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たおやかな狂える手に②

 朝は、窓から差し込む光で目が覚めた。いつの間にか眠っていたようだった。

 薄暗い、ただそんな光だけで満たされた部屋。部屋の反対側のベッドには、穏やかな寝顔で寝息を立てるケイトリンがいた。時刻は授業までまだ随分とあり、しかし二度寝するにも瞼が開きすぎた。昨日の昼間にあれだけ眠って、まだこれだけ眠れる自分に驚いた。思っていた以上に旅に疲れていたのかもしれない。とはいえ、今からこれ以上眠れそうにない。それに、悠長に眠っているほどいろいろなことから目を塞いでいてもいいわけじゃないのだ。脳裏によぎるのは、ケイトリンの微笑みと、昨日の爆発事件。彼女の微笑みなら、すぐ傍で幾らでも眠っていて、別によぎるほどのものではなかったけれど、なぜか頭にずっと居座っている。それが心地良くないと彼女に言えば、もしかしたら傷つくだろうか。私は体を起こして顔を洗い、ケイトリンを起こさないようにシャワーを浴びて、ローブを丁寧に身に着け、剣を腰に吊り、部屋を出た。

 学院は非常に広く、さすがに大陸最大の教育機関というだけのことはあった。小都市レベルはあるだろう。端から端まで歩いていくだけで、きっと何時間も掛かる。校舎が大きく、屋内演習場と屋外演習場があるだけでなく、その数がそれぞれ幾つもある。生徒も膨大な人数だというのに寮は女子男子とも完備だし、遊びのための場や、ゆったり休めるスペース、図書館もカルテジアスの図書館に次いで大きい。また、本当に何気ない並木道や公園のような景観もあり、まさに一つの都市だ。ヘルヴィニアは王都だけれど、そのほぼ中央に区画された学院地域は、魔導士という存在がどれだけ王都にとって大きいものなのかをありありと証明している。

 私はそんな公園のような一帯にあるベンチに座り、しばらくぼーっとして過ごした。羽ばたいていく鳥や、流れて行く雲を見る。そうしていると、どうしてここにいるのかよくわからなくなった。授業に出たいという気持ちは、あまりない。今更、何を学ぶ? 師匠に五年間、いろいろなことを教わった。今更何を。何を学ぶのか。

 自分の手のひらを、太陽に透かして見る。

 私はこの手で、ハイブリッドを殺すためにここにやってきた。

 殺すために必要なものは、この手の炎で充分だ。

 それがなかったとしても、お店に売ってあるナイフで殺しても構わない。

 けれど、きっとその程度で死ぬような相手じゃないから、強くならなければならなかった。だから、師匠の下で魔法の訓練をした。そのことはとても大きな力になったけれど、苦しくて辛かったのも事実だ。血や涙だって、いくらでも流した。でもそれを乗り越えて、ここにいる。だから忘れてはならない。それだけのことを、ハイブリッドはしてみせたのだ。だからそれを殺すことに、これっぽっちも躊躇いなどない。今目の前に、私です、僕ですとそいつが現れたのなら、容易く燃やし尽くして、薙ぎ払ってみせる。それくらいの覚悟なら、簡単に揺らがないくらい、心に深く根を張っている。だから、ハイブリッドを探すためにいろいろなところへ都外研修に行っている。ヘイガーさんやアーニィさんにも会った。ウィルと共に旅をしたのだ。

 だけど。

 ケイトリンのような人がいるなんて、考えても見なかった。

 あんなに無垢に、私に近づいてくるなんて。復讐の話をして、なぜ友達だと言ってくれるの? なぜ笑えるの? なぜ、同じ部屋で、一緒にいようなんて言うのか。私は、あまりにも人と関わらなさすぎた。それは自覚している。だから、あんな娘は初めてだったのだ。だから、だからこんなにも、言いたいことが言えなくて、変な気持ちになっている。ずっと、私の復讐のための一本道には、殺すべきハイブリッドと、私と、ウィルしかいなかった。そこに、他人の存在が在るということを、この学院にやってきて初めて知った。

