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眩暈~めまい~

作者: 天野雄二

「きゃーーっ!!」

「カメラのおじちゃん、あちょぼー」

カメラを構える俺の腕にぶら下がる園児達。写真撮れねーよ、と邪険に扱えば、号泣し、甘い顔をすれば、遠慮なく邪魔をしてくる。

「や、やめなさい!」

「わー、きゃははは」

「ぐぅえっ! い、イテッ」

「おじちゃん、おもちろい!」

移動する俺の両足に囚人の足かせのようにしがみついてくる。中には、怒らないのをいいことに、俺の股間にグーパンチを食らわしてくる奴もいる。過酷な現場だ。先生達も笑ってないで、ちょっとは、ガキどもを叱れよ!

 俺が、ここに通っていたのは、もう3〇年も前のことになる。給食のパンがでかすぎて、お昼寝の時間まで食べ続けていた。「つらい」と誰にも言えない、不器用なガキだった。

その幼稚園で子供たちにカメラを向けているのは、園児たちの日常を撮って欲しいという園長からの依頼を受けたからだ。俺は、おっぱい臭い幼児が嫌いだ。幼児は、「遠慮」という言葉を知らない。暴力的で繊細さの欠片もない。しかし、幼い命のパワーは、想像を絶する。その熱量を全て切り取ることができれば・・・。

 俺の名前は、葛城ジョウ。プロのカメラマンだ。頑健な体を駆使して、命のキラメキを切り取るためなら、どこへだって行く。本当にどこへでも・・・。


「ドーン、ドーン」と、身を隠している廃屋の煉瓦塀から、遠くに着弾する砲弾の音が地響きのように伝わってくる。首筋から出た汗が、じっとりと体にまとわりつきながら、流れていく。胸に提げた一眼レフが俺の呼吸に合わせてかすかに動く。俺は、鼓動が落ち着くのを待っていた。命を危険にさらした現場で、自分の体調に異変がないことを祈っていた。ここは、カザビア共和国。政府軍とレジスタンスが激しく戦闘を繰り広げる街角だ。俺は、崩れかかった壁の陰で、銃撃戦をやり過ごしていた。見つからないといいが・・・。見上げると、崩れ落ちた天井から、中東の青い空がのぞいていた。今回は、大丈夫なようだ・・・、今回は。


俺の仕事は、カメラマン。写真のセンスと共に強い体が不可欠な職業だ。親のくれた頑健な体と風邪ひとつひいたことのない健康が俺の自慢だ。ただ一点、時々襲う「眩暈」の症状を除けば。

俺が、自分の体に起きる異変に気づいたのは、小学4年。幼なじみのユウちゃんと学校の裏山でかくれんぼをしていた時のことだった。草むらで縮こまっている俺の全身を蝉の鳴き声が包んでいた。俺は、思わず近くの木で鳴いている蝉にカメラを向けた。誕生日プレゼントにもらったコンパクトカメラは、今に至るまで俺の相棒になっている。アブラゼミの腹の動きを凝視していると、遠くから、ユウちゃんの声が聞こえてきた。

「もう、いいかーい?」

「まあだだよ!」

 懸命に鳴く蝉の姿をカメラに収めたかった俺は、小さな嘘をついて、シャッターを切り続けた。しばらくすると、急に俺の周りの蝉の声が聞こえなくなった。不思議な静寂に包まれた俺は、岩の陰に隠れた。すると、さらに大きなユウちゃんの声が聞こえた。

「もう、いいかーーい?」

「もういいよ!」

 そう叫んだ瞬間、強烈な眩暈に襲われ、俺は気を失った。が付くと俺は、太い丸太の陰に隠れていた。目の前にいる男の子に、

「ユウちゃん・・・」

と、声を掛けようとして、言葉を飲み込んだ。違う、ユウちゃんじゃない。この子は、誰だ? 周りを見回すと、舗装もされていないでこぼこの土の道路に、ずっと続く煉瓦塀が見えた。

