第二十三話 虹の彼方に
浮き上がる小さな気泡を見送って、海夜は沈むに任せていた。
虹色の光に反射して、自分の中から失われる空気がこんなに美しいなんて皮肉だ。
(これ、まずいわよね? 夜の湖に落ちるだけでもまずいのに、沈んでいるなんて)
でも、いくら服が重くても、こんなに沈み続ける程深い湖だろうか。落ちる時の状況も不自然だったし。
ふと水の流れを感じた。大きな何かが体のすぐ側を通り過ぎたような。
そして突然、視界の中に顔が現れる。
驚いて肺の空気が一気に水中に逃げ出した。
(……っこのままだと酸欠に……っ)
両手で口を押さえてこれ以上空気が漏れないようにした時、耳元に声が聞こえた。
「大丈夫。コチラガ呼ンダノダカラ、無事ニ帰スヨ。目ヲ開ケテ」
性別不明の不思議な声。
言われた通り恐る恐る目を開けると、虹色にぼんやりと光る水中灯しか見えていなかった目に、水中カメラの映像のように景色が鮮明に映る。
(キャー! 凄い……!)
鉱物の結晶が輝き、色とりどりの水草と光る泡、煌めく貝殻や鱗を光らせる魚達。
極彩色に彩られ、水中の楽園のように明るく美しい景色の中を、優雅に舞うように腰から下が魚の精霊たちが泳いでいる。
奥に見えたのは開いた大きな貝の玉座に座る、銀色の鱗を煌めかせた人魚の精霊だ。一際目を引く存在感は魔女のようでも女王のようでもあって、小さな頃憧れた人魚姫の世界の只中に、人魚姫らしき海の魔女らしき存在が鎮座している光景は不思議でもあった。
「コンバンハ、黄花・サディルノ娘。皇城ニ住マウ者トシテ挨拶ヲト思イ、手荒ナ真似ヲシタ。許セ」
挨拶を返そうとして、口から空気の泡しか出ないことに気づく。
傍を通りかかった精霊が小さな気泡を口に放り込んでくれて、途端に息苦しかった体が楽になった。
「黄花・サディルノ女ガ戻ッタトイウノハ、皇城ノ者ハ皆知ッテイルヨ。ダカラ、誰ヨリ先ニ会ッテオカネバト思ッテイタ」
(どうして? 会わなきゃって、使命みたいに。)
内心で考えたことが伝わったのか、人魚姫のような外見で魔女のような威厳を纏う精霊は、尾鰭をくねらせながら目を伏せた。
「四百年前、黄花・サディルノ男ヲ喰ッタノハ、我ガ眷属ダ。ソノ後悪鬼ニマデ堕チテ、其方ノ一族ヲ屠ッタ。申シ訳ナク思ウ」
これが地上だったら驚きで息を飲んでいた。
この人魚達の一人が天馬を喰べて悪鬼になり、五十二年前に黄花・サディルの一族を皆殺しにした?
でもそれは当人達の問題で、眷属だからと責任を感じることではないのでは? 五十二年も経っているし。
そう考えるが、人魚達は一斉に「違ウ」「止メタ」「止メラレナカッタ」「アノ子ハ違ウ」と喚き始める。
彼らのその反応に驚くが、すぐに気づいた。
時間の感覚が人間と精霊では違うのかもしれない。事件を昨日のことのように感じているのか。
「皇城ニ住マウ者デハナカッタ。穢レト呼バレタ子ダッタヨ。赫イ汚レタ水ニ棲ム者ダッタ。独リ誰カラモ省ミラレズニ過シテイタノヲ、黄花・サディルノ男ガ見ツケタ。アノ男モ独リダッタカラ、呼ビ合ッタノカモシレナイ」
憐れむように人魚の魔女が言うのを聞いて、違和感を持った。
聞いた話と齟齬がある。
天馬は精霊を手駒のように扱っていたと聞いたのに。
……でも、記録上の話、とも皇子は言っていた。真実は当時見ていた者にしか判断できない、とも。
そこで気づいた。
当時、この精霊達は全てを見ていた。
凶行を止められなかったと子孫である海夜に謝罪する為、無理やりここに連れて来る程罪悪感を感じて。
……じゃあ皇子は?
