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僕は月のお姫さまの隣でその手を握る  作者: 市川甲斐
1 向日葵畑
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(3)

 ランチを終え、第2学部棟の学食を出て、再び第1学部棟に戻る途中だった。


「よっ! 遥人」


 後ろから声を掛けられた。振り向くと、同じ社会学部の同級生の前口宏樹がいた。やや小太りの体に太い黒縁の眼鏡を掛けた、一見して第1学部棟にいそうな「地味な」タイプだ。彼は隣に並ぶと、手で背中をバシンと叩いてきた。


「女子2人に囲まれて、さぞや楽しいランチだっただろうな」


「……もしかして、2学の学食にいた?」


「残念ながら、端の方に、県人会の男ばかりでな」


 彼はそう言って腕で小突いてきた。


「この男前! いや、軟弱野郎! お前、いい加減に1人くらい紹介しろよな。どうせ実行委員に何人も女子の知り合いがいるんだろう?」


「い、いや……そんな事はないけど」


「じゃ、さっきの女2人のうち、彼女はどっちだ? 特に、ショートヘアの子は凄い楽しそうに喋ってたじゃないか。……どちらも彼女じゃないとか言ったら殺すからな」


 思わず言葉に詰まる。宏樹はかなりの奥手だ。見た目通り、根は真面目で頭も良く、女子と付き合いたいという気持ちはあるのだが、いざ女子と話すとなると彼は極度に何も話せなくなる。社会学部の中でもコンパをしたことがあるが、「地味な」社会学部の女子からも、彼は相当の変わり者だという見方をされていた。


「まあ……今度は誰かを紹介するよ」


 そう言って何とかその場を誤魔化して歩いていく。彼も仕方なさそうにため息をついた。


「そう言えば、前口も午後の社会学の講義には出るんだろう?」


「鳥井先生の講義だろ? もちろん出るよ。重い教科書も持って来たからな」


 教科書、と聞いてハッとする。


「今日、教科書を持ってくるんだっけ?」


「前回、先生が忘れないように持ってこいって言ってただろ? まさか忘れたのか」


 完全に忘れていた。最近の講義では、教科書となる先生の書いた本は使わず、先生の持ってくるスライドを中心とした講義だったので、わざわざ重い教科書を持ってきていなかった。慌ててスマホを取り出して時刻を確認すると、まだ講義開始まで30分程ある。急いで走れば、自宅のアパートに戻ってもまだ間に合いそうだ。


「ごめん。教科書取ってくる」


 そう言うと、遥人はすぐに走り出した。



 ******



 走り続けた訳ではなかったが、再び第1学部棟に戻ってきた頃にはかなり汗をかいていた。リュックサックに入れてきたボディシートで汗を拭きながら教室に急ぐ。今度の教室は、午前中の大教室よりは小さめではあるが、それでも60席ほどのある緩やかな階段型の教室だ。その講義は出席が大事なタイプであるため毎回ほとんどの席が埋まっているが、今日もほぼ満席のようで、教室内はザワザワとしている。


 社会学部では、3年生からゼミが始まり、4年生の卒論まで特定の教授に師事する必要がある。遥人はまだ漠然としてはいるが、この講義を担当する鳥井教授のゼミに入ろうと考えていた。教授の事は誰かから聞いたことをきっかけに興味を持ち、2年生になってから初めてこの講義を受けてみた。確かに、何となく内容も身近で面白いと思う。


 比較的後ろの方の席に前口の姿を見つけたが、彼の周りには既に学生達が席を占めていた。全体を見回すと、開始時間の直前であったこともあって、空席は最前列の場所しか見つけることができなかった。仕方なく、一番前まで行ってその場所に座って、もう一度ボディシートで汗を拭いた。


 その時、ふと隣の学生の姿を見た。そこには、女子学生が座っている。彼女は、薄く茶色がかった長い髪に銀色の髪留めを付け、大きな瞳には茶色っぽい縁の細い眼鏡をかけている。


(あれ? 誰だっけ?)