「どこなんだ、ここは?」

俺が、懸命に考えていると、男の子が耳元でささやいた。

「ジョウちゃん、あの塀の上を見てごらん」

彼の指さす方向を見た俺は、ぎょっとした。

「何だと思う?」

猫にしては大きな影だ・・・。いや待てよ、これは、どこかで見

た風景だぞ! 俺の体を、雷に打たれたようなショックが走った。

江戸川乱歩! と、言うことは目の前にいるのは・・・。

「小林君!」

「しーっ!声をだしちゃだめだよ!」

不意に大声を出した俺を窘めるように小林君が振り向いた。初めて会うのに妙に懐かしい。そうだ、この顔は、乱歩の本を読んだ時、さし絵で見た少年の顔だ。これは「少年探偵団」の世界なんだ。

「ジョウちゃん、見てごらん・・・。虎だ!」

塀の上をゆったり歩く虎。虎と目が合い、しまった! と思ったがもう遅かった。虎は塀を飛び降り、俺たちを目がけて走ってくる。

「ジョウちゃん、逃げよう!」

「うん!」  

小林君に促され、俺は走り出した。ぐんぐん先を行く小林君。小林君との距離が広がり、逆に虎との距離が縮まっていく。しかし、俺の頭の中は、意外に冷静だった。案外、ピンチな時ほど頭脳は、冴えるものなのかもしれない。

「これって、虎じゃなくて、豹じゃなかったかな?」

と、振り向くと、けものの臭いと、鋭い牙が、目の前にあった。

「ワーーーーッ!!!」

「ジョウちゃーん!!」

その場に倒れ込んだ俺の肩に、虎の爪が食い込むのを感じながら、

コンパクトカメラのシャッターを切った。

「ジョウちゃあああーん」

小林君の声が、俺の耳に響いた。俺は、そのまま、気を失ってしまった。

 どれぐらいたっただろうか? 俺は、小学校の裏山の岩陰に倒れていた。

「ジョウちゃん、ジョウちゃん!!!」

遠くから聞こえる声は、小林君ではなかった。

「ジョウちゃん!」

ユウちゃんに肩を揺すぶられ、俺は目を覚ました。

「あれ、ここは・・・」

「びっくりしたよ、見つけたらジョウちゃんが倒れてるんだもん! 

死んじゃったのかと思ったよ」

 俺の体を心配するユウちゃんの顔が、はっきりと見えた。俺は、体を起こしながら周りを見回した。そこは、江戸川乱歩の世界ではなく、見慣れた学校の裏山だった。俺は、自分が元の世界にいることを確認し、大きく息をついた。

「ユウちゃん、ありがとう」

「どうしたの?」

俺は、今あった出来事をユウちゃんに勢い込んで話そうとした。

「ユウちゃん!僕、今、少年探偵団の小林君と一緒だったんだよ! 

虎もいたんだ!」

「何言ってるのジョウちゃん。暑いから、怖い夢でも見たんだよ。

今日は、もう帰ろう、さあ・・・」

ユウちゃんの気遣う顔を見て俺は、これ以上、言ってはいけないような気がしていた。

「うん・・・」

俺たちは、すっかり傾いた夕日を正面から浴びながら、家路についた。あれは、夢なんかじゃない。なぜなら、ズキリと痛む左肩には、あいつに噛まれた牙の痕が、生々しく残っていたからだ。

それ以来、俺は眩暈を起こすとパラレルワールドへ飛ばされるという症状を繰り返すようになったんだ。


この不思議な出来事が起こる前、俺は、父から誕生日プレゼントに、1冊の写真集と『JOE KATURAGI』の名前入りの小型カメラをプレゼントされた。その写真集の表紙には『炎の写真家葛城ジョウ』とあった。父は、「葛城ジョウ」のファンだった。

「この人、僕と同じ名前じゃないの?」

「俺の好きな写真家の名前をお前に、もらったんだ」

不思議がって尋ねる俺に、父は、どこか自慢げにそう言った。俺は、父の話を聞きながら、その写真集のページをめくった。戦地、赤ん坊、砂漠、親子・・・、そこには、命のキラメキがあった。幼いながらも俺は、体の奥から湧きあがる熱情に興奮した。

