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僕は月のお姫さまの隣でその手を握る  作者: 市川甲斐
1 向日葵畑
7/50

(6)

 遥人が実家に向かったのは12日の朝だった。前日から入った夜勤バイトを終え、そのまま車に乗って千子に向かう。ここからは、霞ヶ浦に沿って南東に向かい、次に利根川に沿って延々と下流に向かうだけの単純なルートだ。高速道路もあるが、節約のため一般道を走っていく。距離的にはかなりあるが、意外と渋滞することもなく、2時間もかからずに着いた。


 自宅から少し離れた場所にある空き地に車を停める。ここは、近所の地主が持っている土地で、帰省した時には車を停められるようにお願いしているのだ。車の助手席から、大きくもないバッグに詰めた荷物を持って降り、商店街の方に向かって歩き始めた。


 街の中心から少しだけ離れた商店街は、シャッターが下りている店も多い。まだ9時前であり営業時間前だというのもあるが、時間が経ってもシャッターが開かない店もかなり多いと思う。歩く人もまばらで、時折、車が行き交っているだけだ。


 商店街の本通りから一本入った細い路地の先に、『居酒屋 いの屋』と書かれた縦看板が見えた。そこが自宅兼店舗の縦長の建物だ。2階が自宅、1階が居酒屋になっているが、数十年の築年数が感じられるように外観も薄汚れている。店の換気扇が回っている音がしたので、「ただいま」と言いながら、入口の引き戸をガラガラと開けた。


「あ、遥人。おかえり」


 顔を上げて、カウンターの向こうから元気な母の声が返ってきた。母は薄い黄色のエプロンをかけて何かを煮込んでいるようだった。それがおでんであることはダシの香りですぐに分かった。母の作るおでんは、時間をかけて煮込んでいくせいか、夏の暑い時期でも人気商品である。母は手元の鍋の中を少し突つきながら言った。


「何か食べる? おでんならあるけど」


「いらない。バイト明けだから、とりあえず寝る」


 遥人はそう答えると、店の奥の引き戸を開けた。そこがいわば自宅の玄関で、靴を脱いで階段を上がっていく。上がったところが小さなリビングだ。その部屋の端にある出窓の部分に、父の位牌が置いてある。そこに一本だけ線香を立てて手を合わせると、その隣にある自分の部屋のドアを開けた。


 そこには、見慣れた部屋が変わらずにあった。昔から使っていたベッドが端に、勉強用の机が窓側に置かれている。小さな押し入れの中には、衣類を入れた衣装ケースがあるが、元々衣服にさほど興味がなかったのと、今は自分のアパートに多くを持って行っているため、ほとんど中身は入っていない。遥人は少しムッとした室内の温度を感じてすぐにエアコンの電源を入れ、荷物を置いて大きく一息つくと、ベッドに仰向けに寝転んだ。



 ******

 


 目が覚めると、階下から誰かの笑い声が聞こえていた。周りを見回すと、カーテンを開けたままの外の景色も暗い。


(少し寝すぎたかな)


 手元に置いていたスマホを見ると、夕方6時半だ。遥人は起き上がり、とりあえず部屋の電気をつけた。バッグの中に入れていたお茶のペットボトルを取り出して一口飲むと、温い水分が体の中に沁み渡っていく。


 部屋を出て、リビングの向こうにある小さな浴室でシャワーだけを浴びてから、持って来た服に着替えた。階下からは何人もの話し声や笑い声がひっきりなしに聞こえている。階段を下りて、カウンター奥の暖簾を上げて店を覗くと、中年の男性と女性ばかり数人の姿が見えた。


「おう、遥人か。久しぶりだなあ」


 父の昔からの漁師仲間で常連のおじさんが、遥人の姿を見て声をかけてきた。遥人はどうも、と頭を下げてそれに応える。


「今起きたの? この子ったら、昨日の夜から徹夜で、昼前に帰ってきてずっと寝てたんですよ」


「ほほう。朝帰りじゃねえか。流石に男前は違うなあ。それで、ちゃんと勉強しているのか」


 別の男が笑いながら言った。そんなんじゃないです、と言うのも面倒で、適当に笑っておく。


「だけど、紫峰大学に行っているんだから優秀だよ。この辺じゃ、あんまり入学できる子は聞かないから」


 そう言ったのは近所のヘアサロンの店主のおばさんだ。彼女の娘は遥人より3つ上だったが、専門学校を出てすぐに、妊娠を契機に結婚し、既にその子供も産まれている筈だ。


「まあ学生のうちは、遊びも経験だよ。だけど、子供はちゃんとした仕事についてからにしてよね。ウチの娘も、せっかく理容学校を出たのに、すぐに子供ができてほとんど働けてないから、困ったものよ。誰に似たのかしらね」


