第二十八話 報せ
軽微な性的描写あり。
苦手な方はご注意下さい。
全然平気って方は鼻で笑って下さい。
主人のあんな顔を見る日が来るとは、虎は思いもしなかった。
豆鉄砲、と皇女も思ったらしい表情はすぐに眉間の皺で隠された。だが内緒話をするように耳打ちする皇女を、あの場にいた者は皆目撃した筈だ。
あの行動自体を主人が許容したことがまず一つ目の驚きだっただろう。
しかし何より度肝を抜いたのは、その直後に主人が笑ったことだ。
皇女と関わるようになって、主人はよく笑うようになった。
声に出して笑うことなど、ここ数年は目にすることもなかったのに。
政治上の駆け引きで計算ずくの笑みはあっても、感情の発露による笑顔など皇宮内の者は見たこともなかっただろう。
だからと虎は危惧する。
主人にとっての特別なものを目にして、我慢できる筈のない者がこの場に同席していることを。
艶やかな笑顔の下の、ドス黒い虚栄心と欲を主人はよく知っている筈だ。
握りしめた羽扇が真っ二つに折れても笑顔を崩さない、外面の良さ。外見の美麗さと相反する彼女の心の闇の為に、どれだけの人間達が人生を狂わされてきたか。
主人が知らない筈はないのに。
知らしめるように、皇女を特別扱いする。
その危険性と利益とを、天秤にかけるように。
大きなリスクを背負っていると覚悟はしているだろうが、皇女の身を守れたとしても、虎が始めに危惧し忠言したことは主人の中に残っているだろうか。
諦めにも似たため息をつくしかなかった。
※
時ならぬ嵐のように雷鳴が響く。
稲光りに窓枠の影が部屋の床に落ちるが、お構いなしに女は嬌声を上げている。
窓の外が光る度に白く豊満な体が視界の中に浮かび上がり、淫らな動きに乱れては激しく喘いでいる。
この女と肌を合わせるようになってどれ程になるのか。もう互いのいい所など知り尽くして、探す気にもならない。
惰性のように繋がって、女が満足いくまでこうして下から眺めているだけだ。
上から見る男性の顔が好きですの、と淫靡に笑いながら宣言する所がこの女の性質を物語っている。
征服した気にでもなっているのか。
だが今夜は、女の気が立っていることには気づいていた。
いつもならそれなりに雰囲気を作るくせに、今夜は顔を合わせるなり寝台へ押し倒してきたのだ。
何かあったのか、と問いかけるこちらの言葉など聞こえぬふりで性急に事を始める。
滑稽で笑いそうになった。
まあ、この女の機嫌を左右することなどそう多くはなく、大半は下らない理由だ。
貴種の子だが、貴種ではない。
本人がどうしようもない事実こそ、深く傷つくのだそうだ。
知ったことか。
貴種の娘だというだけでおぞましい。
あの男の縁戚であること自体が罪だ。
だがこの女の利用価値はまだある。
黄花・サディルの掛けた呪は、黄花・サディルにしか解けないのだから。
※
三日間開催の武術指南を全日見学して、皇子に嫌な顔をされながらも追い返されず、海夜はご機嫌だった。
次はどうやって皇子の左手首を捕らえるか。
侍衛官達と妄想混じりに話し合うのは幼馴染達を思い出して懐かしく、純粋に楽しい。
読める文字もだいぶ増え、単語を覚えたり助詞の使い方を覚えたりと、この国での出来事を楽しく前向きに捉えて、海夜なりにうまく過ごすことができるようになった矢先だった。
剣術指南の日から四日経った夜。
三影からキアリズ皇子へと報告が上がっている、日本への帰還の進捗状況。
それを聞きに行くのが、晩餐会後の毎晩の日課となっていた。
皇子の私室に入る訳にはいかないので、皇族が私用で使う共用の応接室の一つを報告会用に使っていた。だが今日は部屋に入った途端、戻って待機、と侍衛官二人は追い払われてしまった。
そんなに聞かれてはならない内容なのか。
いつもなら控えの間で待機している侍衛官達も、疑問顔で引き上げていったが不思議がっている場合じゃない。
最近、皇子の顔を見ると平静でいられない。心臓が痛いように軋むし、顔が熱くてなるべく傍へ近寄りたくない。
夜に顔を合わせていると周囲に知られたら、有ること無いこと噂されるので、応接室自体の明かりも必要最低限なのに、その薄暗い中に二人きりとか、……むり。
(無理むりむり、いや、今日はこのまま部屋に戻ろう!)