 世界は、私だけの世界じゃないのだ。

「…………」

 何を――……どうでもいいことで悩んでいるんだろう。

 情けない。

 これが、誰かを殺すと立ち上がった人間の姿か。

 ゆっくりと手を下ろして、溜め息を吐く。

「――――」

 その瞬間だった。

 俯き加減の視界の端に、誰かの足元が映った。

 可愛らしい、靴だった。

 顔を上げると、女の子が立っていた。

 灰色の髪を左右で縛った、綺麗な。

 綺麗な、女の子。

 地面で、風が唸った。

 女の子は、私を見ていた。

「……お姉ちゃんは、ここの学生さん?」

「…………そうよ」

「授業には出ないの?」

 歳は、私より少し下、だろうか。

 なぜここにいる?

 いや、いてもおかしくはない……王都に密着したこの学院は、一般人が入っても構わないのだ。食堂や講堂、図書館は誰でも利用できるし、このような公園では休日に遊びに来る家族がいるという話も聞く。だから、この子がここにいることは別に不思議なことではない……けれど、妙な違和感は何だろう。私は、女の子の瞳を見据えた。

「ちょっと体調が優れないのよ。だから、あまり出たい気分じゃないわ」

「ふーん。それならこんな肌寒いところにいないで、部屋で寝ていればいいのに」

「そうね。でも、部屋にいるのも嫌だったの」

「どうして?」

「まあ、こちらにもいろいろと事情があるのよ」

「事情」

「あまり会いたくない人がいるの」

「なんでその人に会いたくないの?」

 聡明な。

 力強い目だった。

 年下のような風貌で、ベンチに座っている私と視線の高さは同じだけれど、こちらをじっと見つめる瞳には、ただここに迷い込んだだけの女の子にしては、少しだけ不思議な感触がした。威圧感、でもない。何と言えばいいのだろう。冷徹だった。女の子と呼ぶにふさわしい姿かたちだというのに、大人びている。子どものような、無邪気さがない。もちろん、私は今、人との交流の無さを痛感している最中であったのだから、子どもがどのようなものかなんてことさえも自信は無いけれど――。

 私はしばらく黙った後、静かに答えた。

「あまり会ったことのない種類の人だから、距離感に困るのよ」

「わたしとお姉ちゃんは初めて会うけど、こんな風にお話しできているよ?」

「初めて会うから話せる、なんて場合もあるんじゃないかしら」

「そうなのかな」

「そうよ。ところであなたは……何をしているの?」

「人を探しているの」

「誰を?」

「弟。あの子も人を探していて、勝手にどっかにいっちゃった。暴走してるんだよきっと」

「そう。手伝いましょうか? どうせ暇なのよ」

「ありがとう。でも、いいや。それより、誰かこっちに走ってきているよ」

「えっ?」

 あちらに顔を向ける。

 ケイトリンだった。

 彼女はこちらに駆け寄ると、膝に手を置いて息を吐く。その間にゆるりと立ち上がった私は、すぐに息を整え、すっと私の前に人差し指を押し付けるケイトリンを見つめた。

「もうっ、アリサちゃん、どうして勝手にいなくなっちゃうの? もうすぐ授業だっていうのに」

 ケイトリンは頬を膨らませて、穏やかに怒った。噂をすればこれだ……しかし、ケイトリンのことでいちいち悩んでいるのは情けないと悟った今、彼女に振り回されるべきではない。

「どうしてここがわかったの?」

「だって、朝起きたらもういないから、先に教室に行ったんだろうなって思ったら、教室にもいないし……だから、ずっと探し回ってたの!」

「なんで探すのよ。いないのならいないで、そのまま放っておいてくれたらいいのに」

「冷たいなあ。入学してすぐ研修に行っちゃったアリサちゃんは、今日が初授業じゃないの?」

「ケイトリン、あなたとは気質が違ったはずじゃ」

「一年生のこの時間は、全気質共通授業だよ」

 上手く行かないのね。

 彼女は私の手を握り持ち上げる。あまり振り回されたくないというのに。けれど、ここまでやってきた彼女のことを考えると、仕方がないのかもしれない。どうしても周りのことが気になってしまうタイプの子なのか、それとも、いかにも私が学院に溶け込もうとしないのをもったいないとでも思っているのか。わからない。この子のことは、何もわからない。ただ、このまま拒んでも会話に歯止めが効かないだろう。仕方がない。