 以来、俺は写真に魅せられていった。命の輝きを残すカメラマンという仕事に引き寄せられていったんだ。

 

 中学生になった俺は、写真に夢中だった。父にもらったコンパクトカメラをポケットにしのばせて登校していた。雨上がりの水たまりにいるアメンボ。必死に働く宅配便のおじさん。身の回りに命のキラメキは、あった。

2度目に飛んだのは、中学2年の夏、俺は教室で歴史の授業を受けていた。教壇では、広めの額を光らせた男性教師が、淡々と授業を進めていた。

「この戦争では・・・」

教師の声を聞き流しながら、俺は、教科書を見ていた。そこには、太平洋戦争の沖縄戦の写真があった。逃げ惑う島民。迫りくる火炎放射器。じゅうたん爆撃・・・。俺の目は、釘付けになった。命の軽さ、そして、それを伝える写真の力に・・・。俺は、食い入るように教科書を見つめ続けた。教科書の中で沖縄の海上戦が繰り広げられていた。艦船と爆撃機が撃ち合っている。俺の耳に銃撃音が響く。沖縄の空には、爆撃機が飛び交っていた。俺の周りでは、授業が進んでいた。遠くに教師の声が聞こえていた。

その日の午後、俺は体操服に着替え、運動場で準備体操をしていた。肌身離さぬ小型カメラを首から提げ、体操服の中にしのばせていた。俺は、走ることが好きだった。しかし、あんなところで走ることになろうとは、この時は、知る由もなかった。

 部活動が始まり、ストップウォッチを提げた顧問教師がトラック

内にやって来た。俺たち陸上部員もトラックに進み出た。  

「よし、タイムトライアルやるぞ!」

「用意・・・、ピーッ!!」

 笛の合図でタイムトライアルが始まった。トラックを走り始めると風を感じた。リズムよく走り続けることで、疲れを感じることなく走れる。時間がたち、隊列がばらけ始めるころが、スタミナ豊富な俺の時間だ。

「58、59、60・・・。いいペースだ。葛城、あと20周だ!」

「はい」  

俺は、短く答え、ペースを上げた。残り1周を切った時、一瞬風が止まった。世界が無音になり、あの眩暈が襲ってきた。

「うっ!!」

「葛城!かつらぎー!!!」

トラックに倒れ込んだ俺に、顧問や陸上部員が駆け寄ってきた。薄れゆく意識の中で俺の耳には、「カチカチカチカチ・・・・」と時を刻む針の音が、徐々に大きくなってきていた。そのまま、俺は深い闇の中に落ちていった。

気が付くと俺は、丈の高い青草に囲まれ倒れていた。上を見ると、草の間から、突き抜ける青い空が小さく見えた。その草は、サトウキビのようだ。体を起こした俺は、体操服のままだった。上空を「ブーン」というエンジン音とともに飛行機が通り過ぎた。俺は、正気を取り戻し、辺りを見回した。

 そんなに遠くないところで、砲弾の炸裂する音がした。俺は反射的に走り出した。サトウキビの間を闇雲に走った。転んでは、また、立ち上がって走り出した。上空から聞こえるエンジン音。爆撃機が、俺の頭上に近づく。俺は、恐怖に身が縮んだ。

「ダダダダダッ」

機銃掃射だ! 頭を抱えた途端、俺は派手に転んだ。爆撃音とともに、弾が前方をかすめた。あのまま、走っていたら、俺は・・・。

「わーーーーーっ!!!!!!」

腹の底から湧いてくる恐怖。激しい吐き気が俺を襲う。口の中いっぱいに苦い感覚が広がる。起き上がり、走りながら、叫び続けた。爆撃音が大きくなり、自分の声が聞こえなくなる。思わず、俺は、胸のカメラをつかんだ。父の力にすがりつきたかったのかもしれない。夢中で1度だけシャッターを切った。頭上にエンジン音が迫る。俺は、足に痛みを感じ、その場に倒れ込んだ。もう、終わりだ…。