パニックになりかけて、思ったままに踵を返そうとした海夜を押し留めるように、皇子が声を出す。
「海夜、聞け」
強く名を呼ぶ皇子の声は、硬かった。
いつもは若干眠そうな柔らかな響きがあるのに、今日は緊張するような、感情を押し殺した硬さがある。
まるで、初めて会った頃に戻ったみたいに。
肩が緊張して、踵を返しかけた足をきちんと皇子に向け直す。
「空間管理とやらと連絡がついたそうだ。おまえの事情を話して、数日内には返答が来る」
「………え、本当に?」
一瞬何を言われたのかわからなかったが、理解した途端胃の辺りを掴まれたように心臓が軋んだ。
この数日間の浮かれた気持ちもどこかにすっ飛んで行ってしまう、重い報せだ。
……ん、いや待って。
どうして家に帰れるかもしれない報せが、重いだなんて感じるのか。
嬉しい筈だ。ううん、筈じゃない。
混じり気なく嬉しい。
親しい人達に会える。またあの日常を取り戻せるかもしれない。
その報せを、どうして素直に喜べないの。
「だいぶ時間がかかった。おれの予想ではもっと早く、日本へ帰してやれる筈だったんだが。遅くなって悪かった」
「……あなたが謝るのは、変だわ。だって、もっともっと時間がかかると思っていたし……」
本当に帰れるとは、正直思っていなかった所もある。
「おまえから継父の話が出なければ、まだ動きはなかったかもしれない」
腕を組んで疲れたように息をつく皇子に、大きく瞬いて首を傾げた。
何故そこで継父が出て来るのだろう。
「継父が何か関係ある? 忙しい人だし、わたしがここに来た時も出張で何日か家を留守にしていた時だったから、わたしがいなくなったことを知ったのもだいぶ後だと思うわ」
あの剣術指南の日、話していなかったと気づいた母の再婚相手について話した。
実の父は未だに行方不明のまま、母はずっと帰って来るのを待ち続けていた。
それが海夜が高校一年生の春の終わりに、突然再婚相手として一人の男性を紹介されたのだ。
それが今の継父。
日常を和服で過ごすような一風変わった人だけど、それがかなりハマってしまう重厚な雰囲気を持つ人。
ホームビデオの中の実の父に通じる雰囲気を持つ人で、何となく母がこういう人を連れてきたのは納得いった。
好みの問題と兄は言うけれど、異性に惹かれる要素がそういうものなら、確かに母の好みがその辺にあるのだろうとは思った。
「……おまえの継父の名は、“天降“だと言ったな?」
「ええ、そう。うちに入ってくれたから、平尾天降。それがどうかした?」
「その名は非常に不愉快な名だが、聞き覚えがある」
腕を組み火の入っていないマントルピースに寄りかかって、皇子はどこか冷めた口調で言った。
(血の繋がりはないけど、人の身内をよくそこまで悪し様に……)
もはや感心しながら、数日前に継父の話をした時の皇子と三影の顔を思い出す。
二人とも眉間に皺が寄ったのは共通だったが、三影が苦笑気味だったのに対し皇子は心底嫌そうな軽蔑するような、触らぬ神以外の何者でもない反応をしたのだ。
あの時は触れることもできなくてそっと閉じた話題だったが、話す気になったのか。
「夜花と花梨が日本に降りた時の、水先案内人の名がそれだ」
「………は? ……だってそれ、五十二年も前の話でしょう?」
「そうだな。だが同一人物だろう。天降を寄越せ、と言っただけで奴ら態度を変えたからな。おまえの傍に空間管理の者がいた筈なのに、この体たらくは失態に他ならない」
「……失態……。同一人物って……。何でそんな人が母の相手に……」
「ヒトではないぞ。亜種でも貴種でもない、正真正銘の人間ではないものだ。精霊に近いものではあるが精霊とも違う」
……何それ、二年以上ずっと同じ屋根の下で暮らした人なのに。
そんなオカルト系ホラーのように言われる人には見えなかった。むしろ人格者のような……。
「……母は知ってるのかしら……」
「……帰って本人に訊け」
………帰る。
無言で俯き、肩に懸けてきた毛織りのショールを握り込む。
同じように無言で皇子はマントルピースから離れた。
「今日の報告はこれだけだ。数日中には結果もわかる。それまでもう少し待っていろ」