「……わかったわ。行きましょう」

「やったぁ。じゃあ、早く行こう! 間に合わないよ」

「教科書はいらないの? 私、何も持っていないわ」

「一時間目はいらないみたい」

「そう、ならいいわ」

「うん」

 私は、先ほどまで傍にいた少女に声を掛けようと思い、後ろを振り返る。

 しかし、誰もいなかった。

「どうしたの」

「ここに、女の子がいたでしょう」

「あれっ、走ってきてるときにはいたのは見えたけど、いないね」

「…………」

 いったい、何だったのだろう。

 誰だったのだろう。

 風が静かに吹くと、ほとんど同時にチャイムが鳴り、予鈴がなっちゃったとケイトリンが慌て出す。そんな彼女に手を引かれながら校舎に駆け出すと同時に、青い空の遥かな上の方で、鳥が嘶いた声が聞こえた。辺りにはすでに、授業に間に合うように寮から校舎に向かう人たちが歩き出していて、私もケイトリンも、そんな人たちの一部だと知った。







 それからの一か月は、あまりにも馴染みのないものだった。

 一年生だというから、座学が多かった。教科書を持ち寄り、先生が黒板に理論式を組み上げる。基本的に使用しないが、基礎として魔方陣の描き方を学んだ。大抵ほとんどは受験前にすでに勉強したものだったが、これから七年間学院に通う学院生たちにとっては、慎重にならざるを得ない基礎である。クレイドールという、ある意味で生命を掛けるべき相手も現れ、それを倒さなければならない時期が来るまで、決して基礎をおろそかにしてはいけないし、だからこそ魔法に磨きが掛かっていくのである。先生はそう言った。隣にケイトリンが座り、静かにその話を聴く。

 講義室には、たくさんの人がいた。皆一年生だ。私と同い年。私と同じようにこの学院に入り、受験もして、合格した。そして――私のあの、入学式典での言葉も皆憶えているだろう。それとも、すぐに都外研修に行ってしまったから、もう忘れてしまったのだろうか。どちらでもいい。憶えているのならそれでもいいし、忘れていても、あの言葉はどちらかと言えば教師陣に圧力をかけるためのものだったから、彼らが憶えていなくても、それは構わない。彼らもあまり、私に干渉しては来なかった。あの言葉に怖気づいているのか、単に関心がないだけか。どちらでもよかった。一週間も席を外したのだ。すでにグループは出来上がっていた。ただ、人が私を見て何かを話しているのを見ると、やはりあの言葉が牽制になって、誰も近づかないのだなと悟った。好都合なことだ。一方ケイトリンは他に友達がたくさんいたのに、なぜか私と行動を共にした。

「他の友達はいいの?」

「だって、アリサちゃんが一人になっちゃう」

「同情ってこと? 一人じゃ寂しいだろうからって、驕ってるの?」

「ち、違うよ。アリサちゃんが心配なの」

「…………」

 わかっている。

 ケイトリンが、とても優しい人だということ。私を一人にしないために、一緒にいてくれていること。それが驕りだなんて、私の言葉はとても汚い。何も突き放すことはないのに、それでも突き放したくなる。まだ自分の領域に、触れさせたくないと思ってしまう。自分の過去は話したけれど、それでも近づくなだなんて都合のいいこと、言えないのに。






