第十八話 晩餐会準備
ああ夢だ、と思った。
ほんの短い幸せを垣間見る夢の中を、海夜の意識が漂う。
蕾が綻び始めた平尾家の私道の桜並木は、ここ数日の暑い程の陽気で一気に開花が進んだ。
例年ならば人が足を止めて見入っていく光景が見られる。
だが今年は人の出入りに制限を設けている為、この桜を見るのもごく少数だった。
「毎年綺麗だね、海夜んちの桜! これを見れるだけで生きててよかったって思えるよね!」
「お前の表現て、何でいちいち大袈裟なん? ゲームとか漫画の影響?」
「詩的な表現が理解できない奴に、何言っても無駄無駄無駄ァ!」
「詩的の意味が理解できてない奴に何言ってもムダ」
いつも通り口喧嘩の始まる幼馴染たちに、仕方ないなぁと苦笑して、目の前をチラチラと通り過ぎる花びらを掴もうとする。
かすりもしないことに、むぅ、と眉が寄った。何度か挑戦してもやはり全く、惜しくもないぐらいにかすらない。
「何踊ってんだ?」
花びらを夢中で追いかけ過ぎて、周囲が見えていなかった。
幼馴染たちはまだ言い争っているから、声をかけてきたのは第三者だ。
その声の主に「踊ってないわっ」とムキになって言い返す。
「花びらを捕まえられると願い事が叶うジンクスがあるよって、美鈴から聞いたから。捕まえたいの」
「………子供騙し」
「いいの。自分にいいと思うことは、全部やりたいの」
何とか捕まえようと追いかけるが、むしろ花びらの方が自分から逃げる。
それを見て、声の主の彼は声を上げて笑った。
「それだと逆に、おまえが煽ってることになるから、捕まえられるわけねぇだろ」
「じゃあやって見せて」
そんなに言うなら、ぜひともお手本を見せて頂きたい。
拗ねたように言うと、彼はちょうど目の前を通り過ぎようとしていた花びらの前に、するりと静かに手を差し出して、その手の中に閉じ込めた。
いとも簡単なその仕草に、あんぐりと口が開く。
「……何でそう簡単に」
「花びらみたいな軽い物、手を動かした勢いだけで飛ばされるだろ。どれだけ手を動かさないかで勝敗が決まるんじゃねぇの」
……勝ち負けの話なの?
疑問に思ったが、花びらの行き先を読んで捕まえられることは素直に凄いと思うので頷いておく。
彼が開いた手の中には、花びらが一枚しっかり入っていた。
「何か願い事をした?」
「別に。特にねぇしな」
「勿体ないわ。せっかく捕まえたなら、願い事しなきゃ」
自分には捕まえられなかった花びら。
海夜の願い事は叶わないのだとしたら、せめて彼の願い事ぐらいは叶えてあげてほしい。
海夜が笑いながらそう言うと、彼はちょっと考える素振りを見せた。
「……そうだな……。じゃあ、来年もおまえが、この桜を見られるように」
そうして手の平を握り込み、息を吹き込むようにその拳に軽く口づけすると彼は海夜の手を取った。
「だから、これをやる」
再び開いた手の中の花びらを、海夜の手の平の上にそっと乗せる。
乗せられた花びらは、何の変哲もない普通の花びらだった。
けれど海夜の中でそれは、宝石みたいにきらきらと光って見えるようだった。
“来年も“
それを願うことがとても難しい状況だとわかっていても、彼はそんな風に願ってくれる。
泣きたくなって、乗せられた花びらを手の中にぎゅう、と握り込む。
「……ありがと」
俯いて両手の中に花びらを握り込む海夜の前髪を、ちょっと乱暴に撫でてくれる。
少年らしく快活に笑うその綺麗な笑顔に、不思議な緑色が陽に透けて見える瞳に、まっすぐ自覚した。
自分が恋をしているということを。
あの花びらは、どこにいったのかしら?