黄花・サディルの直系男子として精霊と関わっていたキアリズ皇子は。
この話を、知っているんじゃ。
「男ヲ喰ラッタ穢レ子ヲ止メラレナカッタ。四百年間、直系男子ヲ喰ラウ事ニ執心スルアノ子ヲ止メラレテイレバ、アンナ惨事ハ起コラナカッタカモシレナイ」
聞こえた言葉に、思考が追いつかなかった。
天馬が誅されて以降、黄花・サディルでは直系男子が厭われたという話をされただけで、具体的にどういう待遇を受けていたかは聞かされていない。
四百年間、直系男子が一人も生まれていないなんてことはありえない筈。
……では、その生まれた男子はどうなっていたのか。
“彼は生まれる以前に殺されていただろう“
國皇の言葉が脳裏に蘇り、がん、と頭を何かで殴られたような錯覚が襲った。ぐらりと視界が反転しそうになる。
「アノ穢レ子ハアノ男ヲ救イタイト言ッテイタ。独リ時ヲ渡ルノハ嫌ダト、アノ男ヲ独リニスルノハ嫌ダト言ッテ。アノ子ハ貴種トハイエ人間ニ恋ヲシテ、二度ト戻ラナカッタ」
––––––人間に恋をした、精霊。
二度と戻らなかった。
海の泡となって消えた人魚姫のような話なのに、その先にあった結末は恋した人の血族を喰らい続ける、血みどろの未来だった。
「其方ハオカシナコトニ、人間ヨリ精霊ニ近イ。アノ子ノ姿モ見エルダロウ」
何てことを言うんだろう。
人間より精霊に近いなんて、十八年間普通に生きた人間に言う言葉じゃない。
眉間に皺を寄せると魔女は笑った。
「自分ヲ知ラヌカ。其方、自身ヲ知ル事ヲ拒ンデイルネ」
(当然だわ。ここで初めて知ったことばかりで、それを受け入れるだけでも必死なのに)
「違ウネ。ヒビガ見エル。其方ノ殻カナ。後ヒト押シカ、ソノママ潰レルカ。手ヲ貸ソウカ」
そう言って、魔女は人差し指をこちらに向けた。長く伸びた爪が鋭く肩の辺りを引っ掻こうとした時、上空で微かな水音がした。
その音は空間全体を静かに揺さぶり、残響のように広がっていく。
「オヤ、オ迎エダ。挨拶ト頼ミ事ヲスルダケノツモリガ、長ク話シスギタナ。アノ坊ヤハ心配性ダッタネ、ソウイエバ」
すぐに手を引っ込めた魔女は苦笑した。
「アノ子ヲ助ケテアゲテホシイ。ココニ呼ンダノハ、ソレヲ頼ミタカタッタカラダヨ」
(助ける?
そんな事わたしにできる? 精霊でしょう?)
「アノ子ノ姿ガ見エタダロウ。ソレダケデ十分可能性ガアルヨ。アノ子ハアノ男ニ“金魚”ト呼バレテイタ。ソウイウ者ニ心当タリハ?」
魔女の言葉に思い出すのは、オレンジ色の子供の姿だ。
(見た……けれど、子供だったわ。恋なんて縁遠そうな)
海夜の声に魔女はふふ、と含むように笑った。
「アノ坊ヤニモ気ヲツケテオアゲ。アレハ、アノ男ニヨク似テイルヨ」
最後に加えられた言葉に、心臓が鷲掴まれたように痛んだ。
(坊やって誰のこと。誰に似てるっていうの!)
