(9)
15日、16日と、母の求めに応じて買い物やら掃除やらをしていると、あっという間に時間が過ぎていった。
遥人は、17日には自分のアパートに戻ろうと思っていた。ちょうどその日から母の店も営業を始めることもあり、邪魔になりたくないと母には伝えたが、本心ではあまりこの土地に長く留まりたくなかったことが理由だ。
帰る前日の16日の夜。店のカウンターで食事をしている時に、母が言った。
「占いをしてあげようか」
母は白いメモ用紙を一枚持ってくると、そこに「猪野遥人」と「20××年8月16日」と今日の日付を書いた。母の占いは変わっていて、名前と日付だけを書き、後は母がその人の手を握ると何かが見えてくるというものらしい。
遥人はこれまでほとんどその占いを受けたことはない。母の占いを信じていない訳ではないが、そういうものに昔から興味が無かった。ただ、ここを去る前に、母の言うことはできる限り聞いてあげたいという気持ちもあったので、素直に従った。
「じゃ、手を出して、目を閉じてみて」
母の言うとおり、座ったまま両手をカウンターの上に置いて目を閉じる。母が遥人の両手を正面から握る感じがあった。その暖かな手に包まれて、静かな店内で目を閉じていると、次第に眠くなってしまった。
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ふと、強い光の中に包まれるような不思議な感覚があった。
(あれ——?)
目を閉じているはずなのに、眩しい光が輝き続ける。あまりの眩しさにどうすればよいのか分からず戸惑っていると、その光が次第に弱まっていく。
すると、目の前に一つの光景が現れてきた。夕暮れのような赤々とした空が大きく広がった下に、黄色と緑色のものが広がっている。目をよく凝らすと、それはたくさんの向日葵だった。その向こうには雑木林のようなものがあり、さらに遠くを見ると、太陽の光が高い山の向こうに消えようとしているところで、その光が照らす黒い稜線がくっきりと見えている。
(ここは……どこだ?)
遥人にはその場所がどこなのか分からなかった。ただ、風が吹いているのをはっきりと感じる。辺りを見渡すと、小高い茶色の山が間近に見えていて、いま立っている場所はその山から真っすぐに下りてきた中腹辺りのようだ。その裾野の緩やかな斜面に、たくさんの向日葵が咲いていて、風に揺れている。
その向日葵の前に、誰かが1人、こちらに背中を向けて立っている。白いワンピースからは細い足が伸びていて、その長い黒髪が風になびいている。女性だ。
(誰だろう——)
彼女は振り返らないまま、風を受けてその髪を揺らしている。向日葵がまるでその彼女を見守るように静かに揺れている。次第に太陽の光が弱まっていくにつれて、向日葵の花の鮮やかな黄色も少しずつ失われていく。サラサラと向日葵の葉が擦れ合う音が聞こえるだけで、辺りは静寂に包まれている。
彼女がふと、空を見上げた。そこには、夕空の鮮やかなオレンジ色が過ぎ去り、水色が藍色に変わりつつある空が広がっている。見渡す限り、山に囲まれた場所のようではあるが、空には雲一つなく、その空も意外なほどに大きい。ふと気づくと、その空の端の方に、大きな満月が白く静かに現れていた。空の色が暗くなっていくにつれて、ゆっくりとその輝きが増していく。その時、風が急に吹いてきて、土埃が目に入ってしまい、思わず下を向いて目をこすった。
再び目を開けた時、向日葵の前に立っている彼女の姿は変わらずそこにあった。彼女はまだ、空に現れた大きな月を見上げている。まるで、月に心を呑み込まれてしまっているかのように、ただじっと動かない。
すると突然、彼女の声が聞こえてきた。
「遥人……1つ、お願いがあるんだ」
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「遥人——?」
ふと、誰かの声が聞こえる。ハッとして頭を上げる。
「誰……?」