「ハハハ! 遥人もしっかり聞いておけよ。別嬪の女将さんに似て、男前だからな」


「まあ。中野さんたら。そんな事を言っても、お代は安くなりませんからね」


 母は手元の揚げ物の具合を確認しながら、笑顔でおじさんに答えると、店内もまた笑いに包まれる。


「遥人も乾杯するか。女将さん、生1つ追加で」


 おじさんが言うので、遥人は冷蔵庫から冷やしたジョッキを取り出し、ビールサーバーからそこに生ビールを注ぐ。コンパでも何回か自分でビールサーバーを操作して注いできたこともあり、結構上手く作れるようになっていた。その同じサーバーから少しだけ小さなコップに注いでおじさんと乾杯する。お盆前の平日であるが、10席程度の小さな店内はほぼ満席になっており、母の顔も明るい。馴染みの客がほとんどで、寂れた商店街の中にあるにしては有難いことだと思った。


 しばらくして、「そういえば」とヘアサロンの店主が言った。


「女将さん。この前、失くしていた財布が、車のシートの奥から出てきてね。びっくりしたわ」


 それを聞いた別の女性が応える。


「そりゃ、確か女将さんが占ったんだっけ?」


「そうそう。『車のシートの奥』って。自分でも結構探したつもりだったけど、出てきて本当にびっくりしたわ。何かお礼しないとね」


「何もいらないわよ。あんなのはただの趣味だから。あんまり気にしないで」


「そう? でも、女将さんも、『美人占い師の店』って、もっとアピールしたらいいのに。絶対にマスコミも放っておかないわよ。しかも、ダンナは亡くなっていて独り者なんて聞いたら、みんな殺到するわ」


「やめてよ。私は目立つのが嫌いなの。自由気ままに生きていきたいし」


 母はそう言って笑いながら、手元の鍋からおでんの蒟蒻と大根を皿に入れて、カウンターに座った女性の前に置いた。




 遥人は、その後も店内で働き続け、気が付けば閉店時間の10時になっていた。お客さんも入れ替わりはあるが、常時半分以上は席が埋まっていた。最後までカウンターで粘ったヘアサロンの店主が「これはお礼も含めて」と言って1万円札を出して店を出ると、遥人は外の暖簾を外して店内に入れた。


「疲れたでしょう。ありがとう」


「いや、大丈夫。みんな相変わらず元気そうだね。ヘアサロンのおばさんは少し白髪が増えたような感じがしたけど」


「そうね。……でも、やっぱりお客さんは減ってる感じがするよ。今年は港の水揚げも良くないみたいだから、漁師も水産加工会社も困っているって聞くし。景気は良くないね」


 母の声を聞きながら遥人は布きんで店のテーブルを拭いていくが、そこに傷が目立っていることに気づいた。この前ここに帰ってきたのは昨年の年末年始だった。半年以上の時間の経過が、遥人に僅かな変化を感じさせる。


「そうだ、遥人。夕飯食べてないでしょ。何か作るわ」


 いいよ別に、と遥人は答えたが、母は手元の油に小魚を入れて揚げ始め、おでんの鍋から蒟蒻と大根、卵、練り物をすくい上げた。しばらくして天ぷらが出来上がると、白米を茶碗に盛りつけ、味噌汁をお椀に入れた。流石に手際が良い。


「さあ、どうぞ」


 母は、カウンターにご飯、味噌汁、魚の天ぷら、おでんを次々に置いていく。遥人はカウンターに座って、「いただきます」と言って食べ始めた。


「そういえば、来年の成人式どうする?」


 母が尋ねてきた。毎年1月の成人の日に、市役所主催により市民会館で成人式が行われる。今度の成人式は、遥人達の年代だ。


「どうかな……冬休みはここには戻らないでバイトするかも。年明けで大学の授業も始まるし、たぶん式には出ないよ」


「そう……。うん、分かった」


 手元を片付けながら母がそっと言う。遥人のその答えを否定しないのは、母の優しさだ。


 遥人は、中学時代にちょっとしたことからイジメ、正確には無視されることが続き、そのため不登校気味であった。公立高校に入ってからは、イジメの中心人物とも学校が別になったこともあり、普通に通学できるようになったが、中学時代の経験からなるべく周囲に関わらないようにしてきた。そのため、成人式に出て再会したいと思う友人は思い当たらない。それが実家に帰ってきたくないと思う一因でもある。


 幸いにも大学の交友関係では同郷の出身者がいなかったので、今では自分の性格も明るくなってきたと思っていたが、それでも地元の同級生と顔を合わせるのだけは気が引けた。


 すると、沈黙を破るように母が言った。


「そうだ。じゃ、父さんの昔のスーツを借りて写真だけ撮ろうか。私も着物を着るから。暑いけど少しの時間なら、我慢できるでしょ。写真屋のお爺さんにお願いしてみるわ」


 母は遥人の返事を待つことなく、「うん、それがいい」と自分に言い聞かせるように頷いた。遥人は嬉しそうな母の様子を見て、それを否定することはできなかった。

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