第十七話 黄花・サディル家の過去
皇子の言葉が場に落ちた後、静まり返った空間に浮いているように感じる。
静けさに耳鳴りを感じて、海夜は両手の平に目を落とした。
そこに赤いべったりとしたものが見える。
これは何? 幻?
母方の血塗られた一族に纏わりつく、執念のような思念が見せる幻だろうか。
「当時の女皇はじめ皇配、その子どもたち、親類、全て皆殺しだ。奇跡的に命を留めたのが第二皇女だった夜花と、傍系の平群公爵家の娘の花梨だった。この人は、おれと三影の父方の祖母にあたる」
淡々と原稿でも読み上げるように話す皇子は、この話をいつ頃理解したのだろう。
自分と同じ直系男子が、一族を皆殺しにしただなんて。
「夜花と花梨は揃って日本へ亡命したそうだ。普通の精霊は界渡りはできない。異世界だけが、悪鬼となった天馬が追えない場所だった。だが一年後、花梨だけが来訪者として皇宮に戻ってきた。夜花は生きているという情報と共に」
疲れたようにため息をつき、皇子は決してこちらを見ようとはせずに続ける。
「あるいは夜花も来訪者として国に戻るかもしれないと期待されたそうだが、その後二年経ってもその気配はない。皇統の途絶えた状態に国は荒れ、人心は惑い治安も悪化した。他国からの侵略の危険もある。皇家の血筋が花梨しか残っていない状態では、彼女が女皇に立つしかなかった。だがそれも新たな不幸の始まりだ」
組んだ足の上で組まれた指が、白くなる程皇子が緊張している。
珍しいと思ったが、感覚が麻痺したようにそう思うだけだった。
「周囲の期待とは裏腹に、花梨は結婚後男児しか生めなかった。それでも生きてさえいれば、また子供を授かることもできる。そう思った矢先、力を溜めて再度目覚めた悪鬼の残滓に花梨は殺された。そこで皇統は絶えて終わりだ。普通はな」
付け加えられた言葉に、のろのろと顔を上げる。
「力の弱った悪鬼の狙いは、黄花・サディルの女だ。貴種を生めるのは貴種の女だけだからな。その為、幼かった今の國皇とその弟は命を永らえた。幼いまま皇位に着いた父の心根は、その時抱いた疑問のままなんだろう。なぜ、貴種の女しか貴種を生めないのか。黄花・サディルの血筋の何が特別なのか。何百年も前の妄執の塊が、なぜ母親の命を奪ったのか。その思いだけで、おれを生み出した」
皇子の二人の母親が関係する話?
「どれだけ科学力とやらが進んでも、貴種を人工的に作ることはできなかったものを、あのおっさんは半生かけた研究とやらで成し遂げたんだ。それもまた妄執と呼ぶんだろう」
「……國皇陛下は学者肌だって。……そのことなの?」
白々と皇子は微かに鼻で嗤った。
「夜花の双子の姉で命を奪われた海花は、当時結婚したばかりで、妊娠中だったそうだ。腹の子だけでも何とか助けられないかと手を尽くす途上で、海花の卵巣が取り出され保存された。それを使って父が研究を重ねた結果、来訪者は貴種の遺伝子への拒絶が少ないことが解ったらしい。そうして白羽の矢を立てられたのが、おれの生みの母親だ。体外受精でおれを産んだ」
一気に話し終えて、皇子は疲れたように再び肘掛けに頬杖をつき、話し始めてから初めて海夜と視線を合わせた。
「大体こんな所だ。何かあるか」
投げるように大量の情報を寄越しておいて。
海夜は置いてけぼりを喰らいそうだったのに、唐突にこちらに気を向ける。
彼は事実をありのまま話しただけだろうが、そこに皇子の感情が読み取れなくて、こちらの感情こそ追いつけない。
「……泣くのは勘弁してくれ」
そう言われて、驚いた。
零れることはなかったけれど、視界は水の中にいるようにぼやけていた。
目に一杯にたまった涙を見て、皇子が呆れたのも仕方がない。
