やされて眠った明くる朝。
泣き過ぎたせいで、それはそれは真っ赤な目が鏡の中から見返して来た。
夢見も最悪だ。
桜舞う暗闇、得体の知れない恐怖、胸の傷で息もできない激痛の中、皇子からの婚約者を忘れられない発言まで食らって、フルコンボ。
心なしか胸の傷跡も実際の痛みがあるような気がしてくる。……失恋の痛みだろうけれど。
まだ陽も昇らない暗い窓の外で、いつものように空気を裂く剣の音がし出す。皇子が日課の素振りを始めたようだ。
海夜には大事件だった昨夜の出来事も、皇子にとっては日常を乱す程の衝撃ではなかったらしい。
……それはそうか。
たぶんあんな風に女の子から告白されることなんて、慣れっこだっただろうし。相手が皇子に近しい人物でも、心に決めた人がいるなら動揺したり、ブレる筈もない。
侍衛官や侍女から聞いた話では、キアリズ皇子に心寄せる女の子達は三影に群がる女の子達とは少し違って、静かに本気で恋してしまう子が多いのだという。
ふわっと皇族に憧れる気持ちで観察していたのが、あの皇子の気質に触れて本気の恋に変わってしまうらしい。
耳を塞ぎたくなる程その通りの自分がここにいて、穴があったら入りたい。
恋愛感情なんて無縁だと思っていた幼い自分では、太刀打ちできる筈もない人物を相手取って偽装結婚、なんて嘯いていたのだ。
何のことはない。
自分には圧倒的に恋愛経験が足りないだけで、異性を好きになる感情はちゃんと備わっていた。欠陥人間のように感じていたのは払拭されたけれど、喜んでなどいられない。
自分を知らなさすぎてこんな手酷い失恋を経験するなんて、目も当てられないではないか。
ほら見たことか、と自分に言いたい。
あの時。
あんな風に軽くキスされて人間くさい笑顔を見せられた時、近寄ってはならないと本能で思ったのに。
あれは皇子の政治的な思惑ある企みだったと、気づけない初心な小娘だったからまんまと罠にハマった。
そもそも國皇が皇権の返還を言い出した時、選ぶ権利は海夜にこそあった。
それなのに海夜は、相手を選ぶなんて発想は全く頭に浮かばず、最初から一貫して徹頭徹尾キアリズ皇子しか頭に思い描いていなかった。
恥ずかしすぎて、あああぁぁと丸く蹲るしかない。
(そんな最初からっ!?
そんな頃から自覚なく、あの人に恋していたのっ!?
恥ずかしい……恥ずかしすぎる……っ!!)
無意識の中でどんな行動を取っていたのか。
周囲の人間から見て丸わかりだったことは、昨夜泣きながら帰った部屋で迎えてくれた、侍女と侍衛官達の言葉で知った。
同じ空間にいたらずっと目で追っていたじゃありませんか、と。
家に帰ることになりそうだと、ずっと身近で支えてくれた四人には感謝も込めて告白した。
そして結婚の話も、実は虚偽であるということも。
「では何故、そのように身も蓋もなく泣いていらっしゃるのです? 家へ帰れるのでしたら、もっと嬉しそうになさってもよろしいのに」
薔珠に困惑の体で尋ねられて、何度も擦って振り落とす涙がとめどないことに困りながら何とか笑う。
「………ふ、フラれちゃった……」
しゃくり上げながら答えた言葉に、四人は無言で顔を見合わせた。
「……まさか。殿下が? 姫さまをですの?」
「だ、だって、ニセモノの婚約者だもの……。本当の、婚約者が忘れられないって……」
「そんな。知る限り殿下にご婚約者はいらっしゃいませんわ。弟からも聞いたことはございません」
白玖音が憤慨したように言うのは、そんな嘘をついてまで海夜を遠ざけようとするのかと皇子に頭にきたらしい。
「いえ、白玖音殿。殿下が皇宮に入られたのは十三歳の時です。それ以前は祖父君の屋敷で自由に過ごしていらした。虎殿が把握できぬこともあったでしょう」
「……ですが、黄花・サディルの姫君でいらっしゃいますのに」
「仰ることはわかります。父と兄も、このご縁組は大層喜び期待しています。姉が口を挟めぬ文句なしの良縁ですから。流石に平群公の娘と実の妹に手出しはできぬ姉であっても、それ以外は虫ケラ扱いです。……言いにくいことですが、殿下のそのご婚約者という方も姉にとってはそういうものだったでしょう」
「……そんな……」
眞苑と白玖音は薔珠の言葉に青ざめて言葉を失った。
「だからといって、姫を傷つけていい理由にはならないと思いますが。本当に姫がお帰りになるかどうかも判然としない中で、残酷な」
シャイマの静かな声は怒りを抑え込んでいた。人から冷静だといわれるシャイマだが、実は情に厚い。
今回のことは流れで告白してしまっただけで皇子に非はないのに、海夜の立場で味方をしてくれる。
「……そうだな。姫君、本当にお帰りになられるのですか?」
薔珠の確認するような質問に詰まる。
帰るのか、どうなのか。
先程までは帰らないと息巻いていたけれど、ここに居たらいずれ皇子が本当に好きになって結婚する相手を、この目で見ることになるだろう。
………でも皇子はあんな風に触れて、“諦められない”と囁いた。
どういうことなんだろう。
このままここに留まったら、いつかは海夜を見てくれる日が来るのか。
そう期待したくもなる。
けれどそうじゃなかったら?
そう考えるのがこわい。
その先を、未来を見られないことが。
そんな前提が自分の中にあることが、こわくてならない。
感情だけで言葉にしてはいけませんよ、と祖母がよく言っていたけれど、感情にしか支配されない時もあるのだと、よくよく学んでしまった。
「……帰らなければいけない理由があるのかしら、と考えてしまうの……。帰りたい理由はあっても、帰らなければいけない理由はわからない……。だったら、帰りたくない気持ちの方が強いの……」
この後に及んでも、まだ帰りたくないなんて我儘を言ってしまう。
自覚した初恋は簡単に手放せないらしい。
再び盛り上がる涙を、もう拭う気にもなれなくて落ちるに任せておく。
その涙をシャイマが自身のハンカチで拭ってくれるのが温かくてありがたくて、笑顔になりたいのになれない自分が情けなかった。
お読みいただきありがとうございます♪
ブックマーク等大変嬉しいです。
ありがとうございます。




