(5)
その日は夜勤続きで元々疲れていて、あまり飲んでいなかったが、板野の件もあったためか、急激に頭が痛くなってきた。板野が悪酔いしている様子に、大森も「今日は帰った方がいい」とそっと言ってきた。そこで、ありがたくそれに従うことにして、板野がトイレに入った隙に、逃げるようにその部屋を出た。
そこから自分のアパートまでは歩いて15分程の場所だ。たまに山の方から風が吹き下ろしてくるが、酔った体にはちょうど心地良い。
(何なんだよ——)
板野が友恵をお気に入りだというのは、実行委員会の中では去年から広く知られていた。彼が実際に告白したのか、また友恵も彼の事をどう思っているのかも分からないが、今は委員長と広報部長という関係でもあるので、彼女もつかず離れずの距離感でうまく接しているのは確かだ。
ただ、友恵が今一番好意を持っているのは遥人だ。本人の口から聞いているのでそれは事実だ。そして、その事はおそらく友恵の口から実行委員会内でも広く知られており、板野としてみればそれが面白くないのだろう。しかしそれは、遥人からすれば完全に言いがかりだ。心の中にモヤモヤしたものが広がり、道路脇に落ちている小石を蹴りながら、街灯の少ない暗い道を1人歩いていく。その時、ふと思い出してスマホを取り出した。
(かけてみようか)
アルコールが入った勢いもあって、メモリから「竹内菜月」を探す。この前付せんに書いてあった番号を登録していたのだ。その名前を表示させるが、やはり止めようと一度スマホをポケットにしまう。少し歩いて再びそれを取り出す。そうして迷っているうちに、10分くらいが経過した。
(いや、どうせ彼女は、誰かと付き合ってるんだ)
遥人から見ても彼女は相当の美人だ。田村の話のとおり、何度も告白されているのだろうし、付き合っている人がいるというのも頷ける。しかし、それならばなぜ、初めて会ったに近い遥人に、彼女はいきなり電話番号を渡してきたのだろう。これは単なるイタズラか、あるいは何かの悪意を持っていて遥人に近づこうとしているという見方もあるだろうが、この前の印象では、どうしてもそうだとは思えなかった。むしろ、自分にそれなりの好意を持ってくれているのだと感じられた。つまり、遥人には彼女のような美人に好意を持ってもらえる魅力があるということなのだ。そう思うと、通話ボタンを無意識に押したが、2コール鳴らしたところで慌てて電話を切った。
(何やってんだ……僕は)
胸がドキドキと高鳴る。友恵からストレートに告白されて素直に返すこともできない中で、まだよく知らない別の女性に電話して、自分は一体どうしようというのだろう。こんな事が板野にばれたら彼の思うつぼだ。
(とりあえず、お詫びのショートメールくらいはしようか)
既に時刻は10時を過ぎている。知らない電話番号から着信があって不安に思わせるのは良くないと思ってその結論に至り、「この前会った猪野です」と文字を打ち始めると、突然電話に着信があった。見ると「竹内菜月」の文字が出ている。遥人は胸の高鳴りを感じながら電話に出た。
「はい。猪野です。……あの、この前図書館で会いました」
『ああ、あなただったのね。すぐ電話が切れたから、誰かと思ったわ』
彼女の声は穏やかだった。それに安心して、とりあえず謝る。
「ごめん。こんな時間に。……あっ、電話番号教えてくれてありがとう」
『ううん。私こそ一方的に書いて渡してごめんなさい』
「いや、ちょっとびっくりしたけど……僕もこういうの経験が無かったから。でも、どうして僕に連絡先を?」
『えっ? ……そうね。どうしてかな? 鳥井先生の講義の時に初めてあなたに会った時、何か不思議な感じがしたの。いきなり手を握られたからかもしれないけど』
「あっ……あの時は、本当にごめん」
急に思い出して恥ずかしくなり、咄嗟に謝ると、『ううん』と彼女の声がすぐに返ってきた。
『驚いたのは確か。……だけど、何て言うんだろう。自分でも不思議なんだけど、あなたにまた、会いたいなって思って』
「えっ——」
『夏休み中だから講義もないでしょう? だから、鳥井先生の本がある辺りにいれば、会えるような気がしたの。そして、今度あなたに会えたら連絡先を伝えてみようって。それで、付せんに連絡先を書いて、いつも鞄に入れて持ってた』
「えっ? あの場所に僕がいつ行くかも分からないのに?」
『そうだけど……おかしい?』
いや別に、と答えたが、心の中で胸がドキドキと高鳴っているのがはっきりと分かった。いつ会えるのかも分からない人のために、彼女は、そこまでしていたのだ。しかし、1度しか会っていない自分に、なぜ彼女はそこまで思いを強く持ってくれたのだろうか。不思議に思っていると、彼女の声が聞こえてきた。
『そう言えば、さっき、農学部の飲み会で、尾島さんと会ったわ』
「あっ……そ、そうなんだ」
彼女から友恵の名前を聞いて、ドキッとする。
『実行委員会も今日は飲み会だったんでしょう? 猪野くんも行ってたの?』
「ああ……そ、そう。途中まで友恵……いや、尾島さんも飲み会に来ていて」
『そうだったんだ。尾島さん、楽しそうだったわよ。あの子って、明るいし、可愛いよね。何か羨ましいな』
「そ……そうだね」
彼女が言うのにそれだけしか答えられない。何となくそこで2人とも沈黙してしまったが、彼女の方から「そうそう」と思い出したように話し始めた。
『そういえば、あの本読んでみた?』
「ああ……ごめん。まだ読んでいないんだ」
『じゃあ、読んでみて。良かったら感想を聞かせてね。こういう研究みたいに、私も将来は何か地元に役に立つ仕事をしたいと思ってるの』
「そうなんだ……すごいね」
その真っすぐな彼女の声を聞いて、素直に感心する。彼女は真面目なのだ。将来をしっかりと考えている彼女のことを羨ましく思う。
(僕は将来、何をしたいんだろう?)
そう考えて始めた時、彼女がふいに尋ねてきた。
『ところで猪野くんって、名前は何て言うの?』
「名前? ハルトだけど。遥か遠いの遥かに、人」
そう答えると、「ふうん。遥人……」とだけ彼女の声が聞こえ、少しの間だけ無言の時間があった。
「どうかした?」
思わず尋ねると、彼女はすぐに「ううん。いい名前ね」と答えた。
『じゃあ、本を読んでみてね。連絡先を教えてくれてありがとう。おやすみなさい』
彼女が明るく言う声が聞こえて、電話は切れた。