悲しいとか苦しいとか、……同情とかそういう感情ではなかった。訳の分からない、溢れそうなのに行き場のない感情が涙になった。
自分が生まれた背景に、沢山の人々の悲劇と事情と思惑が渦巻いていた。
そこに思い至った時、昼間國皇に言われた言葉を思い出したのだ。
“貴女はお幸せに生きてきたようだ”
そんな風に皮肉を言われても仕方がない程、家族にも幼馴染たちにも大事にされ、幸せに生きてきた。
それは誇れることだし何も悪いことではなく、後ろめたいことでもない。
それなのに、感じなくていい筈の罪悪感を感じてしまう。
目の端から一粒零れ落ちそうになって、慌てて目元を拭うと三影が隣に座ってハンカチを差し出した。
「ねえさん、擦っちゃダメだよ。目が腫れちゃう。兄貴、言い方」
三影が咎めるように言うと、皇子は悪びれずに「本音だが」と返す。
誰かが泣いていても全く気にせずいつも通り。
朴念仁を通り越して鬼畜とさえ感じるのに、心底から嫌いになれないのは、彼の危うさのせいだろう。
淡々と、心ここに在らずな態度で日々を過ごしている。気を抜けば気配を感じさせることなく、静けさの中に消えてしまいそう。
そういう所が海夜の変化を望まない部分に重なる気がして、気がつくと目で追っている。
ちゃんといる、そこにいる、と確認しないと安心できない。
「……ハンカチありがとう、三影くん」
「気にしないで。何なら抱きしめてあげるから」
そう言って手を広げるので笑ってしまう。
「あのね、質問があるの。悪鬼って天馬のことよね? 大占家での」
「そうだ」
「……わたしをわかって来たの?」
「大占家の貴光石は、エネルギーというより精神的な拠り所として使われている。神殿でもそうだが」
そう言って、皇子は三影の顔を見る。
「うん、神殿には壁みたいに大きな貴光石があるよ。信仰対象の一部なんだ。兄貴は嫌がるけど」
「気色悪い。単なる力の塊を崇めて、滑稽だ」
「言い方!」
鋭く叱るが、三影の言葉は彼には全く響かない。
「大占の貴光石は、精神世界に近いという意味で精霊に近い。精霊の世界の中は、陸と海のようにゆるい繋がりがある。天馬の廟は貴光石で封印されている為、呼び寄せられたんだろう」
「貴光石辿ってくるんじゃ、封印の意味ないよね」
「封印の貴光石が長い時間で変容したんだ。さっさと壊して消滅させるのが最善だと、何度も進言しているんだが」
「何が起こるかわかんないからなぁ。兄貴みたいに貴光石を壊すことに寛容な人も少ないんだし、気長に行こうよ」
三影の言葉に皇子は海夜を見る。
心臓が跳ねるほど強い視線に、含みがある気がして首を傾げると、彼は諦めたように息をついた。
「このお姫さまがここにいなければ、そこまで焦るつもりもないんだが」
「ああ、それはあるか。でも、だからこその偽装結婚なんでしょ?」
「………まぁ、べったりひっついていても文句を言われない立場、という意味でな」
「どういうこと?」
兄弟で頷き合っているだけなので意味がわからず、海夜は大きく首を傾げる。
「おれの役目を知る者は多くはなく、おまえの身元を公表することは危険すぎる。だが皇子であるおれが、皇城に来たばかりの女の傍にいるにはそれなりの理由がいる。おまえの身の安全の為に、なるべく物理的に近い位置にいられる理由なら結婚、婚約、そんなようなものが一番効果的だ」
ああ、成程。
一緒にいて怪しまれない為の工夫が、偽装結婚ってことね。
「そう思って、噂やら何やら放ったらかしにしていたんだが、あの父の動きは鬱陶しい。身元を公表せずにおれの傍に置いておけば、何か起きても偽の既成事実でねじ伏せれば済んだんだが。本物の既成事実を作ろうとする輩よりはましだろう」