「うわーーーーーああああ!」

「葛城・・・、葛城・・・」

爆撃音は消え、俺を呼ぶ陸上部顧問と陸上部員の声が聞こえてきた。俺は、トラック脇に倒れていた。

「・・・葛城! 大丈夫か?」

ゆっくりと周囲を確認した俺は、自分の右足から血が流れている

のを見た。

「ここは・・・」

「大丈夫か?葛城」

「ばくげき・・・」

「うんっ?」

「いや、なんでもありません」

 今までいたサトウキビ畑。あれは、沖縄だろうか? と、思ったが、俺は何も言わず、体を起こした。

「ありがとうございます、先生・・・。すみませんでした」

「何を言っているんだ、とにかく保健室へ行くぞ。歩けるか」

俺は、顧問に肩を貸してもらって歩き出した。このとき初めて命を懸けて走ることの怖さを知った。死からのがれるために走らざるを得なかった人々の気持ちを残したいと強く思っていた。

今でも、あの時のことをよく思い出す。俺の目には、運動場を顧問に支えられながら歩く自分の小さな後ろ姿が見える。あの時、保健室へ歩きながらプロのカメラマンになろうと決心したのだ。

 

ようやく写真で飯が食えるようになったころ、初めての個展を開

くために、その題材を求めて、北海道月形町月形樺戸博物館に来ていた。建物を見ながら、昔の管理棟を改装した館内に入った。特別な取材許可を取った俺は、あちこちでシャッターを切った。北の大地で、明治の息吹を感じたい。写真展をイメージしながら俺は、映像ルームのベンチに腰掛け、パンフレットを広げた。樺戸集治監(かばとしゅうちかん)。それは、今でいう刑務所だが、正確に言うと、すこしニュアンスが異なる。ここは、長期刑や終身刑の囚人を集めた施設で、明治初期には、政治犯も収容されていたらしい。そして、彼らを北海道を開拓するための労働力として配置したのが、この施設設置の目的だったようだ。冬の厳しい北海道のこと、想像しただけで眩暈がしそうだった。

「眩暈がしそうだぜ・・・」

そうつぶやくと体に異変が。動悸が激しくなり、軽い眩暈を覚え

たのだ。自分の呟いた『眩暈』という言葉に体が反応したようだ。

 俺の目の前には、パンフレットの世界、樺戸集治監が広がっていた。俺は、樺戸集治監へ次元スリップしてしまっていた。俺の目に監獄の格子が見えてきた。

「『眩暈がしそうだぜ』って呟いただけじゃないか!馬鹿じゃないの!! まったく・・・」

 俺は、文句を言いながら、シャッターを切りまくった。作業中な

のか、人けのない房や建物が不気味だった。

「作業中の囚人たちを探しに行くか・・・」

 自分に言い聞かせるように呟くと、足音を潜め、建物の外へ出ていった。遠くに木を切ったり、抜根したりしている囚人服の集団が見えた。目の前に広がる原野は、今、まさに開発されようとしている大地だった。俺は、必死にシャッターを切った。大地の持つパワーに圧倒されていた。黙々と土地の改良に立ち働く人々の姿に自然と涙が流れた。身を隠し、囚人たちに近づきながら、さらにシャッターを切った。と、不意に甲高い笛の音がした。

「脱走か?」

 俺は、走り出した。逃げる囚人の姿を認め、追いかけながらシャ

ッターを切った。木々に身を隠しながら、走り寄った。

「待てーっ!止まらぬと切るぞーっ!」

看守の声を振り切るようにして囚人が逃げていく。俺は、木の陰で弾む息を整えた。

「見失ったか・・・。やむを得ん。馬で追いかけましょう」

「くそっ!」

 看守たちは、そう言うと、木の陰の俺の方を振り向いた。目が合

った、しまった!。

「おい、お前!」

「ひーっつ!!!」

看守に見つかった俺は、その場で飛び上がった。尻の穴が縮こまるのを感じた。

「怪しいやつめ、何だ、それは!」

看守たちは、俺に駆け寄ると、カメラを指して聞いてきた。

「まずい」

 俺は、逃げた。

「そいつを捕まえてくれー・・・」

「任せろ!」

 看守たちが、示し合わせて俺を追いかけてくる。後ろを振り向かず、俺は必死に逃げた。背後に迫る看守たちの気配。さらに後ろから馬に乗った看守が迫る。駆ける蹄の音が、あっという間に俺に追いついてきた。俺は、背中に焼けるような痛みを感じた。馬上の看守がサーベルで切り付けてきたらしい。