えっ、という声を出して母がこちらを見つめる。
「お前……どうしたんだい?」
「母さん——」
声を出したが、急に頭がズキズキと痛んで、思わず頭に手をやる。
「お前、一体……」
母は何か言いたげに遥人を見下ろしていた。
「ごめん。ちょっと、頭痛いから……もう寝る」
そう言って、母から逃げるように急いで2階に上がると、自分の部屋に入って明かりもつけずにベッドに倒れこんだ。部屋はもう暗くなっているが、構わずに目を閉じる。
胸がドキドキと高鳴っている。さっき見た夢のような風景が無性に気になっていた。なぜ、これほどまでにドキドキしているのだろうか。普通の夢とは違って、風や土埃の感触に妙に現実感があっただけではない。とにかく、その風景と、そこにいた女性に、もう一度会いたいと思った。記憶に無い場所、そして人間に、どうしてそこまで会いたいと思っているのか、自分でも全く分からなかったが、どうしてもその夢をもう一度見たいと思いながら、暗い部屋の中で目を閉じた。
******
窓の外から差し込む陽の光で目が覚めた。スマホを見ると、朝6時になっている。どうやら何の夢も見ずに寝てしまったようだ。起き上がり、着替えだけ済ませると、部屋の隅に置いていたバッグに荷物を詰めて、1階に降りて行った。既に母は起きていて、店の準備を進めていた。
「ああ、おはよう。体調は大丈夫?」
遥人の姿を見て尋ねる母に、静かに頷く。
「ごめん。何だかあのまま寝ちゃったみたいでさ。よく寝たから、すごいスッキリしたよ。だから、今のうちに帰ろうかと思って」
良く寝たことは事実だった。だが、頭の中にはまだ昨日の夢がはっきりと残っている。しかし、なぜか母とはその話をしたくない。少しでも早くこの家を離れたいと思った。
「もう帰るのかい? ご飯くらい食べていけば?」
静かに首を振ると、「じゃあ、行くよ」と言って店を出ようとした。
「あのさ。遥人——」
振り返ると、母はカウンターの向こうから自分の手元を見ながら話し始めた。
「昨日の占いのことなんだけどね」
うん、と応えると、母は少し間をおいて続けた。
「もしかして、何か……夢みたいなものを見たんじゃないの?」
ドキッとして、母から視線を逸らせたまま答える。
「いや……どうだったかな。もう忘れた」
「辺り一面に向日葵が咲いている風景」
えっ、と思わず母の顔を見つめた。なぜか胸がドキドキする。母には見えていたのだろうか。彼女は平然とした様子で、下を向いたまま自分の手元だけを見ている。
「その夢って……占いと関係あるの?」
動揺を必死に隠しながら遥人は尋ねたが、母はまだ手元を見たまま答える。
「いや……だけどさ」
母は相変わらず手元の鍋の様子を見ていたが、しばらくして、ようやく顔を上げて遥人を見つめた。
「この前ね。人間は灰色の記憶を乗り越えるために、誰かの存在が必要なんだって言ったのを覚えてる?」
「うん——」
「だけど、誰を求めるのか、どうやってそれを乗り越えるのか。それを決めるのは自分自身。そしてそれができるのが本当の大人なんだ。占いなんかに頼らなくてね。お前だって20歳になったんだから、自分の進むべき道は、自分で決めていくんだよ。もちろん、人様には迷惑をかけない範囲で」
真っすぐにこちらを見た母の顔は、初めて見たような真面目な顔だと思った。どうして母がそんなことを言うのか。自分が見た夢は一体何を示しているのか。母に聞き返したいことはいくつもあった。だが、その時の母の顔は、不思議とそうした質問を一切許さない雰囲気を醸し出していた。言葉を返せないでいた遥人に、母は一言だけ付け加える。
「だけど、困ったことがあったら、すぐに私に連絡しなよ。私はこれでも、お前の母親。一番身近で頼りになれる人間なんだからね。さっきみたいに、夢の事を覚えていないとか、嘘をついちゃ駄目」
頷く遥人に、母は「じゃ、気を付けて」と言って送り出す。ガラガラと引き戸を開けて外に出ると、少しだけ雨が降り始めていた。