「きせ……っ? ……そんなの、わたし自身の同意がなければ犯罪でしょう?」
「同意の意味がわかっているか?」
皇子は馬鹿にしたように言うが、海夜の隣で三影は真剣に首を振った。
「天馬はとりあえず弱って動けないけど、この夜花さまのお部屋にいるから安全ってだけだ。ここと海花さまのお部屋はそれぞれ鈴と鏡のいた場所だから、本来の意味で加護が強いけど、人間までは弾いてくれない。一番怖いのは人間の欲だよ。暗殺や夜這いなんて仕掛けられたら、防ぎ切れるかどうか」
鈴と鏡。
思い出すのは、言葉が通じるように皇子が細工してくれた時のことだ。あの時、手首の鈴から女性の姿の精霊が現れてびっくりした。
殆ど生まれた時から身につけていた鈴だったのに、そんなものが宿っているとは全く知らなかった。
そう考えて思いつくのは、胸に掛けているもう一つの存在だ。
するりと襟元から引き出して手の平に乗せると、古い鏡のような面が室内の柔らかな灯りに鈍く光る。
「……この子は鈴の子のように、何かが宿っているとかはないの?」
三影は海夜の手の中を覗き込み、柔らかく微笑んだ。
「……あぁ、鏡だ。懐かしいな」
「え? 三影くん、この子のこと知ってるの?」
ずっと会っていなかった知り合いに会ったような口振りに瞬く。
この鏡というのも、鈴と同じように海夜と共にあった。
「……記録で読んだことがあるんだよ。これは表は古い鏡面だけど二枚合わせでね、中は貴光石なんだ。鈴の中身も貴光石。どっちも皇家のお守りだよ」
「そいつらは今は役に立たない。天馬との凌ぎ合いで力の殆どを使い果たしている。特に鏡の方は、中の精霊もとっくに死んでいて空洞だ」
皇子が容赦なく事実を言うものだから肩が竦む。三影がまた「言い方ぁ!」と怒った。
「皇宮の謀り事は護衛をつけることでどうにかなるだろう。天馬は無理だろうが」
「あの悪鬼を殺せるなんて、兄貴じゃないと無理だろうね。精霊殺せるのは精霊だけだし。攻撃型の精霊使いなんて、珍獣だし。だから直系な訳だし」
「好き好んだ能力じゃない」
異母弟に珍獣とまで言われても、皇子は自分のことで怒ることはなかった。
わかりにくいけれど、やっぱりこの人は基本的に他人に優しい。それとも、自分のことはどうでもいいのか。
それにしても直系って。自分もそうだが、……母も、兄も。
直系男子が必要ないというのは、兄が必要ないと言われたも同然で、國皇がそう言ったあの時、愕然とすると同時に腹も立った。
けれどそこにも人々が畏怖し、恐怖し、忌避する理由があるのだと知って、自分のもの知らずに恥じ入る。
(だからって“必要ない”という言葉を受け入れられるかといったら、大間違いだけれど)
この国にいるのならば、きちんと向き合うべきことには向き合って、何が自分に必要なのかを選択できるようにならなければ。
「まぁ、せいぜい周囲を納得させられるように、べったりピッタリひっついときなよ。兄貴は仕事しすぎなんだし、休暇だと思えば?」
「他に仕事を片付けてくれる奴がいるならそうするが」
(そうするって、何っ!?)
皇子の発言に慄いて引き気味になるが、二人とも気づかない。
「そのまま本当に結婚できれば、一番いいんだろうけど」
「それはできないと知っているだろう。できればこの役はおまえがやれと言いたい」
……ほう。
本人を目の前にしてこの言い草。
この人の好みじゃないというのは最初から承知だ。
こんな子供っぽい女を結婚相手として目の前に出されたって、趣味ではないだろうからそっぽを向きたくなるのもわかる。
でも最初に結婚を持ち出したのは、そっちだった筈ですけど?