「わーーーーーーっ!!!」

 もんどりうって倒れ込みながら、一眼レフのシャッターを切った。俺の意識は、大地の闇に吸い込まれて、消えた。

 博物館は、閑散としていた。映像ルームのベンチに横になっている俺に職員が声を掛けてきた。

「お客さん、閉館時間だよ。お客さん」

「ど、どうもすみません・・・」

 俺は、大きく息を吐くと、出口へ向かった。俺を見送る職員の目

には、ザックリと斜めに切られたジャケットの背が見えていたのだ

ろうか。


俺は、写真のためなら、どこへでも行く男だ。今回の仕事場は、熱海。ある会社の慰安旅行に同行していた俺は、駅前で、満面の笑みを浮かべる社員たちの集合写真を撮っていた。撮りながら、自分の眩暈にまつわる不思議を思い返していた。眩暈がするとどこかへ飛んで行ってしまう面倒くさい体質。そんな奇病を抱えながら、プロカメラマンとしての仕事を続けてきたことに感慨を覚えていた。

ある時は、関ヶ原の合戦へ飛んだ。切り合う武士たちの只中、足

軽に追いかけられた。

「お前、何者だ!」

「止まれーーー!」

「止まれるかあ。たすけてくれー」

 俺は、走りながらシャッターを切った。

また、ある時はライヘンバッハの滝。俺は、向かい合うホームズとモリアーティを崖の上から見下ろしていた。2人の頭上の枝にしがみついていた。

「ホームズ、いよいよ終わりだな」

「それはどうかな?」

 2人は、取っ組み合いになった。その時、しがみついていた枝が折れ、俺は2人の上に落ちてしまった。俺にぶつかられた2人は、俺もろとも、滝壺へ落ちていった。俺は、落ちながらシャッターを切った。俺のカメラには、驚きの表情で滝壺に落ちていくホームズとモリアーティが収められた。

「Oh!No!!!!!」

「俺が原因だったのかあ!!!!」

3人の叫びは、瀑布の轟音にかき消されていった。


飛んで行く先は、現実の世界もあれば、小説のような、虚構の世

界もある。しかし、俺の身に起きているのは、まぎれもない現実だった。そして、どんなに危険な世界でも、カメラのシャッターを切れば、もとの世界に戻れることに気付いた。

慣れとは、恐ろしいものだ。俺は、どんどん大胆になっていた。父の形見のカメラがあれば、元の世界に戻れることが、分かったからだ。命の輝きを収めるためなら、どこへでも行ってやるという決意は、更に固くなっていた。

 そんな時、新たな仕事が発注された。海外、ドイツアウシュビッ

ツ記念館の取材だった。曇天に佇むアウシュビッツ記念館。建物の

前で空を見上げた俺は、前日に食べたドイツ料理のことを思い浮か

べていた。ドイツビールに本場のソーセージ。食べられることの幸

せをかみしめていた。

 記念館に足を踏み入れた俺の気持ちは沈んだ。首に提げたコンパクトカメラを握り締めた。アウシュビッツの雰囲気が、俺を飲み込み始めていた。館内の展示品から、命の叫びが俺に聞こえてきた。息詰まるほどの迫力に圧倒された。第2次世界大戦の負の遺産を集めた展示物の放つ力に打ちのめされた。その一つ一つが語りかける物語に涙が流れた。俺は、夢中でシャッターを切った。

