第3話 恋は突然、雨の日から始まる
「私たち・・・付き合って1年になっちゃったね~あはっ」
「ああ~始まりは確かこんな雨の日だったな・・・」
「早いものね~」
窓の外を雨音だけが通り抜けていく。
「祥子、おまえさぁ~」
「なあに?・・・」
「いや、どうでもいいことなんだけどさ・・・」
「何?・・・」
「やっぱやめとくわ!」
「あっ、ずる~い!言いかけてやめるなんて!」
「・・・・」
「教えてよ!何?、何なの?」
「・・・・」
「言い出しっぺが黙り込むなんて卑怯だぞぉ!」
「ははっ・・・」
「もう~何よぉ~意地悪!」
「おまえさ・・・」
・・・・・・・・・
時刻は夜の10時になろうとしていた。
閉じられたブラインドの向こう側から雨音がかすかに響いてくる。
俺は残業のため、この時間まで引っ張った部下のことが気になった。
「よし、ふたりともお疲れさん!もうこのあたりで置こう~遅くまで手伝わせて悪かったなぁ~」
「いえ、そんな・・・」
「あっ、そうだ。川越君!」
「はい、何すかっ?」
「あのさぁ~時間も遅いし、外は雨も降ってるみたいだから・・・村上君、送って帰ってくれるかな?」
「すみません課長・・・俺、今からデートなんです!」
川越は照れくさそうに、頭を掻きながら俺の方へと振り向いた。
「今から?・・・もう10時前だぜ?ふん、若い奴はいいな!」
「えへっ、申し訳ないっす!」
「いいよ、いいよ!俺が送るから・・・」
「課長・・・気を使ってもらわなくても、わたし大丈夫ですよ!」
祥子は明るい笑顔を浮かべ俺を見つめている。
「何言ってんだ~うら若き乙女を夜道のひとり歩きさせる訳にはいかないよ!」
そう言って俺は書類を鞄に詰め、帰宅の準備をはじめた。
この時はまだ、何の変哲もない上司と部下・・・ただそれだけの関係だった。
坂城恭介37歳・村上祥子22歳・・・この日を境に、ひとりの男と、そしてひとりの女のドラマが始まりを告げた。
言葉にすることもなく、ただ単に傘を並べて歩いた。
6月の雨は激しくもなく、さりとて弱々しくもなく・・・とり止めもなく淡々とふたりの傘を濡らしていく。
照れくさいのか、恥ずかしいのか、祥子は俯うつむいたまま俺の横を寄り添う。
「課長・・・」
「ん、何だ?」
「本当にすみません・・・」
祥子は俺をじっと見つめて突然口を開いた。
「どうして?」
「だって・・・申し訳なくて」
「バカ!気を使うなよ!」
俺はそんな祥子にさりげなく笑顔で答えた。
(栞らしいこと言っちゃって~可愛いなぁ~)
「・・・・」
祥子は笑みを浮かべながら俺から視線を逸らさない。
「ほんとはさぁ~食事にでも誘えばいいんだろうけど・・・そこまで君を束縛しちゃ悪いだろうと思ってさ!ははっ」
「何故?・・・」
「だって・・・いつまでも堅苦しい上司と一緒だと、君も息が詰まるだろう?」
俺は笑いながら彼女の顔を伺った。
「・・・・」
祥子は慌てて恥ずかしそうに視線を落とした。
雨にけむる雑踏の都会・・・
濡れぼそるネオンサインがひときわ鮮やかに色めく・・・
男と女の他愛もない会話なんて喧騒の中に、そして傘を打つ雨音に消えてしまいそうだ。
「ありがとうございました!」
祥子は満面に笑みを浮かべて深々とお辞儀をした。
俺はそんな彼女がいつになく、とても可愛く思えた。
「うん、今日は遅くまでご苦労様~明日もよろしくな!」
「はい!」
「じゃあ~!」
挨拶代わりに手を上げ、帰ろうと振り向きかけた瞬間、
「あの・・・課長?」
「うん?・・・」
「あの・・・よかったら寄っていきません?」
祥子は恥ずかしそうに、もじもじしながら口にした。
予期もせぬ彼女のその言葉に、おもわず俺は声を洩らしてしまった
「えっ?・・・」
「私・・・ひとりなんです」
「あっ!そうっだったなぁ~君は独り暮らしだったもんな!」