「で、俺に相談しにきたわけか」

「ちがっ――相談じゃないわ。ウィルはどうしてるかなって、聞きに来ただけよ」

「おいおい。浮かない顔してるから、ケイトリンちゃんのことか? って訊いたら、お前がべらべら話し出したんじゃないか」

「……ああ、ウィルは駄目ね」

「何がだよ。それよりお前、ちゃんとやれてるのか?」

 学院の食堂は、授業合間や休憩時間は大変に込み合うが、ちょうど授業の時間にやってくると当然人はいない。ケイトリンは彼女の気質の授業に出る一方、炎気質の授業はまた時間が違ったので、彼女とは別れ、一人になることができた。その合間にウィルと久しぶりに落ち合い、話をすることにしたのだった。ウィルも授業がなく、いつもと様子に変わりはなかった。

「やれているわ。何も支障はない」

「そうか。何か――学院から働きかけのようなものはあったか」

「ないわ」

 手元のグラスのストローを摘まむ。

「びっくりするほど、ない」

「これはもう、様子見しているか、放っておいていると見た方がいいかもな」

「そうね。あんな言葉で入学式典を台無しにしたというのに、お咎めなし。おかしいでしょう」

 ウィルは澄ました顔で、フライドポテトを食べた。

「まあ、お前に何かお咎めするイコール、事件の関与を認めるってことだからな。黙ってるに決まってる」

「私もそれは考えた。だからまあ、きっとこれからも何も言われないのでしょうね」

「それならそれでいいさ。それより、面白い話を聴いた」

「何?」

「パーシヴァルが今度、北都に行くようだ」

「ルクセルグに? なぜパーシヴァルが」

 北都ルクセルグは東大陸を北上した先にある都市であり、都外研修でも行くことが出来る。事件のあった演習場にいた試験生のうちの二人、ウルスラさんとステラさんがいる都市だ。そこに、パーシヴァルが行く?

「まあ、単なる出張らしい」

「――直接話ができるチャンスということ?」

「そう、だな。まあそれはお前に判断を委ねようとは思っていたが」

 ヘヴルスティンク魔法学院は大きすぎ、パーシヴァルのいる学院長室に生徒は入ることは出来ない。そして、ほとんどパーシヴァルは公の場に姿を見せないのだった。見せるとすれば、公式的な場。議会や公式の式典などのみと話も聞く。もちろんこちらが荒々しく乗り込んでも構わないが、事を荒立てるべきではないのは道理だった。それに、そうするとしてもまだ、犯人候補の上級生たちに会いに行ってからと考えていた。けれど、もし同じタイミングで北都へ行くことができるのなら、上手く合間を縫ってパーシヴァルに会うことが出来るのかもしれない。出張ということは、支部での会議や、北都の議会出席などが目的だろう。ならば、その移動の際に話しかけるか、あるいは建物で会うことも可能だろう。

 そこで、事件について問い詰めることが出来れば……。

「いいわ。パーシヴァルと会いましょう。まず北都ルクセルグへ行き、ウルスラさんとステラさんに会って、そしてパーシヴァルの予定に上手く会話の機会を捻じ込みましょう」

「そうだな。だが、上手く行くか? そうそう、すんなり出会えるとは思えないが」

「そこは、押していくしかないわ。またとない機会だもの。なんとかここで、ひとつ解決へ結び付けたい」

「……まあな。パーシヴァルと話ができれば、もうほとんど真実に近づく」

 ウィルは目を細める。

「親父がどうなったのかも、確かめられる」

 穏やかに、ウィルは言った。

 彼のお父さんは、まだ亡くなったかどうかもわからない。だからウィルはきっと、ずっと待ち続けている。けれど、認めたくないのに、もしかしたらもう――って、思い掛けている。そして私も、きっとターナーさんは……――わかっているとわかっているのに、それを言葉にすることはなかった。それは全て予測か予想で、できれば外れてほしいものであった。ウィルはまだ待ってはいるけれど、かなりの部分で諦めているのではないか。そう思ってしまう。そして、私がハルカを失ったのと同じ立場ですでに物事を見ているのではないか。けれど――でもきっと、心の何処かでは、絶対にターナーさんの命がまだあることを願っているに決まっている。どれだけ心が、もう待ち続けることに疲れて、諦めかけていて、もういないものだと決めて、家族を失った人間として、私の心に寄り添おうとしても。だからこそ、ウィルはそれを確かめたいはずだ。その心が、いったいどちらに傾くのかを決めてしまいたい。真実が優しくあろうとも、残酷であろうとも、ウィルはただ、冷静にそれを求めるのだろう。