響くシャッター音がどんどん大きくなり、俺の脳裏がシャッター

音に埋め尽くされた。

「うわーーーーーーぁっつ・・・・・・・・・・!!!!!!」

 頭をシャッター音で占領された俺は、身をよじりながら倒れた。俺の手を離れる一眼レフ。首に提げたままの小型カメラ。俺の意識が遠のいていった。

「う、く、臭い」

 俺は、周囲に立ち込める悪臭で目が覚めた。牢の中の俺は、囚人

服を着ていた。いつもの眩暈と違うのは、服が替わっていることだ

った。その時、目を開けた俺を覗き込んでいる少年と目が合った。

「Sind sie OK?(大丈夫か?)のドイツ語」

 俺は、尋ねる少年を見ながら起き上がった。

「ありがとう」

 日本語で答え、周囲を見回した。アウシュビッツだと、徐々に事

態が呑み込めてくると、すさまじい悪寒が走った。

「こ、ここは・・・・。アウシュビッツか! 取材中に、気を失っ

たか・・・。あれ? 一眼レフ・・・」

 俺は、一眼レフを失っていた。命よりも大事なカメラ。呆然とする俺のコンパクトカメラを指し、少年が言った。

「カメラ、カメラ・・・」

「これか?これは、父さんからのプレゼントなんだ・・・」

「present?」

「うーん、ドイツ語だとGeschenkかな?」

「Geschenk・・・」

「そうMein Schatz(私の宝物)」

「Schatz・・・」

この時俺は、不思議な感覚に捉われていた。この少年に託したい、という強い衝動に突き動かされた俺は、コンパクトカメラを少年に渡していた。俺のカメラを見つめる少年が何か言おうとした時、房の外で足音がした。少年は、おびえた表情でカメラを隠した。俺は、房の外の様子をうかがった。やってきた看守が、何か言った。

「収容房D、大人は全員外へ出ろ(ドイツ語)!」

 ドイツ語が分からない俺が、じっとしていると、

「お前、何をしてる!!」

と、看守に言われ、房から引きずり出された。俺は、渾身の力を込

め、少年に叫んだ。

「Mein Schatz!」

 うなずく少年の目が忘れられない。ホッとした俺は、叫んだ。

「ま、待ってくれー!私は、日本人だー!カツラギジョウ、アイム、

ジャパニーーーーズ!!!イッヒ、イッヒ、あーーーーっ!」

 俺の最期の叫びは、囚人たちの後ろから、館内に虚しく響いた。

他の囚人たちと共にガス室に閉じ込められた俺は、どこか、最期の時を感じつつも叫び続けた。

「おれは、にほんじんだあああ」

 周りの囚人は、皆あきらめたような表情であった。

「やだあーーーー、死にたくなーーーい。助けてくれーーーー」

 俺の絶叫は、ガス室の外には届かないのだろう。

ガス室の操作室では、看守がガス室のジョウを指して話していた。

「あの変な奴、見たことあるか?」

「さあな、気にするな、俺たちには関係ないことさ」

「ハハハハハ・・・」

操作盤に向かって座る看守たちは、作業を続けた。

「最後だ!」

 操作盤のスイッチが入る。

 ガスが注入されたようだ。最後の力を振り絞って俺は、叫んだ。

「待ってくれーーーーーー」

 俺の意識には、今までに撮った写真がシャッター音と共に何枚も

何枚も浮かんでは消えた。走馬灯を見ながら意識が遠のいていった。


開館時間を迎えるアウシュビッツ記念館では、被害者の名前や経歴が延々とスピーカーから流されていた。その中には、ジョウ・カツラギの名前が・・・。

主をなくした仕事部屋の机上には『炎の写真家葛城ジョウ』が開いて置かれている。そのページには、月形集冶監の写真が載っている。隣のページには、追いかけてくる足軽の顔の写真が掲載されていた。足軽の写真の下には、房で話したユダヤ人の少年の顔の写真がある。


下町日本家屋の葛城家の部屋にベビーベッドが置かれている。ベビーベッドには、笑顔いっぱいの赤ん坊がいた。1980年.葛城家に長男が生まれた。名前はジョウ。元気な男の子である。赤ちゃんの手には、SDカードがしっかりと握られている。

 その時、葛城家の玄関前には、白髪の外国人が「KATURAGI」の表札を見て立っていた。外国人の手には、古ぼけた小型カメラが握られている。

「Ihre Schatz・・・(あなたの宝物)」

つぶやいた外国人の手が、呼び鈴に伸びていく。


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