「宮中の権謀術数がなければおれが深く関わる謂れもない。守護者としての役目を果たして日本に帰すだけで済む話が、あの父のせいで更にややこしい」
抱えていた不満が止まらなくなったのか、毒を吐きまくる皇子に笑顔でいるのが限界に近い。
怒ったら負け、怒ったら負け……。
でも、ここまで嫌がられる程自分はひどいだろうか。ちょっとショック。
「……ええと、……兄貴。その辺で」
海夜の笑顔の不穏さに気づいた三影が、取りなすように彼を嗜めて、皇子もようやく自分の言葉の刃に思い至ったようだった。
海夜の空々しい笑顔を見て、何となく気まずそうに目を逸らす。
「……気分が乗らない偽装結婚に付き合って貰って、申し訳なく思ってるわ」
腹立ちまぎれに皮肉をこめて言ってやると、皇子は誤魔化すように小さく舌打ちした。
このタイミングでこの態度……腹立たしい。
やがて諦めたようにため息をつくと、「言い方が悪かった」と呟いた。
(ずっと指摘されてたのに、今更?)
貼り付けた笑顔の裏で考える。
「おまえの問題じゃない。制度の問題だ」
「……制度?」
どういう事? と首を傾げると、皇子は目を逸らしたまま続けた。
「黄花・サディルの血筋は、過去の事情で近親婚が禁忌とされている。近親婚の末に化け物のような天馬を生み出したのだから、当然回避するルールも作られる」
「でもわたしとあなたって、再従兄弟の関係よね? 近くはないけど、遠くもない。これって近親にならないの?」
「いい目眩しだ。禁忌を曲げてまで傍に置くものを、間を割る阿呆はそういない」
(ああ、そういうことね。情熱的)
他人事に考えなければじっと座っていられない理由づけに、反応に困りながら曖昧に笑う。
「そんなの今は昔の制度だよ。それをやめてから何百年経つのさ。今じゃ、皇家の近親婚のタブーを知る人も殆どいないのに」
そういえば、侍女二人は無邪気に婚約の話が本物と信じ込んでいる。
「五十二年前の大祭を記憶している人間が存命だ。そういう者たちは伝統だのと頭が固い。明日はそういう奴らも大勢来る」
……軽い食事会と聞いていたのに、何だか大ごとに発展している。
「全くもって迷惑この上ないが、國皇の下命では仕方がない。それぞれで来いという命令もある。おれはおまえとは別と考えられているといことだ」
「……よくわからないけど、一人で行けってこと?」
「そんなことさせないよ! 兄貴が無理なら俺がエスコートするから!」
三影が胸を張ってそんな主張をしてくるものだから、ちょっとびっくりする。
こんな美少女めいた少年に、そんな気の重い役を背負わせてしまうのは申し訳ない。
「おれはおまえの護衛として後ろに付く」
「え? そんなことできるの?」
だって、この人第一皇子さまで、たぶんそういう場では引っ張りだこになる筈。
「皇子として出席しないだけだ。守護者の役目を与えたのはあの人だから、文句は言えないだろう」
それは屁理屈では……。
「ただの護衛なら声を掛けられても無視できる。帯剣も許可される。いいこと尽くしだな」
……一番の目的はそれかしらと勘繰る。
無表情なのに気分が悪くなさそうなのが伝わってきて、更に眉間に皺が寄ってしまう。
そこまで考えて、ハッと気づいた。
明日はこの派手な兄弟を引き連れていかなければいけないのだろうか。
足の怪我だってあって、うまく歩くこともできないのに。
皇子二人を連れた人間なんて、悪目立ちすぎる。
「……わたしの身元は公表しないって言ってたのに、それじゃ言ってしまっているのと同じじゃないの?」
「問われてもはぐらかせ。肯定しなければいいだけだ」
「宮中は頓知だよ、ねえさん。肯定しなければないのと同じ。逆に、否定しなければあるのと同じ」
「……へりくつ……」
独特すぎる皇宮のルールに、海夜はそんな感想をもってしまうのだった。
お読みいただきありがとうございます♪
ブックマーク等大変嬉しいです。
ありがとうございます。