「是非、寄っていって下さい!今からひとりで食事作るの淋しくって・・・」
俺の顔を刹那げにじっと見つめる祥子・・・
「・・・・」
俺はそんな彼女に返す言葉が探せない。
しばらくふたりの間を沈黙だけが漂う。
雨は一向に降り止む気配をみせない。
俺たちは祥子のマンションの入り口に、ただ立ち竦んだ。
「ダメですか?」
祥子は首を少し傾けながら俯き加減に視線を落とした。
「ダメってことはないけどさぁ~独身女性の部屋に俺なんか入れたら変に君が疑われるだけだぞ?」
俺は彼女の突然の誘いに照れくさくなって、あたりを見廻しながら苦笑いを浮かべた。
「いいんです!」
その返事に反応するかのように、祥子は顔を上げ俺を笑顔で見つめる。
「どうして?」
「私・・・彼なんていないし・・・それに・・・」
「うん?・・・」
「それに・・・」
祥子は言葉途中に再び俯いてしまった。
「???・・・」
「・・・・」
恥ずかしそうにする彼女からもう言葉は発せられなかった。
でも俺はそんな祥子の仕草が微笑ましく感じられ・・・
そして遠い昔に置き去りにしてきた『ときめき』という言葉を俺に思い起こさせた。
村上祥子22歳・・・今年入社2年目、俺の課に配属になって1年が過ぎようとしていた。
性格も明るく、よく気がつく・・・その上、美人ときちゃ社内でも『誰が彼女を射止めるか?』って独身男性の注目の的になっている。
俺だって男だ。そんな彼女が満更気にならないって訳ではない。
「やっぱ、俺・・・帰るわ!」
照れくささも手伝っていたのだろう。
俺は祥子に微笑みながら、そんなひと言を残して振り向き歩きかけたその瞬間・・・
「帰らないで・・・」
そう言って祥子が、俺の背中にギュッとしがみついてきた。
俺はあまりにも突然の出来事に、頭の中が一瞬空白になった。
「おいおい~~どうしたんだ?」
「私・・・私・・・」
「うん?」
「課長が・・・」
「・・・・」
「・・・・」
俺は彼女へと振り返り、そして言葉半ばに俯く彼女を優しく胸に包み込んだ。
きっとこの時のふたりには・・・言葉が無くたって、気持ちで通じ合える空気が流れていたんだろう。
そしてその場に立ち竦む男と女を、6月の雨が淡々と濡らし続けた。
男と女のドラマは本当に不思議なもんだ。
出逢いは突然訪れ、そして一方通行の道を歩くがごとく動き始めてしまう。
まるでそれは、戻ることを許さないかのように・・・
人生なんてどこで何が起こるか判らない。だから面白いのかも知れない。
俺はそんなふうにひとり考えた。
・・・・・・・・
「えっ?何なの?・・・」
祥子は俺の勿体つけに痺れを切らしてきたようだ。
俺はそんな彼女の表情を楽しむかのように人差し指でオデコをつついてやる。
「ばぁ~~か!」
「もう!何よ~!」
少しほっぺを膨らましすねる顔もまた可愛い。
今宵はうたかたの一瞬に心から酔えそうだ。
やさしく、やさしく時間が流れ、そしてふたりを包んでいってくれる。
そんな癒しの空間が・・・
心つなぎあえるひと時が・・・たまらなく愛せた。
そして世界は誰かの為にじゃなく、ふたりだけの為にある。
もうどんな犠牲を払ってでも失くせない・・・
そんな錯覚に浸っていけた。
「おまえさ・・・」
「何?・・・」
「おまえさぁ~幸せか?」
「・・・・」
「・・・・」
「うん・・・」
祥子は一瞬呆気にとられたみたいだが、俺の傍らで素直に頷き、そして静かに目を伏せた。
「・・・・」
返す言葉なんてもういらないだろう。やさしく微笑むただその笑顔を見つめた。
「あなたは?」
「俺か?・・・」
「あなたはどうなの?」
祥子は輝かせた眩しい眼差しを俺に返す。
「俺は・・・」
「俺は?・・・」
「俺はさ・・・」
『おまえと出逢えたことがたまらなく嬉しいんだ!』