 ハルカの真相は、まだ先延ばしにできる。

 けれど、ターナーさんが今どうしているのか、それとも何かあったのか。

 それくらいはウィルに知ってほしい。

 そちらの方が、きっと優先すべきことだ。

「……そうね。会うことが出来れば、小さな会話だけでも、きっと大きな手掛かりになるわ」

「そうだな……決まりだ。奴がここを出るのが明日。ちょうど俺たちも三日後には、都外研修に行ける。奴の滞在期間は一週間ほどだから、なんとか機会は作れるだろう」

「申請は?」

「ああ、もう俺とお前で出しておいた。今度は向こうの過程の都合上、一か月ほどになった」

「そう。ありがとう……」

 ウィルは、そういえば、と小さく切りだした。

「先月、なんだか爆発事件があったな」

「ウィルはあの時、どうしていたの?」

「部屋でのんびりしていた。部屋の相方が、倉庫が爆発したって戻ってきたが、見には行かなかったな」

「私は見たわ。燃えているのを、クリスティン先生が消火したのよ」

「クリスティン先生か。まあ、学校一の水使いと言えば彼女だからな」

「何か、関係があるのかしら」

「爆発事件と、ハルカさんの事件が?」

「そう」

「どう、だろうな。わからない。関係ないとは思うが……」

「でも、どうして爆発したのかわからないのよ」

「確かにそうだ。倉庫が爆発するのはおかしいし、爆発する理由がない」

「誰が爆破したのかしら」

「さあな。まあ、今はあまり考えなくてもいいんじゃないか」

「……そうね。考えるだけ無駄かもしれない」






 ケイトリンには、都外研修に行くことを伝えなかった。

 彼女から言葉を受け取るのが、嫌いだったわけじゃないけど、何か居心地が悪くなるからだ。きっとまだ心配してくれているのかもしれないけれど、そして、ウィルは怒るかもしれないけれど、彼には上手くやっていると告げ、ケイトリンには黙って列車に乗った。準備はこっそり済ませておいた。朝、彼女が静かに寝息を立てている頃に、静かに部屋を出た。

 駅で列車を待っている時、ウィルは私を見て言う。

「この頃、あまり元気がないな」

「そんなことはないわ。というよりも、元気のいい私なんて、今までずっといなかった」

「そういう元気の良さじゃなく、もうちょっと落ち着いていたような。なんか今のお前、危なっかしいよな。ぐらぐらしてる感じ」

 鋭い、と認めたくないけれど、鋭い。

 あまり馴染みのない環境に、接したことのないような人に連れ込まれたのだ。そして、ここにある私が、決して私だけで生きているのではないと教えられた時、それを悟った時、それをすぐに受け入れられる器を、私が少しも持ちえていないことも知った。だから、逃げてしまった。――ケイトリンに黙って旅立つのも、逃げだ。けれど、逃げてもいいと言い訳もする。やっぱり私は、彼女と仲良くすることよりも、ずっとやりたいことがある。何よりも優先させるべきことがある。だから、彼女がどう想おうとやっぱり関係がない。そう割り切る方が、きっと何もかも生きやすいだろう。彼女は私がいなくても――いや、その方がずっと優しく、幸福な日々を送れるのだろう。こんなにも冷たくて、ひたすら復讐に身を砕く人間には、彼女のような人間は眩しすぎる。

「勘違いよ、ウィル」

「そうか、まあ深くは突っ込まないけど」

 ルクセルグ行きの列車が、白い煙を吐いて駅に滑り込んだ。 

「そう、勘違いよ……揺らいでなどいない。私は、今でも私のままだわ」

 


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