心の叫びが口から飛び出しそうになった時、肩を強く後ろに引かれ、水の中なのに倒れそうになる。
それを誰かの腕に受け止められて、沢山の泡に包まれた。
※
力が抜けて座り込んだ青いガウンの少女が、火がついたように泣き出した。
人々の動きを監視しながら、立ち尽くす四道伯を横目に見て、虎は気の毒にと同情する。
主人の一言は、中々の威力で彼の良心に爪を立てた筈だ。
「何? 落ち込んでんの?」
そこに塩を塗り込むのが、兄を崇拝に近い形で慕っている第二皇子だ。
「……己の迂闊さに打ちのめされています……」
「だったら言わなきゃいいのに」
「そういう訳には参りません。殿下あっての我々です」
臣下の鑑のようなことを言う四道伯を三影は鼻で笑う。
「そういうこと言うから、兄貴に怒られるんだよ」
「……ではどう言えと」
「皇女に関して何も言うな」
透き通る緑の瞳を虹色の光に反射させながら、彼は無感情に言葉を続けた。
「お前達が己の血族に命を賭けられぬことを兄はよく知っている」
「殿下、それは酷です。命を賭けることと忠義を同等に捉えられては、我らの立つ瀬もない」
「その忠義と正義が兄の中で重ならないなら意味もない」
オズが四道伯を庇うように言うのを、三影はすげなく切り捨てる。
虎が仕えるこの兄弟は口が悪くて申し訳ない。
そこに衣擦れの音をさせて割り込んできた一団に、三影は舌打ちした。
「まぁ、どうなさったの? 何を泣いているの」
豪奢なガウンを纏い、そのボリュームと煌びやかさに埋もれない肢体は、この場の男達の目を引く。
深い谷間に落ちる首飾りの宝石の輝きにも負けず、四道伯の姉である那珠は輝く美貌で泣いている少女に微笑みかけた。
「そんなに泣かないで。殿下、怖いお顔。真道が動いてはダメだというから何事かと思って」
「出たな、悪役令嬢」
ボソリと三影が呟いた声が聞こえて、虎は首を傾げた。
“悪役令嬢”。
悪口だとしても不思議な言葉だ。
「動くなと言われたんだからじっとしてなよ。貴女達はホント面倒くさい」
泣きじゃくる少女の介抱をする璃珠も一括りに、三影は嫌そうに息をついた。
「まっ、お言葉ね。私達が何をしたと仰るの?」
「ご令嬢が湖に落ちたんだよ。原因を作ったでしょ?」
「濡れ衣だわ。夜の湖に落ちるだなんて大変ではなくて? 何故ここに留められているのかしら。人を呼びに行った方がよろしくてよ」
「騒ぎを大きくしてご令嬢の顔に泥を塗るつもり?」
「意地悪な考え方だわ。早く助けて差し上げて」
「もう行ったよ、兄貴が」
「……何ですって?」
楽器的なきゃらきゃらと高く甘い声で話していた那珠の声が、一段低くなった。
明らかに気分を害して弟の四道伯に鋭く目をやる。
「四道、お止め申し上げなかったの? 殿下に何かあったらどうするのよ」
「言われずともお止め申し上げました。しっかり叱られましたが」
「だから何。体を張ってでもお止め申し上げるのが貴方達の役目でしょう。愚か者」
弟への高圧的な態度が主人達に不評だというのに、姉の権利とばかりに年下の兄弟を顎で使おうとする、那珠は根っからのお嬢様気質だ。
そういう女性が好みの者には、その外見も相まって熱烈な支持を得ているが、逆にそれを苦手に思う者も多い。
特に主人達兄弟は幼い頃からの印象もあり、彼女達への評価は辛口だ。それを知っているのに、嫌がらせのように那珠は主人への執着を見せる。
それもこれも、主人が十三歳の時に御前武術大会で優勝したことから始まっている。あの時に、誰もが主人が皇位継承に関わってくると確信したからだ。
周囲には自分の身分と結婚相手の身分とを慮っていると説明しているが、それも方便だ。
二十七歳の女盛りの今でさえ、成人したばかりの主人に拘り他に求婚があっても目も向けない。
そうして築かれた那珠への求婚者の屍が、変な情熱となって親衛隊の如く周囲を固めていることも、主人にとっては鬱陶しいのだろう。
事あるごとに、彼らは那珠への便宜を図るからだ。
今回もその存在達が関わっているだろうことは、薄く見えていた。
「早く誰か捜しに行かせなさいな。夜の湖に殿下がいらっしゃるなんて、許されませんよ」
「黙って待ってなって。すぐ戻ってくるよ」
「ご自分が行っているわけでもないのに、何故そう言えますの」
「そっくりそのまま返す」
三影と那珠がいがみ合うのを他所に、岸から少し離れた湖の中で小さく気泡が上がる。
「三影さま、あちらに」
気づいて三影に声を掛けると、彼はすぐに岸に駆け寄った。