宝石のようにきらきらと光る、たった一枚の花びら。
※
まだ陽も上りたての早朝。
カーテンを開け放つ音で目を覚ました海夜は、急き立てられるように寝台を追い出される。夢の余韻を引きずる余裕もなく、ミントの香りのする白湯を飲まされ軽い朝食を摂った後、石造りの広い浴槽に放り込まれた。
朝風呂は気持ちいい。さっぱり目が覚めるし寝汗も流せるし。
なんて、暢気なことを考えていられたのも最初だけだった。
身体が温まった所で湯から上がるように言われ、そこからが怒涛の幕開けだ。
ふわふわの温かな泡に包まれて、気持ちいいと思っている内に身体を隅々まで白玖音の操る薄い刃物が滑って行った。
泡を落とされて今度はいい匂いのするオイルを全身に丹念に塗り込まれ、マッサージされ、またしても浴槽に放り込まれ。
そんな事を繰り返し、これで最後と放り込まれた別用意の猫足のバスタブには甘酸っぱい香りのするたっぷりのお湯と、オレンジ色の花びらが浮かんでいた。
「……いい香り……」
目が覚めた瞬間から忙しすぎたので、ようやく落ち着けた心地だ。
「必要最低限の施術になりましたが、素地が素晴らしいので当日朝でも間に合いそうですわ。良うございました」
お茶を差し出してくれながら、眞苑も安堵の息をついている。
「この後はお顔のマッサージと、爪の仕上げがございますわ。昼食後に皇宮医療室の先生方の診察がございます。おみ足の様子を診て下さるそうです」
バスタブにハンモックのように掛けられた台の上の、海夜の怪我をしている片足にホットタオルを掛けて冷えないように気を遣ってくれる。
「ありがとう。少し特殊な怪我らしくて治りが遅いの。痛みにも慣れてきたのだけど」
「姫さま、痛みに慣れるのはおかしなことだと、早々にお気づき下さいませ」
海夜のおかしな言葉に戸惑うのは、髪の毛のパックをしてくれている白玖音だった。
「痛みに鈍い家系みたい。治療や薬もあまり効かないし、元々頑丈だし。祖母はきっと大変な思いをしたでしょうけど」
昨夜聞いたばかりの祖母の過去を思うと、日本では苦労したのではと考える。
「夜花姫さまのお話をお伺いしても?」
好奇心を抑えられないように侍女たちから求められて頷く。
「お姫さまだったって聞いて納得したぐらい、所作が綺麗な人だったわ。穏やかで、滅多に怒らない。背筋が通って、最期まで綺麗な人だった」
その祖母から礼儀と作法を叩き込まれて育った自分たち兄妹は、言葉の選び方から何から自然に身についていた。
成長の途中で兄は揉まれてしまって、今はだいぶ乱れているけれど。
それについて、祖母は何も言わなかった。
兄に甘かったのは気のせいじゃない。
「でもお料理下手なの。目玉焼きも焦がしてて、よく拗ねてたわ」
「拗ねられるんですか? お可愛らしい方だったのですね」
「祖父が好きな厚焼き卵、何回も失敗して。層にならずにバラけさせてしまって、焦げててふんわりしないの。でも、祖父はそれでいいんだって。卵の殻が入っててもパリパリ音させながら笑って食べてて、仲が良くって理想の夫婦だった」
海夜の中の理想の夫婦像は、その祖父母で固められている。一番身近で観察できる夫婦だったからだ。
お互いを尊重して譲るべき所は譲り、譲れない時はきちんと話し合って解決して、素敵な大人たちだった。
母の結婚が不幸に終わったように思えて、余計に祖父母夫婦に傾倒した気がする。
海夜たちの父親が行方不明になったのは、海夜が二歳の時だった。何の前兆もなく、いなくなったらしい。
元々、どこから来た人だったのかも判然としなかったと聞いている。
母が突然連れてきてそのまま結婚したと、祖父母は笑っていた。
母が高校三年生の時の冬だったらしい。翌年には兄が生まれて、二年後に自分が生まれた。
幼すぎた為、父に関する記憶は皆無だ。
でも、母がずっとその父を想い続けていることを、兄と二人で見続けてきた。
誰より母を苦しめた人なのに、母は誰よりも幸せそうに父のことを語る。
矛盾してるんだと兄は吐き捨て、父は死んだと言い切る。
恋は素晴らしいものよ、と祖母と母は言うけれど、その恋に苦しめられてきた母を見ていると、そんなの詭弁よと叫びそうになる自分がいる。
恋が素晴らしいのなら、どうして母は周囲から不幸扱いされたの。
どうしてわたしは、その恋を失くしてしまったの。
「夜花姫さまは、旦那さまが大好きだったのですねぇ」
眞苑の声に、ハッと現実に戻される。
また思考に沈んでいた。しかも昨日から、身に覚えのない思考が浮かぶ。一体、何なのか。