そう言って横をすり抜けようとするので、思わずその袖を引いてしまった。
そんな自分の行動に、はっと我にかえり動揺する。
いけない、無意識だった。
「……なんだ」
無言のまま袖から手を離せないでいると、皇子は硬い声のまま問いかけてくる。
迷惑そうな、早く離せと言いたいような。
けれど海夜は、まだこの時間を手放すことが出来なくて、何か理由を見つけようと必死に頭を巡らせる。
浮かぶのは左手首の件だ。
侍衛官達とこの数日何度も話し合ったけれど、自然に手首同士をくっつける方法なんて思い浮かばない。
悩ましいわ、と笑い合った。
でももう、笑っている時間もないかもしれない。
有言実行、不言実行。
有能を絵に描いたような皇子が、確信を持って数日以内と宣言したのだから、間違いなく家へ帰れる。
その前に確認したいこと。
家に帰るなら、もう恥は掻き捨てだと開き直れること。
「……左の、手首……見せて」
袖から手を離し、左手首の内側を示す。
皇子が微妙に眉間に皺を寄せるのがわかって、竦みそうになる心を叱咤する。
「ちょっと試したいだけなの。……すぐに済むから」
どうしてもこれだけは確認したい。
そうしなければ日本に帰っても、ずっと胸の奥のしこりとして残りそうだから。
憂いなく、生きていきたいから––––––。
頭上でため息が零されたのがわかった。
面倒な、と言いたげな。
彼の口癖の“鬱陶しい”という言葉が今にも落ちてきそうで、こわくて目を強く瞑る。
だが落ちてきた言葉は。
「––––––ほら」
仕方がないと言うように、皇子は左手首の内側を海夜に向けて差し出した。
わざわざ袖口を少し上げて、よく見えるように。
びっくりしたが、そうだった。
この人はこういう人だった。
意地悪なのに、優しい。
こちらが真剣な態度ならちゃんと真剣に向き合ってくれる。
たった一ヶ月の間に、沢山のいい所も嫌な所も知った。
心臓が口から飛び出しそうって上手い表現だわ、と思う。
皇子の左手首の内側に、自分の左手首の内側をそっと乗せるようにくっつけた。
しばらく待ってみる。……何も起こらない。
もう少し待ってみる。
……けれど光る所か、何も変化は起こらなかった。
(––––––うん、何かそんな気はしてた)
あれだけ悩んで大騒ぎして、大事な侍衛官達に怪我までさせて確認したかったことは、こんなたった数十秒で済んでしまうことだった。
しかも結果は惨敗だ。
結局あの男の子が誰だったのか、この左手首には本当に番になる花が刻まれているのか。
それすらあやふやになった。
「……気が済んだか」
皇子にぽつりと囁かれてはっと正気づく。
「っありがとう、ごめんなさ……、……っ」
慌てて手を離そうとして、その手首を掴まれたことに息を飲んだ。
強く掴まれた訳ではない彼の手の中で、自分の手首があまりにも頼りなく、皇子の手が大きく見えてどきりとする。
すぐに離してくれたけれど完全に離れる直前、皇子の指は海夜の手首の内側をすり、と意味ありげに撫でていった。
その仕草に耳の後ろ辺りがぞくりと粟立つ。
そんな自分の反応に戸惑い、左手を引っ込めた。
無表情のまま皇子が踵を返す。
もう引き留める言葉もなくて大人しく見送ろうとした耳に、三影の言葉が蘇った。
“日本へ帰りたいっていう、それを超える何かが、ここにあるとは考えない?“
––––––考えなかったわけじゃない。
でも、考えることがこわかった。
日本へ帰りたい気持ちを超える何かなんて、そんなものに出会って、もし拒否されたら?
拒否される前提が自分の中にあることが。
思い出すことが。
……こわかった。
でもいざ日本へ帰れると言われたら、嬉しいと思う気持ちの前に、帰りたくないと思ってしまった。
……そうだ、帰りたくない。
どうしてそう思うのか。
考えるより早く、口に出していた。
「わたし、ここに残ったらだめ?」
耳を疑うという体で振り向いた皇子は、不可解そうに眉根を寄せて、「なんだと?」と問い返してきた。
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