 この講義は社会学の比較的専門的な講義であるため、ほとんどが社会学部の2年生と3年生だ。1年生も混じってはいるが、社会学部は各学年百名程度であるため、2年生になった今では、同じような授業に出ている学生の顔は大体見覚えがある。しかし、彼女の顔には記憶が無い。薄い青色のブラウスに白いロングスカートを履いているその姿も、この教室にいる女子学生の中では、やや異彩を放っているように感じる。


 そう思っていたところに、鳥井教授が教室に入ってきたので、慌てて視線を前に向けた。教授はモバイルパソコンでスクリーンに資料を映しながら講義を進めていく。今日は先生の中心的な研究の一つである琵琶湖の社会学的考察のようだ。


 結局、教科書は最後の10分間だけ開いただけで終わった。いつものように所定の用紙に感想や意見を記載する。書き終わった学生は次々に教室を出て行き、前口も隣を通る時に軽く肩を叩いてから手を挙げて出て行った。午前中の試験での手の疲れのためか、書くのに時間がかかる。周りを見回すと、残っている学生の数もいつの間にか10人くらいまで減っていた。


 ふと隣の彼女を見ると、まだ机に向かっている。彼女の目の前の用紙には、既に文字がびっしりと書かれているようだ。唖然としながら見ていると、彼女が急にこちらを向いた。眼鏡の奥の大きな瞳と真っすぐに視線が合う。


(あれ——?)


 不思議な感覚だった。一瞬だけであった筈だが、彼女の大きな瞳に、自分の姿がはっきりと映る。そして、まるでそこに呑み込まれてしまうような感覚。


 カタン——。


 何かが落ちたような音にハッとすると、手にしていたシャーペンが無くなっている。慌てて周りを探すと、隣の彼女が机の下に屈んでいて、遥人のシャーペンを拾い上げた。


「はい、どうぞ」

 

 彼女は僅かに微笑んで、遥人の目の前にその手を出した。「ありがとうございます」と小声で応え、彼女の手からシャーペンを受け取ろうと右手を伸ばす。その時だった。


 キイーン——。


 突然、耳鳴りのようなものが聞こえてきた。一瞬、頭が痛くなったような気がして目を閉じて左手で頭を押さえる。すると、右手に温かな感触が伝わって来た。


「えっ……」


 隣から、彼女が驚いたような声が聞こえた。見ると、彼女の差し出した左手を包み込むように、遥人の右手がしっかりと握られている。


「わわっ……ご、ごめんなさい」


 慌ててその手を放して謝ると、シャーペンが彼女の手から机の上にカタンと音を立てて再び落ちた。机に落ちたシャープペンシルを急いで拾い上げると、彼女から視線を逸らすように再び用紙に向かった。怒られるのではないかと思い、必死に隣の彼女の方を見ないようにしていたが、程なく彼女は白いトートバッグを持って立ち上がった。


 思わずホッとしてその姿を追うと、彼女は記載した用紙を鳥井教授の所まで持って行き、そこで教授と何か話している。先生も頷きながら何か答えているが、その内容まではよく分からない。遥人もようやく書き終わって用紙を教授の所に持って行った。


「ありがとうございます。今度また相談させてください」


 彼女が鳥井教授に頭を下げると、教授も頷いて「頑張ってください」と答えていた。


(相談……?)


 おや、と思った。相談、というからには、やはり社会学部の学生だろうか。自分の用紙を提出する時に、すぐ近くにいた彼女の姿をもう一度チラッと見てみる。しかし、やはり記憶には無かったので、まだ知らない上級生か下級生かもしれない。それよりも、さっき握ってしまった彼女の手の感覚がまだ自分の手の中にしっかりと残っているように感じる。思わずその右手を見つめると、なぜか急に恥ずかしくなり、逃げるようにその教室を去った。

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