考えるより先に、パックされていた髪の毛が仕上がった。
促されてバスタブから上がる時、チリンと左手首に掛けた鈴が清かに鳴った。
この鈴には女性の姿をした精霊が宿っている。
今は通訳の為に姿は見えないけれど、きっと祖母が日本に一緒に連れて行った、故郷の縁だった精霊たち。
胸元にかかる鏡の精霊はもう死んでいると皇子は言っていたけれど、身から離すことはできなかった。
全ての施術が済んで解放されたのは、昼を過ぎた後だった。
診察の為に部屋へ案内されてきた美津里と天地に、嬉しくなって笑顔を向ける。
二人も笑顔を返してくれた。
「まあぁ、とってもキラキラしてらっしゃるわあ! 今夜の晩餐会に向けて、ご準備は順調のようですね、海夜さま!」
皇都に着いた時から口調を改めるようになった美津里が、とびきりの笑顔で褒めてくれる。
侍女二人が胸を張ったのが見えて、苦笑が零れた。
「正直気乗りしないですけど、歓迎代わりだと陛下が仰るので、頑張ってきます」
「ご無理はおやめ下さいね。足への負担は如何ばかりかと、主治医は気を揉んでますから」
寝椅子の傍らの机に医療器具を並べる天地が大きく頷いている。
「昨日の様子から見ても、長い時間立っている状況はお勧めできません。殿下にも進言させて頂きましたが」
当たり前のように言うけれど、皇子が聞いてくれるだろうか。
「いやいや、殿下からご意見を求められたんですよ。怪我を、とにかく気にされていらっしゃるので」
びっくりしたまま視線をやると天地は空々しく釈明する。
海夜が公式の場に出ることに、物言いたい様子だ。ありがたいような、申し訳ないような。
心配してくれている。
それだけなのだろう。
二人とも皇都に移る前の、庶民として過ごしていた海夜を知っているから。
それに兄に似ているなんて言葉も、もしかしたら天地の中に残ったかもしれない。
「ありがとうございます。自分でも気をつけます。大丈夫、第二皇子さまがエスコートして下さるんですよ」
「あれ、キアリズ殿下は? 当然あの方が、お傍にいらっしゃるのだと思っていたのですが」
(それは邪推です)
天地の言葉に笑顔で内心突っ込んでおいて、「別の形でいらっしゃるそうです」と無難に答えておく。
何となく、護衛として来るとは言い難い。
だって皇子二人引き連れて歩いているだけでも目立つのに、一人は護衛とか。
それがありえないことは、皇族とか貴族とかいうものを知らなくてもわかる。
「本日は祖父が診察に入る予定だったのですが、急用で國皇陛下に呼ばれてしまって。海夜さまはお忙しいから、この時間のアポしか取れないとは再三言ってあったのですが、國皇陛下からの御用を飛ばすことは流石にできなくて」
「……國皇陛下の、御用」
美津里が申し訳なさそうに言うのを聞いて、思わずその部分を強調するように呟いた。
……何だろう。
これこそ邪推かもしれないけれど、作為を感じる。
美津里の祖父はこの世界に来たばかりの時、診療所で顔を合わせた穏やかな風貌の老人のことだろう。言葉がうまく噛み合わなかったので、はっきりわからないけれど。
皇家専属の元御殿医だったという。
見た目の年齢から察するに、祖母がこの国にいた時代から医師を務めていた筈だ。
祖母のことを知っていた可能性がある。
そういう人を、診察の時間に用事で呼び出す……わざとかち合わせて、立場上無視できない方を選ばせるのは中々根性が悪い。
……というより、自分に会わせたくなかった……?
(……考えすぎ?)
もしも國皇が海夜に彼を会わせたくないのだとしても、その理由が海夜にはさっぱりわからない。
だから、どれだけ考えても埒があかないと考えることはやめた。
この怪我が治らない理由は、きっと誰にも解き明かせない。
「海夜姫、診察を始めさせて頂いてよろしいですか」
天地に呼びかけられて我に返る。何事もなかったように笑顔で答えた。
「はい、お願いします」
まただ。
また、知らない筈の思考が浮かんだ。
傷が治らない、なんて考えたこともない。
そのこと自体を元々知っていたように、思考に滲み出してくる。
得体が知れない。これを何と表現したらいいのかわからない。
いくつもの層になっている殻が、少しずつ剥がれ落ちていくような。
知らないはずの事実を、実は知っている自分がいるのではないかと意識する。
たぶん、それが毎晩見ている悪夢の正体。
何度も目にする白昼夢のような、花びらの記憶。
その中心に、知りたい何かが蹲っている。
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