四道達も駆け寄り、気泡の上がる箇所を注視する。
少しずつ気泡の数が増え、すぐに湖面に顔を出した主人と皇女に皆が胸を撫で下ろした。
「はぁ、良かった。信じてたって、顔見るまでは安心できないもんね」
三影の心底安堵した声に虎も頷く。
岸まで皇女を抱きかかえたまま泳いで来た主人は、こちらに目を寄越した。
「虎、三影、上げろ」
護岸されている岸辺では、どうしても湖面と岸との高低差は大きくなる。
水に衣服が濡れた状態では、一人で岸に上がることは細身の皇女では無理だろう。まして、足に怪我まであるのだ。
二人がかりで引き上げ、且つ下から主人が支えてようやく地上に上がれた皇女は、体力の限界のように座り込んだ。
三影が急いで自分の外套を肩から被せて、ずぶ濡れの身体をくるむ。
続けて岸に上がった主人に長剣を手渡し、肩に外套を掛けると疲れたように一つ息をついた。
「ねえさん、足、血が出ちゃってるね」
三影が指摘する部分に目をやると、薄緑色の美しかったガウンの裾が足に張り付くように纏わり付き、滲む赤い色が見えた。
「……あぁ、美津里さんと天地さんに叱られちゃう……」
「二人に叱られるのはおれと三影だ。心配するな」
主人が声をかけると、皇女は少しこちらに振り向いてふにゃりと泣きそうに笑った。
その笑顔が心許なかった気がして首を傾げた時、青いドレスの少女が額を地面に擦り付けんばかりの勢いで叫んだ。
『ごめっごめんなさいっ!! あたし、そんなつもりじゃ……っ! ちょっと脅かしてやろう、ってだけで……っ、まさか、あんな、か、簡単に、足引っ掛かって、落ちるなんて……っお、思わなくて……っ!』
日本語の謝罪は動揺と皇女個人に向けてのものだが、すぐに反応するのは四道伯とオズだ。
「来訪者か。同郷の者によくもそこまでできるな」
黄國の貴族ならば教養として来訪者の言葉も学ぶ。
話すことはできなくとも、ゆっくりした会話なら聞き取れるという者は多い。
早口だと虎にはお手上げだが、主人達は難なく聞き取れるしあの姉妹も同様だ。
「おやめなさいな、四道。謝っているじゃない」
「そうよ、まだ幼気な子よ。右も左もわからずに貴族社会にいるのだから、広い心で見てあげて」
泣いている少女を庇うように両隣から支えて、姉妹は美しい顔で笑った。
「ねぇ、海夜さま。ちょっとした悪戯心よ。無事に戻られたのだし、この子は私達に任せて今夜のことは忘れて下さいませ」
「よぉく言い聞かせておきますわ。どれだけ罪深いことをしてしまったか。ね?」
「ね?」
今度は皇女に直接畳み掛ける姉妹に、主人が呆れて舌打ちする。
だが無反応の皇女に姉妹が「海夜さま?」と首を傾げるのを見て、訝しげに眉間を寄せた。
その声に皇女はハッと顔を上げる。
「……凄く眠くて聞こえてなかった」
場にそぐわない暢気な言葉に、姉妹始めその場の者達の力が抜けるのを虎は見た。
「……えぇと、詩織さん? わたし、足に引っ掛かってないから安心して。あの時ちょっとバランス崩して、そのまま落ちてしまっただけ。誰のせいでもないわ」
嘘偽りなく皇女は事実のみを淡々と口にしている。それしかないのだと、周囲にも信じ込ませるように。
それから、ふと嬉しそうに空を仰いで笑った。
「でもお陰で、竜宮城を見て来たの」
『は、竜宮……?』
「あ、表現が日本的すぎる? ……そうね、リトル・マーメイ○(著作権)の世界!」
詩織と呼ばれた来訪者の少女は、狐につままれたような顔で皇女を見返す。
「綺麗だったわ。色とりどりの水草とか貝とか、光る泡も自由に泳ぐ人魚達も」
『……もしかして、アリエ○(著作権)?』
「そう、それ! 大好きなの! 知っている? アリエ○(著作権)って、十六歳なのよ。あなたと同じ」
肩からずり落ちそうになる外套を押さえて、皇女はうふふ、と笑った。
「十六歳で運命の恋を見つけて、大好きな家族の元を離れるの。それも惜しくないと思える程の人って、本当に羨ましいと思ったわ。だから、十六歳ってわたしの中では特別なのよ。何も起きずに通り過ぎたけど」
最後の言葉は面白くなさそうなだったが、それが詩織という少女には響いたらしい。
あれ程泣いていたのに、おかしそうに笑って首を傾げる。
「十六歳って、トクベツ……?」
ようやくこちらの言葉を使えるだけの心の余裕が持てたらしい。
「特別だわ。わたしにとっては。運命を見つける年齢」
「アンデルセン、の、人魚姫、は、十五歳なのに」
「あれは別のお話。わたし、あの話の王子さま嫌い」
王子が嫌い、という単語に現役皇子二人が微妙に反応したのが意外だった。
意外とはっきりものを言う皇女にも驚いたが。
主人は苛立たしそうに腕を組み、皇女の隣に座り込んでいる三影は「えぇ、マジで……?」と呟いている。
「思わせぶりなこと思いっきりしておいて、本当に好きな子は別にいるとか最低じゃない? 王子さまって、そういう生き物?」
「酷い風評被害だな」
さすがに悪し様過ぎるのか、主人が口を挟むが皇女は止まらない。
少々普段と様子が違うと思うのは、気のせいか。
「人魚姫もそう。そんな王子さま嫌いになっちゃえばいいのにできなくて、泣きながら海の泡になるってどれだけおばかさんなの」
『……悲劇に酔えるって、ある意味バカだからかな……あたしみたいに』
少女は自嘲気味に俯いて、また泣きそうになる。
それを黙って見ていた皇女は、突然勢いよく立ち上がった。隣の三影が驚いたように慌てて支えようと立ち上がるのを制して、皇女は高らかに宣言する。
「詩織さん、わたし歌うわ」
やはり、普段と違うと思った通りだった。
「はい!? ねえさん、ちょっと待って」
慌てるのは、隣で様子を見ていた三影だ。
主人は無表情だが、どこか呆気にとられて腕を組んだまま皇女の言動を見ている。
「止めないで、三影くん。さっきのオズって名前で思い出した歌があるの」
「いやいや、だいぶ突然でしょ、どうしたの!?」
名指しされたオズに皆の視線が集まり、彼は関係ないと弁明するように強く首を振った。
「“虹の彼方に”って、うちの祖母と母が好きな曲なの。知っている?」
問われた少女は戸惑いながら首を傾げた。
だが皇女は問答無用で歌い出す。
日本語とも、こちらの言語のどれとも違うイントネーションを持つ不思議な響きだった。
高く低く何度か同じ旋律を繰り返し、内容はわからずとも美しい調べの、どこか懐かしさと物悲しさが漂う曲。
「……音痴だな」
苦笑気味に呟く主人に、そんなことはないですよ、と首を振るが無視された。
一曲を立派に歌い切った皇女は、少女に無邪気に笑いかけている。
「どう? 聴いたことない?」
『……あるような、ないような……』
「えぇ……、有名なのに……」
「おれは知っているな」
背後に立った主人に驚いて皇女は飛び退いた。
「あっちじゃなくて、こっちが知ってるの!? どうしてっ?」
「子供の頃によく聴いた。虹の向こうに知らない国があって、願いが叶うとかいう歌だろう」
「そうだけど、あなたが言うと情緒がないわ」
「余計なお世話だ」
遠慮のないやり取りに、来訪者の少女が堪えきれないように笑い出す。
周囲も笑い出し、皇女はもう一度少女に笑いかけた。
「辛くて悲しいことは、虹の彼方に置いて来たの。そう思って、いいことを見つけましょう?」
「そういう歌だったか?」
「いいの。楽しいから」
そう言って鼻歌を歌い出す皇女を横に、主人は姉妹へ目を向けた。
「何を飲ませた」
無感情の視線と底冷えする響きの声に、笑っていた集団もぎゅう、と押し黙る。
「……何のことですの。お酒は呑めないと仰るので、お茶をご用意致しましたわ。それだけです」
「貴様らと話した後から様子がおかしい。開く筈のない傷も出血している。強い酒でも茶に混ぜたか」
「全く知りませんわ。あったとしたら、お茶を淹れた者の不手際です」
あっさりと手札を捨てる姉妹に、主人は氷の視線を投げた。
「この始末はつける」
「お出来になりますの? 我が家の後ろ盾は必要でしょう?」
「めでたい頭だな」
吐き捨て、主人は三影に手を取られてまだ楽しそうに歌っている皇女に声を掛ける。
「海夜、戻るぞ。着替えないとさすがに風邪を引く」
「大丈夫よ、暑いもの」
「脱ぐな」
肩の外套を脱ごうとする所を主人に無理やり戻される。
そうして気づいたように、皇女は逆に主人が肩に掛けている外套を両側から引っ張り、その顔を覗き込んだ。
まじまじと覗き込んで眺めているのは、おそらく瞳だろう。左右異色の話はしてあるらしいが何かあっただろうか。
ややあって、皇女は複雑そうに笑った。
「ホント。緑なのね、混ざってる色」
呟いて、そのまま沈黙する。
注目していた衆目も首を傾げる程長い沈黙に、主人が重いため息をついた。
「……おい寝るな。また部屋まで運ぶのか」
電池が切れたおもちゃのように主人に凭れたまま、ぶらりと下がる手を見て虎も苦笑するしかなかった。
お読みいただきありがとうございます♪
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